去る者追わず


そんな胡蝶に皇毅が鬼のような視線を向けた。
玉蓮がコウガ楼に勝手に出入り出来るわけが無い。この胡蝶が引き入れたのだろう。

どうやら室には二人だけのようだが、コッソリ男と会わせる為でなければ一体なにをしているのだろうか。


『秘密の特訓』


「まさか、此処で琵琶の練習をしてたのか」

怒り口調で言い放ったのに図星の様相で玉蓮は頬を赤くした。
確かに聴くに堪えないヘタクソな琵琶を妓女に指南して貰っていたで筋は通っている。

しかし皇毅はこのオチにあからさま不自然さを感じた。
琵琶の練習を、妓楼が活気に溢れ忙しい時刻にやるわけがない。しかもコウガ楼最高位に立つ胡蝶がこの時刻に琵琶の練習に付き合うはずがない。

(この二人のうち、どちらか嘘を吐いているのだろう)

それは琵琶の練習をする玉蓮なのか。
琵琶の練習に付き合っている胡蝶なのか。

どちらかが、振りをしているだけだ。
それに気がついて奸計を暴く様相を呈してきた皇毅に胡蝶がとどめの一言を至極優美に言い放つ。

「ところで長官様はお帰りの際、室代しっかり払って行ってくださいませね?」

「私は客で来たのではない!」

嘘だった。

残念な事に皇毅も寒い嘘を吐く羽目になっていた。
しかしそんなこと胡蝶は百も承知なのだろう。

だからわざと室代の事を口に出したのだ。
すっかり皇毅が仕事中であると勘違いしている玉蓮が話に入ってくる。

「室代ってなんですか?私は泊まらず帰りますけど」

琵琶を抱えて不安そうにする玉蓮には意味が分かっていないようだった。
しかし胡蝶がもう二三言漏らせばすっかりバレるだろう。

「仕事は終わりだ。邪魔してないで帰るぞ」

皇毅は急いで玉蓮の腕を掴んだが、私はまだ練習の途中ですと腕を引き戻された。
嗚呼、面倒だと皇毅は強引に玉蓮を抱きかかえそのまま扉を開ける。

視線を上げると対岸に妓女が見えた。
室に置いてきた妓女が対岸の際に立って此方を見つめている。
無理もないが皇毅を追ってきたようだった。

しかし意中の相手は妓女には一縷の情も動かされなかったようで、腰にさしていた自分の扇を広げると抱えている女の顔を覆い隠す。

顔を見せまいとする行動に対岸の妓女の唇と拳に痛烈な痛みが走った。

素っ気ない客だが贔屓は変えない男だったのに。
それなのに、きっともう此処には二度と来ないのだろう。
妓女の矜持の痛みと握った拳に爪が当たり鮮血が床に滴る。

どんな素性かは分からないが毒でも盛ってやりたい。

大切な客を奪われた。

妓女は虚ろな瞳で傷ついた自分の手を眺めた。
これからも美しい夢の世界に生きなければならないのにあの男のせいで怪我をしてしまったではないか。

しかし夢を終わらせてくれるのは彼では無かっただけだ。

そう、それだけ。

夢ではなく現実の世界にいるだろう彼女は皇毅に抱き抱えられてさぞ幸せだろうが、きっと現実も夢と同じくらい残酷に違いない。

残酷であればいいと、ぽつりと考え妓女は何事もなかったかのように踵を返した。




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