葵皇毅の賃仕事
いらっしゃいな、と奥方が手招いている前で皇毅はフイと絡まってくる視線を逸らした。
「私の書体は女人の文には向きません。他をお探しください」
丁寧に、やんわりとした口調で最後に余計な一言をつけ加える。
「もっとも、居ないでしょうけれど…」
−−−袖にした上に馬鹿にしている
その場にいた絵師達は静かな皇毅の物言いに耳をそばだてた。
奥方は経験したことのない暴言に茫然とするが、ハッと我に返り唇を歪めた。
「無愛想な餓鬼はクビにしないとならないわね!」
これは旺季様に土下座だな、と皇毅もこの賃仕事に見切りをつけ、これ以上此処にいても仕方ないと踵を返して自ら作業場を後にする。
今しがた渡ってきた長い廊下を戻り、邸の主人が住まう室の扉の前に立った。
しかし扉を叩こうとした所で皇毅の指先が止まる。
−−−今度の取り引きは、……
−−−例の品は官吏が……
−−−御史台の動きを、……
(御史台だと……?)
扉の向こうから聞こえるやり取りが内容は定かではないが細切れに端々が漏れてきた。
(例の品………、御史台…やはり何かある)
急に冷静になりスッと音を立てず扉から離れ、辺りを見渡す。
対面の作業場から此方は見えないのが好都合だった。
近寄るなと言われた倉に答えと証拠が揃っているに違いない。
皇毅はそのまま中庭に降り、死角になりそうな壁に沿い邸内を進むと身を臥せた。
視界が開けると、ひと気がないと思っていた邸内に徘徊する多数の男が見える。戟や大剣を携え倉の周囲を取り囲んでいた。
差詰め倉を守る用心棒といったところだろう。
これは相当な『当たり』に潜り込んでいる。
皇毅は思わずニヤリと笑った。
「一体そこで何をしているのかしら」
振り返ると華奢な扇をハタ、ハタと扇ぎながら袖にされた奥方が見下ろしていた。
皇毅は至って涼しい顔で立ち上がる。
「貴女の室を探しておりました。室の前でお待ちしようと思いまして」
「ハァ?アンタはクビだって聞こえなかったかしら、こんな場所まで来て主人に報告しないとね。舌が無くなっちゃったら御免なさいねぇ」
それとも目かしら、と奥方が面白そうに指を指すと皇毅はその手をとった。
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