先刻の「どすん」は、ディーノが背中を壁に打ち付け、尻餅をついたときの音だった。
ディーノは軽くむせていたので、呼吸が整うまで、みちるはロマーリオと共に、彼の傍に、ただ立っていた。

「本当にごめんなさい…」

項垂れるみちるに、ディーノはいつものようにアイドルスマイルを向け、「いやいや、こっちの台詞だっての」と言った。



「ところであいつはどこに行ったんだ…」

ディーノがため息をつきながら呟いた。

「仕方ねぇなー…、ぼちぼち探しに行って、また午後から修行再開ってことにすっか」
「あ、あの、だったらわたしが伝えてきましょうか…?」

みちるがおずおずと切り出すと、ディーノはおどろいたような表情を浮かべ、ロマーリオは悪戯っぽく笑った。

「もうお昼ですもんね。わたし、雲雀さんにお昼ご飯届けないといけないし」
「ああ、なんだ、それ買いに行ってくれてたのか」
「あっ、そうです、お二人の分もありますから!」

みちるが缶ジュースをディーノとロマーリオに渡すと、二人は同時に吹き出した。

「え?なんですか?」
「ぷははっ、ああ、悪いな。みちる、お前ってほんとしょーがねぇな」
「はぁ…」
「緊張感ねぇし、可愛いし、なんかほんとたまんねぇ」
「…ディ、ディーノさん、そういうのこの国では女たらしって言うんですから…」
「え、いやいや、ほんとだって!」
「ハハ!みちる嬢がそんな風に返すの初めて聞いたぜ。ボスもまだまだってことだな」
「ロマーリオ…お前なぁ…」

しっかりどきどきしてますとも!!
…なんて、悔しくて口が裂けても言えないみちるだった。
包容力があり大人なディーノは、他の面々と違い、みちるに猶予を、逃げる隙を、与えてくれる。
みちるは、そんなディーノの存在があたたかくて、傍にいるのがとても好きなのだった。



応接室と札の下がった教室の白いドアをノックする。
返事はない。いつものことだ。みちるはそろりと引き戸を開け、中を覗き込んだ。

「何の用」

声のトーンが低いのもいつものことなのだが、今日はなんだか、不機嫌が上に乗っかっているような気がする。
雲雀は革張りのソファで読み物をしていた。みちるは扉のところから動けずにいた。

「あの、雲雀さん… これ、お昼ご飯です」
「そう」
「…え、えっと…」

どうしたらいいのか。歩いていって手渡していいのか。それとも扉に引っ掛けて去ろうか。
いや、応接室に足を踏み入れた以上、後者は失礼にあたるだろう。しかし雲雀からガンガン出ている不機嫌オーラに、みちるは逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

「…何を固まっているの」
「え、あ、」

いつの間にか、雲雀は呆れたような表情でみちるのほうを見ていた。
みちるは、そんな雲雀の表情に、妙な安心感を覚えた。子どもを見るようなそれ。
雲雀は雲雀で、みちるのわかりやすい焦ったような表情に毒気を抜かれてしまったのだ。

「そんなところにいつまでも立っていないでよ。僕がきみを苛めたみたいだろう」
「あっ、えと、す、すみません」
「……こっちにおいで、って言ってるんだよ」

雲雀は腰を浮かすと一歩左に移動し、またソファに腰掛けた。
そして、ポンポンと、ソファの右側に一人分空いたスペースを叩いて見せた。
みちるはおずおずと歩を進める。雲雀が口許だけ笑った。みちるの心臓が、小さく疼いた。

「…失礼します」
「どうぞ」

怒ってない…のかな?
みちるは雲雀の表情を控えめに伺う。雲雀は無表情だった。彼の視線はまた手元の日誌へ落ちている。

「何」
「へ!?」
「今、僕の顔を見ていたでしょ」
「なななんでもないです!なんでも!!」
「…きみは、どうしてそうわかりやすいの」

雲雀にしっかり顔を見られ、みちるはばっと顔を逸らす。
雲雀は呆れていた。しかし、笑ってもいた。

この子は、何も変わらない。
知っていた。
千崎みちるが、誰に対しても優しく、公平で、馬鹿みたいに一生懸命であること。
自分は、彼女のそういうところが、気に入ったのに。
やっかいな感情が、同時について回るようになってしまった。

例えばさっきの男に向けた彼女の優しさが。
例えば沢田綱吉に向ける彼女の笑顔が。

「気に入らないな」
「え…?」
「…なんでもないよ」

自覚する度にうんざりする。
どうしてこんなにも心揺さぶられるのか。

「…あの、わたし何か…気に入らないことを…」
「してない。気にしなくていい」
「…そ、ですか…」

そうやって、きみは僕にだって気遣いを向ける。
だから僕も、ほんの少しだけでも、乱暴でない“力”で、きみを大切にできたら――
…なんて、どうして思っているんだろう。
こんなどうしようもないちっぽけな女の子一人に、どうして。

「あ!そうだ、ディーノさんからの伝言なんですけど」
「ディーノ?」
「さっきまで貴方が闘っていたお兄さんです」
「じゃあ聞きたくない」
「き、聞いてください!午後から修行再開です!」
「きみは昼食を届けに来たんじゃないのかい?」
「あ、それもありますよ…」

みちるは購買で買ってきたパンと飲み物をテーブルに並べた。
雲雀はわかりやすく不機嫌な表情を浮かべた。みちるは思わず、ソファに座ったまま雲雀から離れた。

「今はパンを食べる気分じゃないな」
「…予想はしてたんですけど…他になくて……」
「きみもここで昼食を摂るのかい?」
「あ、はい」

みちるが鞄の中から弁当箱を取り出すと、雲雀はそれをじっと見つめた。

「それ、ちょうだい」
「えっ…た、足ります?」

みちる一人分の弁当は、雲雀には恐らく少ない。
雲雀は「足りる」と言いながら、さっさとみちるの箸を右手に持った。

「…雲雀さんが“ちょうだい”って、なんか可愛いですね」
「僕はそうは思わないけど」
「さいですか…」

あまりの一刀両断にみちるは苦笑した。
雲雀と昼食を交換する形になってしまったようだ。みちるはそっとパンの袋を開けた。

 | 

≪back
- ナノ -