食医として傍に
本当に薬湯風呂を作るつもりだろう、玉蓮が急いで東偏殿へ薬草を取りに向かう様を回廊から眺めていると、偏殿から火桶を持った凰晄がやってきた。
ドスン、と火桶を足許へ置いて無言で様子を窺っている。沈黙に負けたのは皇毅の方だった。
「何をぼんやりしている。あの医女、今度は風呂を草まみれにするようだぞ、早く止めてこい」
顎で追い払うが凰晄は鼻を鳴らして袂から料紙を取り出した。
「別に草まみれにされても構いません。どうせ入るのは貴方だけですから。それより鄭尚書令から文が届きましたぞ。朝議どころか一日すっぽかしたのがバレたんじゃありませんか?ご愁傷様なことです」
はいどうぞ、と渡された。
こんの……家令。
「一日居ないだけで呼び出し掛かかるなら、どこぞの門下省次官はとっくに白絹渡されてにっこりされている」
そして笑顔のまま椅子を蹴り倒そうとする悠舜と、焦る晏樹の姿が勝手に脳裏に浮かんできた。なかなか傑作だった。
「文が来ることは予想していた」
意外に心配症な家令を安心させる為伝えておく。
本日伺うと通達しておいたのに、玉蓮と午寝をこいてしまったのでゆけなかったのだ。
文を開くと火急の内容でなければ後日改めて話をきくと流暢な文字で書いてあった。
なにかあったのではないかと心配して文をよこしてきたのだから返事を書かねばならない。
無論、午寝していたとは書くわけもなく、それらしい内容を適当に認めて凰晄へ手渡した。
「ありがとうございます。では鄭尚書令へ届けておきます」
一礼して去ろうとする凰晄は玉蓮の事は何も訊かなかった。
まるでいることが当たり前になったかのように、その振る舞いは『いてもいなくても同じ』にも見えるし、玉蓮を迎え入れたようにも見えた。
おそらく凰晄の本音は今は引き出せないだろう。
彼女なりに辛辣な思いを経て今の対応に落ち着いているようにも思えた。
そんな事を考える皇毅の眸に湯殿から立ちこめる煙が映る。同時に不気味な臭いが此処まで流れてきた。
逃げるか、叱責しにいくか。
寸毫迷うが、皇毅は湯殿へと足を向け猛進する。
曇り硝子がはめ込まれた湯殿の扉を開けると、薬湯の臭いが一層きつくなった。
薪をくべて火をおこした家人がいるはずだが、どうやら火を起こしてそそくさと逃げ出したようだった。
湯殿には湯女というより、風呂職人のような玉蓮が額に汗して待っていた。
「皇毅様、初めてにしては上出来です!」
「嘘吐け、誰が入るか」
じゃあ何で来たのだろう……。
そう、風呂を台無しにされた事を叱責しに来たのだ。
「この薬湯は身体に溜まった毒を排出する助けになります。私を医女と認めているならば従ってください。必ず体調をよくしてみせます。掬ってみればそんなに酷い色ではないのですよ」
浴槽の縁で薬湯を掬って見せている玉蓮の横に注意深くしゃがみ込み、茶沼と化した湯船を見下ろした。
やはりとても浸かる気になれない。
「これは、何を入れたらこうなるんだ」
「此方はですね!」
生き生きと説明しようと油断する玉蓮の肩を皇毅は思い切り風呂めがけて押し倒した。
「きゃ、!」
哀れ玉蓮は風呂の中に転落しそうになったが、皇毅の袂をしっかりと掴り締める。
「……!」
あまりのことに声を出せぬまま、ドボン、と低い音と共に銹紅の中へと二人して転がり落ちた。
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