後宮の兵法
臥台に座る皇毅の横にちょこんと腰掛け手をすり合わせる。
指先を温めてから無言で差し出される手首に振れた。
瞳を閉じて脈診するその様子を皇毅は静かに眺めていた。長い睫毛が時折動いてまた閉じる。
きっと彼女は嘘の診断は言わないだろう。
親の仇だと疑い戻ってきたならば、医術を利用して脅してもいいだろうし命を狙ってもおかしくない。
けれど不思議と医術を悪用することはないだろうと感じていた。そんな女だったなら最初に会った時情けをかけたりもしなかったろうし、邸に連れ帰ったりはしなかった。
「どうだ。今にも死にそうか?」
「お疲れのご様子です。薬湯を煎じお灸も効きますので準備させて頂きますね」
淡々と告げて立ち上がる医女だが簀巻きにして浚ってきたのに逃げられてなるものか。
皇毅が腕を伸ばすとするり、と避けられた。
「また逃げる気か。いい加減逃げるか傍にいるかどっちかにしたらどうだ」
「あら、医女の脈診をご所望でしたのに何か他に下心でもおありですか?本来私は高貴な女性を診る医者ですので特別に診て差し上げているのに、今度私の事妓女扱いしたら承知しませんからね」
ぷい、とそっぽを向けると皇毅は黙る。
こんな夜更けにご当主様の室に呼ばれたなど下心か何故か殺されると相場が決まっているのに、本気で怯えてるならば何故全力で逃げないのだろうか。
(この奇妙な関係……どこかで、聞きかじったような……そうだ、)
「欲檎姑縦……」
ぽつりと呟くと玉蓮の身体はその言葉に反応したようにびくり、と跳ねた。
「皇毅様…、何故その言葉を」
「兵法を学んだ者はみな知っている」
そう、この教えは兵法の書にあるそう特別でもないものだが何故今この言葉が浮かんだのだろうか。
誰かがこの言葉を使って何か言ってきたような気がしたからだ。それに玉蓮が盛大に跳ねた事により『後宮』という場所が思い出された。
「この教え、後宮にいた女官どもが手練手管の言葉として使っていやしなかったか?『得難い者ほど愛される』そういう意味でだ」
とある御史が女官と通じていた際、双方捕らえて尋問した事があった。
その時に御史から情報を搾取していた女官がそんな言葉を言っていた。
「……そ、そうでしたっけ、戦の書など読んだことございませんので私には何の事だかさっぱり」
玉蓮は後宮に医女官として仕官していた頃、上級女官達が話していた事をよく耳にしていた。
『たとえ意中の方であっても簡単に相手に気持ちを許しては駄目よ。得難い者ほどより気に掛けて貰えるし愛されるの。兵法でいえば欲檎姑縦といった所かしらね』
風紀医女で名高かった玉蓮だったが、女官達の手練手管には感心していたのでよく聞いていた。
「お前後宮にいただろ。まさか真似してるのか」
「え、……そんな…」
玉蓮はよろりとよろめくが、その身体は力強い腕が瞬時に巻き取られ、瞬き一つのうちに臥台の上に押し倒された。
(何……?)
何が起こったのかさっぱり分からない玉蓮がぱちぱち、と瞬きしていると皇毅が上に乗り上げてきた。
「意中の相手に仕掛けるそうだな?」
「皇毅様?」
こぼれんばかりに瞳を見開いて驚く玉蓮はこの張りつめた空気に覚えがあった。
これは以前お互いに想いが通じ合っていた時に皇毅が向けてきた強引な欲情だった。
昨日まで横に寝ていても手を出して来なかったのに、のらりくらりとした空気が一変している。
ここでなし崩しになってはいけないと玉蓮は腕を押し返そうとするがその腕は全く動かなかった。
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