彼を、好きになるのはいけないことなんだって

君はそう言ってさめざめと泣いた
小柄な体躯をさらにこじんまりとさせて。苦しそうに時折嗚咽を漏らしながら、僕の服の裾を握りしめて、まるでこの世の誰よりも可哀想な誰かのように
可哀想だね、辛かったね、無理しないでね
そんな在り来たりな言葉ばかりが口をついて出る


君の流す涙が、誰のためのものなのか
そんなことは部外者だといわれる僕にも分かっていた。可哀想な人だ。消化されることのない毒が身体を巡り、犯されるよう

君はあの子が好きなんだろうね
救われない、惨めな思いで毎日を過ごしているのだろう。何より近い君たちは、何より触れられない何かを隔てて生きている


今日は、今日こそはって思ってたんだよ。今日こそはこんな思い忘れてしまわなくちゃいけないんだって、こんなのはいけないことなんだって、そればっかり。あいつを好きになんてなりたくなかった。私はそんな惨い奴じゃない。醜くなんてない、認めたくない、知りたくない


仕事に支障をきたすこと、生き死にを依り代に生きる彼らの重荷になること、弱みを曝け出して生きることへの恐怖
振り絞ったような助けてが、僕に突き刺さった


背中に回る華奢な腕が僕を締め付ける。僕のぺったんこな胸に顔を埋める君はいつの間にか泣き止んでいた。僕の腕はだらりと力のないまま垂れ下がっているけれど、君はそんなことをお構い無しにねぇ、ねぇと甘えた声をだす。大好きで自分を殺してまで愛した彼を好きになるのはいけないことだから、都合の良い僕を好きになるんだって。それが彼への延いては彼らへの贖罪になるから
可笑しな人だ。馬鹿な人だ。惨めで哀れな、そんな人

自分のものなのにプラスチックでできているような、偽物みたいな腕をゆっくりと持ち上げて、君の頭に手をまわす。はじめて出会ったころから何一つ変わらない黒髪がさらりと揺れて、硝煙が香った。死に近づいて、それでも生きていく僕達の匂い

可哀想だねって声を漏らして、君の唇をそっと奪った。体温なんて、分からない。分かったのは君の唇の薄さと、涙に濡れた睫の長さくらいだ



こんな馬鹿げた話、笑い飛ばせばよかったのに。笑い飛ばして冗談でしょって、また友達として旅行にでも行こうよって

そうしなかったのは君のその不思議な体質のせいなのかなとか、或いはその綺麗な顔のせいなのかなとか。それなら押し倒してマウントをとってぐっちゃぐちゃになるまで、例えばしゅっとした鼻っ面をへし折ったり、ぱっちりしたお目目を腫れ上がるほど殴りつけて薄い唇が裂けるまで踏み躙って、そんなことしたら昔のようにいられるのかなとか
そんな有り得もしないことを考えて


何にも知らなかったあの頃に戻れたなら
こんな感情跡形もなく消してしまえたなら
そしたらこんなことには、って
そう言って泣く君が、こんなにもこんなにも





(ただ、君の幸せを祈っている)