「あの、雲雀さん」
「何?」
「さっき、わたしの襟を引っ張ったり屋上を出て行ったりしたじゃないですか」

「怒ってませんか?」とみちるが尋ねると、雲雀は「怒ってると思ってたら、きみはそんなこと訊かないでしょ」と答えた。

「きみは、怒ってる僕が怖いんだから」
「…そんなことないですよ」

しかし、みちるは雲雀がもう怒っていないと思ったからそう尋ねた。それは確かだった。

「だから…さっきは怒っていたのかなって…」
「それを訊いてどうするつもり?」
「…わたしのせいだったら、謝りたいので…」

雲雀はみちるを見た。
少しだけ、意外だった。
みちるは気が弱い。そして雲雀は、みちるにとって恐れの対象だったはずだ。
彼女の先刻の台詞を踏まえると、今はそうでないようだが。

「…ふぅん。僕が怒っている原因、わからないんだ」
「ご…ごめんなさい」
「……強いて言えば、群れてたから」
「…だとしたら…やっぱりわたしのせいですね…」
「けど、いちばん腹が立っているのは、僕に対してさ」

「え?」みちるが聞き返す。雲雀はふっと笑うと、「まぁ、あの男が気に入らないっていうのも事実だけど」と言った。

「雲雀さん…本当にディーノさんに対して怒っていたら、屋上から出て行ったりしないでしょう?」
「……」
「もしそうなら、きっとあの場で咬み殺してたと…思って… だからわたし気になって」
「…そう」
「…どうして、自分に腹が立ってるんですか?」

「訊いてどうするつもり?」

雲雀が訊き返す。みちるは俯きながら小さな声で答える。「わたしは、何か力になれますか?」

自分が原因でないなら、謝ることは意味を成さない。
それでも、何かできることがあれば、力になりたい。
みちるは覚悟を決めて顔を上げる。雲雀と視線がぶつかった。

「厚かましいって、わかってますけど」
「………」
「今、雲雀さんの近くにいる以上は、わたし、できる限りお手伝いをしたいんです…」

雲雀は表情を変えない。
しかし、かすかに心臓の動きが、速度を増す。どくん、どくん。

どうして僕は、あんなにすらすらと、自分のことを素直に話してしまえたのだろう。
自分に腹が立っている、などと。今まで、そんなことを口にしたことなどなかった。
雲雀恭弥のプライドがそれを許さない。まず、そんなことを思うことなんて、全くなかったはずなのに。

「……きみが…」
「?」

「きみが、変えたんだ」


――千崎みちるが、この僕を、こんなにまで変えてしまったんだ。


「雲雀さ… っ、あ」

雲雀は、みちるの頬に優しく手を添えた。

このまま口付ける素振りを見せれば、彼女は逃げるだろうか。
どこまでやれば、千崎みちるは、拒絶を見せるだろうか。

みちるの頬が紅潮し、視線が泳いだ。
雲雀はそっと、みちるの頬から手を離した。
今は、もう、逃げてほしくない。けど、無理やり何かを強要するつもりもない。

雲雀は、自分でも驚くほどゆっくりと、みちるの身体を抱きしめた。

みちるは、逃げなかった。
雲雀の胸に顔を押し付けられ、みちるはくぐもった声を出す。
拒絶は聞きたくない。
みちるはにわかに抵抗する素振りを見せたが、雲雀の腕の力が強くなると、諦めたように力を抜いた。

「……どうして、逃げないんだい」
「…き…か、ないで、ください…っ」
「…?」
「…………恥ずかし…です、から…」

雲雀が身体を離し、みちるの表情を伺おうとすると、みちるはがばりとソファに顔面を押し付けた。

「顔を見られたくないの?」
「…っ、」
「答えて、千崎みちる」
「…や、やです」

「こっちを向いて」

みちるは、雲雀に背を向けたまま、ふるふると頭を横に振った。


「みちる」


みちるの肩が小さく動いた。動揺のあまり呼吸が乱雑になっている。
雲雀は頑ななみちるの態度に、目を細めて微笑んだ。
拒絶でも抵抗でもない。みちるは恥ずかしがっているのだ。
あまりにも甘い雲雀の抱擁に動揺している。こんな雲雀を、みちるは知らなかった。

雲雀はまたみちるを抱きしめた。今度は後ろから。

「…ひばり、さん… ど、どうしちゃったんです か…」
「さぁね。きみのほうこそ」
「……こ、こんな風にされたら、逃げるなんて… で、できる、わけ」

雲雀がみちるに与えたのは、逃げる猶予。
だが、いつもと違って余裕を見せる雲雀に、一種の切なさのようなものを感じ取ったみちるは、

彼に、強烈な引力で引き寄せられて、逃げることなど不可能だった。

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