傷をつけておけばよかったかな。
紳士然とした表情で、とんでもないことを言ってのけた雲雀に、みちるは内心で悲鳴を上げつつ、雲雀から距離を取ろうと腰を浮かせじりじりと後退した。

「はっ……話し合いましょうよ!思い出があるんですから…」

雲雀は案外あっさりと、みちるの腕を放した。
黒い革張りのソファの端まで逃げていったみちるを、その場から動かずに見つめると、雲雀は「話すって何を?」と問いかけた。

「え…」
「僕はきみに話すことなんてない」

みちるは黙りこくって、何も言えずに雲雀を見つめ返した。
果たして自分は悲しいのか、ショックを受けたのか、それとも予想の範囲内だったのか、感情を分析しかねていた。

「聞きたいことは聞いたよ」
「………」
「でも言うことはない。あるなら言うし、ない時はない」

それは、その通りだと思う。
ごく当たり前のことを伝えてくれた雲雀は、周囲が考えているよりよっぽど、丁寧な人だとみちるは感じた。
言葉より先に手が出る雲雀が、みちる以外の人間にそうするのかは、みちるは知る由もないのだが。

「僕はしたいことがあるなら、したい時にするよ。ずっとそうしてきた。きみとのことだってそうだ」

雲雀はそう言い終えると、みちるの淹れた緑茶の入った湯呑みに手を伸ばした。
その右手の中指に光っているのは、雲のボンゴレリングだ。
みちるは黙って雲雀のきれいな横顔を見つめた後、自分の湯呑みの正面に座り直した。

「でもきみは、僕に伝えたいことがあるからここに来たんじゃないのかい?」

突然疑問を投げられ、みちるは湯呑みの中の緑色の波紋を見つめながら、問いの答えを導きだそうとした。

雲雀恭弥という人は、誰よりも強い人だと思う。
彼が「話すことなどない」と言うのは、きっと他人と関わることを嫌う性分だからこそ、必要最低限の時間で言葉でのコミュニケーションを終えるのだろう。
その時にしたいことをするからこそ、次回に持ち越すことなく、後悔をしないように日々を送っているのだろう。
自分本位なのは間違いない生き方なのだろうが、みちるの話を聞こうとしてくれている今、他人にも同じ猶予を与えてくれるのだろうか。
それとも、あくまでも特異な存在だった自分へ向けられた興味の一端でしかないのだろうか。
今はもう、他の誰とも変わらない、無個性の女子中学生でしかないというのに。

「……お怪我は、大丈夫ですか?」
「なんのこと?」

雲雀の両頬に貼られた白い救急テープを見ながら、みちるは小さな声量で聞いた。

「きみには大丈夫じゃないように見えるわけ?」

一瞬で距離を詰められ、雲雀は両手でみちるの頬をぐにぐにと引っ張った。ちょうど彼の救急テープと同じ位置だ。
心配したつもりが、怒らせてしまった。
みちるは「い、いひゃいです」と言いながらじたばたと抵抗した。

「きみの話したいことってそれなの?」

ぱっと手を放し、呆れたような表情で雲雀は聞いた。
時間の無駄だと言わんばかりの黒いオーラに、みちるはひいと悲鳴を上げてしゅんと項垂れた。
雲雀さんのご機嫌の空模様は気まぐれだ。自分などにはとても推し量れない。

「……わたしも、そんなにないのかもしれないです。話したいことって」

雲雀の前では正直になるに限る。みちるの答えはそんなものだった。
雲雀には話したいことがある時に会って言えば良い。
彼はちゃんと聞いてくれることを知っている。

「ご心配をおかけしたかもしれないって思って……会いたいと思って、訪ねました」

ありがとうも、ごめんなさいも、もちろんある。
だけど一番の思いはそれだった。
ディーノに言われて背中を押されたのもそうだが、きっとそれがなくても自分はここへ来ただろう。
雲雀は怪我をしていないだろうかとふと頭によぎったならば、きっとその日のうちに雲雀を探し回るだろう。

「変わらない様子でよかったです」

元気そうでよかったと、昨日の祝勝会でたくさんの人にかけられた言葉。
みちるとは違う形で、戦闘の中にいた彼が、息災で本当によかった。
雲雀は真っ先に包帯の下の傷の様子を聞いてきた。やはり彼も間違いなく、みちるを心配してくれていたのだろう。
もっともっと、話すべきことはあるような気がするが、またふさわしいタイミングがあるだろう。
今はお互い無事で顔を合わせて、並んでお茶を飲む穏やかな時間が愛おしいと思える、それだけで嬉しいと思った。

心配なんてすると思った?くらいのことを言われると思ったのに、言葉の代わりに降ってきたのは、雲雀の手だった。
みちるの頬を思い切り引っ張った白くて細い指が、今度はするりと迷いなく、みちるの耳の横を掠めた。

「言ったよね。僕は僕のしたいようにするって」

――まずい、かもしれない。
山本に抱きしめたいと宣言された時と同じ赤い警告灯が、みちるの中で光り始めた。

「僕にかまってほしいならそう言ってくれる?」
「い、い、言ってませんがッ!?」

だいたい、したいようにするって言ったのは雲雀さんのほうだ。
わたしのせいにされてはたまったものではない。

「僕に会いたいって言った」

雲雀がみちるの顔の横の髪を優しい手つきで耳にかけると、あらわになったみちるの耳が真っ赤に染まった。

「……言いました、けど……」

そのまま、雲雀の親指がみちるの耳のふちを撫でた。

「ひっ」

反射的に唇から零れた音は、恐怖に震えているだけではなかった。
みちるは焦って、強張る身体を自分で抱きしめるように、ぎゅっと小さくなった。

「きみが認めないから、教えてあげようか」
「……?」

雲雀から逃げるように、丸まるように身を固くするみちるを追いかけて、内緒話のように雲雀は声を潜めて、みちるに耳打ちをした。


「僕も会いたかった」


注ぎ込まれる声と同時に、雲雀の唇がみちるの耳にふれた。
ちゅ、という軽い音が至近距離でみちるの耳から脳に伝わる。
びりびりと電撃が走るように、甘やかな刺激が全身を支配した。
みちるは固く目を閉じて、どうにかやり過ごそうとした。
まぶたの内側は生理的な涙で満ち、ひどく熱いと思った。
そんな、全身の感覚が暴走するような緊張状態の中でも、雲雀の身体がすぐ隣にあるのを感じずにはいられなかった。

「もう触らないから、こっち向きなよ」

少し離れた場所からかけられた声に、みちるははっとして、恐る恐るまぶたを上げた。
途端に明るくなる視界の中、みちるの後方に距離を空けて座る雲雀がいた。

「………」

何も言わない雲雀に、みちるはどうして良いか判断できずにいた。
同時に、ひどくホッとしている自分に、複雑な感情が沸きあがる。

「怖い?」

そう訊いたのは雲雀だ。
みちるはイエスともノーともつかぬ、散らかった気持ちをどうにか掴もうともがいた。
何か、答えを返さなければ。

「…………雲雀さんの言葉は……嬉しくて」
「うん」
「……さわられるのは、少し、怖いです……」

素直過ぎるくらいの感情が、そのまま言葉になった。
みちるは、色々と置いてけぼりの感情があるような気がしていたが、あまり向き合いたくないと直感していた。

雲雀は少しだけ考えた後、みちるとの距離を再び詰めた。
みちるはぎくりとしながら、なんとかその場に踏み止まった。顔は上げられない。

「これからさわるよって、言ったほうが良い?」

みちるはたっぷり考えた後、硬直し、「だめです……」となんとか返事をしていた。
いつだって傍若無人な人だ。彼なりの譲歩なのか、真面目なのかからかわれているのかも、よくわからない。

次の瞬間、雲雀の手が伸びてきて、みちるの顎あたりにふれる寸前で動きを止めた。
みちるは反射的に逃げを打ち、先刻のようにソファの端まで後ずさってしまったが、雲雀の手も彼女を追った。だが、ふれることはしない。

「…ッ、」

みちるは口から出かけた悲鳴ごと息を吸い込み、浅い呼吸をしながら、定まらない視線をうろうろと泳がせた。
雲雀はどこにもふれていないのに、胸の中で心臓が暴れまわって痛いくらいだ。

「……ふうん」

雲雀の口角が、にやりと三日月形を描いた。したり顔だ。
みちるは雲雀の表情の変化に気付き、カッと頭が熱くなった。自分はこんなに恥ずかしいのに、雲雀はなぜか得意げで、悔しくなった。

「……なんですか」
「そういう顔もできるんだね」
「へっ……ど、どんな顔……ッ!」

……まずい、完全に墓穴を掘った。
みちるが一転して青い顔になると、雲雀が「教えてあげようか?」と言いながら、ぐいと近付いてきた。
雲雀の膝が、ついにみちるの膝にこつんと当たった。近すぎる。
どうしよう、ふれられてしまうではないか。

みちるが“怖さ”に身を固くし、再びぎゅっと目をつむった瞬間――コンコンコン!!と音量大きめでノックの音が、応接室に響き渡った。

「!!」
「……誰?」

咄嗟に雲雀が、みちるの口に自分の手首の袖口を押し当てた。
声を出すなということだろう。みちるは雲雀の意識が完全に応接室の扉に向いていることを悟り、静かに胸を撫で下ろしていた。
だが、雲雀の視線は相変わらずみちるに向いていた。目の奥が怖い。
勘弁してください。……わたしのせいじゃないのに。

「委員長!失礼します、例の奴らに動きがありまして、ご報告に」

この声は、風紀副委員長の草壁さんだ。
みちるが視線を扉に向けるも、動く気配はない。雲雀が合図をしないと開けられない決まりなのだろう。

「………………わかった。後から行く。何をすべきかわかっているね」
「ハッ、もちろんです。では後程!」

返事までの間がすごく怖いんですけど。
雲雀の目が不機嫌な色を帯びていく。みちるはだらだらと冷や汗が伝うのを感じていた。

ていうか例の奴らって何ですか。

草壁の足音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなると、雲雀はみちるの口から腕を放した。
みちるは「ぷはっ」と息を吐き出した。なんとなく息を止めてしまっていた。

「………」
「…………」

沈黙が痛い。
雲雀がソファから立ち上がるのを見て、みちるはその場でしゃきっと背筋を伸ばした。

「千崎みちる」
「…ハイッ」
「もう完全下校時刻になる。暗くなる前に帰りなよ」
「……は、はい……」

お……終わった。今日のミッション。
みちるがほーっと長い安堵の溜め息をつくと、雲雀は無表情のまま学ランを肩にかけ直して、言った。

「物足りなかったら、またいつでも来なよ」
「お…………お腹いっぱいです……!!」

余裕綽々な雲雀に、憎たらしさすら感じた。
心臓に悪い人なのは、変わっていなかった。こんなにスリルがある空間は雲雀の隣以外にはない。

また来てしまうんだろうな。
みちるはそれだけは確かなような気がした。断じて、スリルを欲してではなくて。


雲雀さんに話したいこと、聞いてもらいたいことがある時に、きちんと向き合って伝えたいから。

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