病室の外から、さっきのおばさんのすすり泣く声が聞こえた。
話はまとまらないまま、彼女たちは病室を出て行った。
あまりにおかしな…いや、ありえない展開に、わたしは頭がついていかない。
泣けないし、不安を感じる余裕すらなかった。

わたしには、あのふたりの記憶が全くない。
だが、あのふたりにはわたしの記憶があるという。
でも、これはただの記憶喪失なんかじゃない。

問題は…わたしの持っている“家族”の記憶の中に、彼らが存在しないことだ。







おばさんがどうにか落ち着いた頃、わたしはその旦那さまであるおじさんと、話をした。
彼女が狂ったように動揺したこと、その理由を全て理解するには、わたしには、彼女たちの情報が足りなさすぎる。

おじさんはわたしのことを“みちる”と呼んだ。
名字は千崎。フルネームは千崎みちる、そう、わたしの名前。
間違いない。トラックに轢かれる前から、わたしは千崎みちるだ。
そして、目の前にいるおじさんも、今はまだショックでこの話に立ち会えないおばさんも、千崎という名字だと言った。

彼は、わたしのことを、自分たちの“娘”だと言った。

それは、おかしい。
13年間の人生を生きてきたわたしの両親は、この人たちではないのだ。
トラックに轢かれたことで、記憶がどうにかなってしまったのだろうか。

「…あ、の」
「なんだい?」
「…わたし、…忘れてしまったとかじゃなくて、知らないんです」

わたしの中に確かにある両親の記憶。
…正直、いい記憶ではない、のだ、けれど。
愛されてない毎日がつらくて、いつも何もかもを適当に、目立たず静かに生きてきた自分。
ああ、だからさっき目覚めたとき、生きていたことを喜べなかったのかな。
もしかしたら、トラックの前から動かなかった足は、死ぬことを求めていたのかな?

「…どうしてだか、わからないんですけど」

どうして知らない人が両親になっているのか。
もしかしてわたしは、死にたいあまり、別の世界に来てしまったのか…


「…でもきみは、わたしたちの娘のみちるだよ」
「え?」
「外見と声は…と付け加えておくが、ね。どうやら持っている記憶はまるきり違うようだし」

少し前までお医者さんとの三者面談だったのだが、今はおじさんとふたりきりだ。
ただの記憶喪失ではなく、違う記憶を持って目覚めた少女。お医者さんもさっぱりという顔をしていた。
後で聞いたことだが、わたしはトラックに轢かれてから約一年間も、この病室で眠り続けたらしい。
一年ぶりに目覚めた娘が、違う人間だった…ということになるのだろうか。

「みちる、さん」
「…はい」
「もしかしたら、わたしたちの娘の“みちる”は、死んでしまったのかもしれない」
「そ、んな」
「けれど、また家族として生きていったら、どこかに置いてきた記憶を取り戻すかもしれない」


“一緒に帰ろう、みちる”



控えめに笑うおじさんは、きっと大きな覚悟を持ってその言葉を紡いだのだ、
死んだ娘の“みちる”、同じ姿・同じ名前を持って現れた違う人間の“わたし”。
家族として迎え入れてくれたおじさんは、この世界は、


…やはり、わたしの生きていた場所では、なかったのだ。

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