陽が落ちて始まる
確かに覆面である官吏達が一番嫌うのは自分の身分と本当の名前が露呈する事だ。
それは仕事に差し障るだけでなく場合によっては命に関わる可能性があるからだろう。
御史台のことは詳しくないが、後宮へ仕官する為の教育で、官吏達を官職でなく名前で軽々しく呼んではいけないと教わっていた玉蓮は、無意識に清雅の名を口にする事を避けていた。
皇毅の事も彼が命じるまで御史大夫で通していた。
「ねぇさんったら賢いわ〜!あの監察御史の名前を言ってたらすぐに牢屋行きだったかもよ」
意外そうな表情の理由はそんな事だったのか。
私にだけコッソリ名前教えて?
そう耳を近づけてくる妓女をやんわりと諫める。
「私が牢屋へいく話も……気になる?」
こうして玉蓮が罪を逃れ彷徨っている事が広がってゆくのだろう。小さな一滴が波紋となればもう誰にも止められない。
しかし妓女は眉を本当に不快そうに顰めた。
「私、女苛めて偉そうな顔してるヤツなんて大ッ嫌い。悪いことしてない人間なんていないもん!」
さすが苦界に生きる女は世知辛い。
けれど素直で情に篤い人柄は、コウガ楼が苦界の中でも人道的な楼閣だったから、心を養えたのだろう。
「だから言わない。言う相手もいないけどね」
妓女は言わないと約束してくれた。
その約束はどこまで守られるのかは分からないがその気持ちだけでも嬉しかった。
「ありがとう。優しいのね」
「男には言わない秘密がある女って素敵よ!うふふふ」
朝靄が晴れて窓から光が射し込んできた。
妓女の室に飾られた調度品は光が当たるとキラキラと輝きを増した。
この光が落ちる頃に『不老不死の丸薬』を賭けた賭博が開始されるのだろう。
御史達は禁じられた賭博に興じる官吏達を一掃するために、皇毅はおそらくその薬と縹家が繋がっているのかを探っている。
(私は…不老不死の薬の成分が知りたくて……)
本当にそれだけなのか。
秀麗に突きつけられた言葉が胸に突き刺さる。
『偶然をもって再会する為』
『後ろから刺す人が玉蓮さんじゃないことを願っています』
もし、本当に再会出来たなら、その時どんな気持ちになるのだろうか。
今は自分でも分からなかった。
皇毅に会いたかったと感じるだろうか、それとも棄てられた事に失望している事を知るのだろうか。
それはきっと顔を見るまで知ることの出来ない深層なのだろう。
でももし捕まるならば、皇毅ではなく、清雅でもなく、辛かった時に一緒にいてくれた秀麗がいい。彼女に諫められるなら罪を認める事が出来そうな気がする。
そんな事を考え、いよいよ俯いていたのか妓女の声が飛んできた。
「ねぇさん!いつまでも暗い顔しないでよ。妓女の振りして夜出て行くならば愛嬌たっぷりの美女にならなきゃいけなのに」
「え、妓女のふり……」
我に返ったように顔を上げると、妓女は玉蓮の荷物を勝手に漁っていた。
包みの中には三の姫に戴いた衣裳と文が二枚入っている。
一枚は三の姫から皇毅へ返すように預かった文。
もう一枚は薬剤店の常連さんが胡蝶にあてた恋文。
字が読めない妓女は文には全く関心を示さず、化粧水と金糸で刺繍を施された衣裳に魅せられたいた。
ゆっくりと、静かな時が過ぎてゆく。
嵐の前には必ず静けさが訪れるものだ。
今はそんな静けさに包まれているのだろうと玉蓮は嵌め殺しの窓から昊を見上げた。
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