修羅場の夜
「御託はもう結構だ。札を渡せ」
「大切な札ですので万が一にも暗い中で落としたらいけません。葵家に到着しましたらお返し致します」
絶対に札の文字を読んでから返す。
身ぐるみ剥がさないと出てこない所に札を隠した玉蓮はそう言うと離れるように端に寄った。
その姿に算段違いを食らった皇毅は眉を顰めた。
これはもう、全く信じられていない。
恐らく仕事で使う札だという話も嘘っぱちだと思っているに違いない。
そう、お察しの通り通行札など嘘っぱちだ。
否、半分は合っている。
コウガ楼の番頭が玉蓮に何を渡したのかは察しが付いていた。
おそらく妓女胡蝶から指示されていたのだろう。
胡蝶の後ろには晏樹がいるので、あの妓女に不始末の追求は出来ない。
玉蓮が握っている札
それは選別された客のみが使用できる『コウガ楼の常連札』
息抜きというよりもコウガ楼の客を監察するために使っていた札だったが、それを突き返されて出禁になったのだろう。
妓女に恥をかかせた上に、今思い出したが金も払って来なかった。
どうせ晏樹が「皇毅が此処をウロウロするの嫌だ」とかダダこねたのだろう。
此方は出世したので部下を潜り込ませるので結構だ。
しかし贔屓にしていた妓女には最後の詫びの品でも届けようと思っていたがそれすらどうでも良くなった。
『御史台長官は見たとおりの冷徹クズ男』という烙印捺して手を引いてもらうとする。
三下奴らしいみっともない幕引きを用意してくれたものだ。
考えながら再び玉蓮へと視線を向ける。
識字出来ても恐らく札の意味は分からないのだろう。
しかし執念深そうなので札の文字の意味を探ってくるに違いない。
その前に札を取り返して燃やしたいだけだ。
(つまり妓楼遊びを知られたくないだけか…)
ガクリ、と頭を垂れる。
自分にも人間らしい修羅場があったとは…。
そんな哀愁らしきものを感じ入りながら暫く無言になる。
取り返す為に向かってくると思っていたのに案外素っ気なく静かになった皇毅の様子を対面から眺めていた玉蓮はホッと胸を撫で下ろした。
「もうじき葵家に到着致しますので私は軒を降ります」
「何故だ」
「胡蝶さんから文を頂いたのですが、凰晄様にコウガ楼へ琵琶の練習に行くと申し出せず壁を乗り越えて来たんです。ですから帰りも壁を乗り越えてコッソリ帰らないとなりませんので」
「勝手にしろ。札は今返せ」
玉蓮の仰天顛末は丸無視で皇毅は淡々と手を出した。
既に彼女の奇行に慣れつつあった。
コウガ楼でヘタクソな琵琶が聞こえて来た時もこの女ならやると思って猛進したのだ。
「何回言わせるんだ。早く札を差し出せ」
うっかり凡庸な悪役台詞まで吐いてしまった。
そんな皇毅に対し玉蓮は眉を八の字に下げてチラリ、と軒の扉に目を向けると皇毅の頭が回転する前に扉へ手を掛け軒から外へ飛び降りた。
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