去る者追わず


手中から滑り落ちる酒杯が床に落ちた音は聞き逃したが、円を描きながら転がる金属音が漸く耳に届く。
皇毅は我に返った様に床へ目を向けた。

未だに中身を吐き出しながら床を回転している酒杯を見つめ、鉄器で良かったと安堵する。
コウガ楼の酒杯は高価なものなので割ってしまっては立場がない。
拾い上げるために身を屈ませるとまた件の音色が室内に漂って来た。

(………間違いない、あの琵琶)

素っ頓狂な音は絶対に玉蓮のものだと確信する。
午ならまだしも夜のコウガ楼で一体何をやっているのだろうか。

しかし音を頼りにノコノコ出向いていいものだろうか。
このまましらばっくれて皇城に詰めていたという事にしておいた方が良いのではなかろうか。


−−−−−何故ならば、

−−−−−此処が浮気現場だからだ

(いや、待て……)

そもそも妻ではない者に咎められる筋合いなどない。
このまま知らぬ振りして逗留した方が逃げきれるだろう。

そう結論づけたにも関わらず、皇毅はいつの間にか下手くそな琵琶の音色がする室の扉の前に立っていた。
考えつつ、猛然と音色が響く室へ向かって突進していたのだ。


−−−−−何故ならば、

−−−−−男と逢っているかもしれないからだ


扉の中からは件の音色。この室に間違いない。
妓楼の個室を勝手に開けるなど前代未聞の不作法だが、万が一には監察官の振りをしてやりすごせばいい。
罰金とコウガ楼出禁くらいでカタはつけられるだろう。

彼女が他の男と密かに会っているなどあり得ない。
しかし、もしそうならば。
一縷の邪推で怒り心頭していた。

前触れもなく蹴破る勢いで扉を開けると、室内には琵琶を抱えた玉蓮が零れんばかりに瞳を見開き口をポカン、と開けていた。

「へ、?………こ、皇毅様?」

声も、姿も、間違いない。
着飾った絹の衣ではなく、いつも通りの侍女のような服を着て琵琶を弾いていた。

皇毅はポカン、とする阿呆面を一瞥し声を掛けるでもなく目を眇め室内を見渡す。
そのまま断りもなくズカズカと室内に進入し、屏風や棚を動かしだした。

室内に男が隠れていないか満遍なく探す自分の姿が異常なものになっているなどどうでも良かった。

髪の毛一つとして見逃すものかと床にも目を向ける。

「皇毅様、こんなところでどうされたのですか?また何か捜索中ですか」

二人の視線がようやく合った。
浮気相手が隠れていないか捜索中だと口を開く前に、鈴の音のような笑い声が室の隅から響いた。

いつからいたのか、否、最初からいたのだろうコウガ楼の胡蝶が優雅に椅子に凭れてそんな二人をとっくり眺めて笑っている。

「あらあら、秘密の特訓だったのに見つかってしまったね。上手になったら聴かせたい旦那様が来てしまったけれど、どうしようか玉蓮さん?」

呆れるような溜息まで優雅だった。




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