山本くんが、任務に戻ると言った。


約二ヶ月ぶりのことだ、と沢田くんが教えてくれた。
この二ヶ月の間、すっかり意気消沈していた山本くんと比べると、だいぶ背筋がしゃきっとしている。
けれど、やはり何か暗い影を背負っていることは明らかだった。

「千崎さんのおかげだね」
「っ、いいえ、あたしは何も…」

あたしはというと、そんな山本くんとは対称的な気持ちだった。
もちろん彼が無理をしていることはわかっている。
あんなトラウマを背負って、任務が怖いわけはない。
沢田くんの励ましにも、あたしは上の空で応えていた。

「…あたしの役目は…終わりましたか?」
「……」
「ねえ、ボス」

「それを決めるのはきみ自身だ」と、沢田くんは言った。
“ボス”――マフィアの存在に違和感を覚えなくなったあたしを牽制するように、遮るようなタイミングだった。

あたしが知らない24歳の沢田くんはいつになく、悲しそうな瞳をしていた。



どうしてあたしはここにいるんだろう。
どうしてあたしは、ここに来てしまったんだろう。
こんなに周りを苦しめて、自分もこんなに苦しい思いをして、それで何も得られないなんて、

人生って残酷ね。…ううん違う。あたしが、あまりに非力なんだ。




守護者たちは揃ってアジトを出て行った。
一人になったあたしは、フゥ太くんに声をかけられるまで、彼らが出て行った出入口を見つめて動けないでいた。

「みちる姉、大丈夫?」
「……うん」
「嘘つかなくていいのに」
「そんなんじゃないよ」
「つらいなら泣いたらいいんだよ」
「そんなに泣き虫じゃないもん」

「…ねえみちる姉」フゥ太くんの大きな瞳にあたしが映っていた。「もう、帰りたい?」


涙も心も、からからに乾いていた。
思考は動かなかった。あたしはどうしたい?  わからない。





定時――いつも、山本くんと連れ添って病院に向かう時間。
あたしは反射的に立ち上がった。
…行かなくちゃ。


空は快晴。
整備された病院の中庭は、相変わらずきれいだった。

一人で横切る、右側が寂しい。
思っていたより足取りはしっかりとしていた。
あたしはまだやり残したことがあるような気がした。


「みちるおねえちゃんっ!」


背中に何かがぶつかったと同時に飛んできた、女の子の声。
抜け殻状態だったあたしは、一気に熱を取り戻した。そのくらい、驚いたのだ。

「…ルリちゃん…」
「おねえちゃん」

ルリちゃんは、無理やり顔に貼り付けたような笑顔だった。
あたしがそうさせているのかと思ったら、ずきずきと胸が痛んだ。

「久しぶりだね、ルリちゃん…」
「…うんっ!」

ルリちゃんに正面から向き合うと、小さな彼女はあたしの腰にぎゅっと抱きついた。
笑顔は少しだけ綻んだものに変わっていた。

「ルリちゃん…駄目だよ」
「? なにが?」
「お母さんに…怒られちゃうでしょ…?」

あたしは、目線を合わせるためにしゃがんだ。
真っ直ぐ見つめたルリちゃんの表情は、笑顔から泣きそうな顔に変わった。

「どうしておねえちゃんまでそんなこと言うの」
「…?」
「おねえちゃんはルリのこと、きらい?」

あたしがふるふると首を横に振ると、ルリちゃんは眉をむっとつりあげた。

「ルリもおねえちゃんがすきだよ、おとうさんとおかあさんと、おなじくらい」
「……そんなこと…」

「ルリね、おねえちゃんに会いたかったんだよ。おかあさんにだめって言われても、おねえちゃんに会いたいっておもってたんだよ」

小さな両手をいっぱいに広げて、ルリちゃんはあたしの首にぎゅっとしがみ付いて抱きしめてくれた。

「おねえちゃんもルリに会いたかった?」
「…うん、すごく…会いたかったよ…」
「じゃあ、なんで笑ってくれないの?会えたのにどうして?」

あたしの頬に触れながら、ルリちゃんは苦しそうな表情をしていた。

「おかあさんといっしょだね」
「…?」
「おかあさんはおねえちゃんに会いたくないみたい」
「…うん」

「だからルリ、きいたの。おかあさんはみちるおねえちゃんがきらいなの?って。そしたら、『だいすきだけど、会えないのよ』って言ったの」

ルリちゃんは続けた。「おかあさん、笑ってたよ。だけど、ちっとも、笑ってなかった」


…息が止まるかと思った。
全然、意味がわからなかった。
アザミさんはルリちゃんとあたしを会わせたくないはずだ。だったらあたしを好きと言うメリットが見つからない。

「ルリね、おねえちゃんのやさしいところがすきだよ」
「…っ、…」
「おかあさんみたいに、たくさん笑ってくれるところがすきだよ」

――ルリ知ってるよ。おかあさん、ほんとはすごく泣き虫なんだ、だけどいつも笑ってるんだ。


あたしは、目の前の小さな身体を抱きしめた。

涙を上手に隠す方法を、あたしもアザミさんも知らないんだ。
作り笑顔なんて、いちばん大切な人から見れば、すぐに嘘かホントかわかるのにね。

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