嵐の前
すっかり陽が昇りきると、その光に重く澱んだ霧が晴れてゆく。
朝陽に照らされる秀麗の顔は徐々に官吏の顔からいつもの幼さが残っている気の置けないお嬢様に戻ってゆく。
彼女の微笑みに誘われるように玉蓮も笑顔になるが、その笑顔には暗い影が落ちたままだと秀麗を直視はできなかった。
自分の栄誉の為だけに官吏を名乗る者達はみな同じ顔に見えるのに秀麗は違う。
それは心に決めた信念のため、その根底には民のために官吏になったから。
皇毅もきっとそうなのだと、信じている。
信じたい。
ぐらぐらと思考が揺れる。
彼は自分の信念と引き替えに踏みにじったものがある。
その一つにたまたま玉蓮がいて、ここに残されてしまった。
それが間違いだったと認めて欲しい。
皇毅が踏みつけて、そして忘れてしまったものを……もう一度だけ見て欲しい。たったそれだけのために、全てを棄てなければならないのだろう。
最悪この大切な命さえ。
−−−怖い
具体的な感情に目頭が熱くなる。すると背を向けていた秀麗が振り返った。
「また一つ、本当の事を教えてくれましたね」
二人で半分崩れかけた石段を降りて正殿へ戻ると、そこには箒を持ったままの静蘭が最悪の機嫌を顔に貼り付けて待ちかまえていた。
睨んでも端正な瞳に上から見下ろされる。何をそんなに怒っているのだろうか。
携える箒から今まで門の掃き掃除でもしていたと思われるが、自分が箒を持ったままだと気がつかない様相で、正確にはそんな事どうでもいいような顔つきで仁王立っている。
登ってはいけない高楼にいた姿でも見られたのだろうか。
それくらいでこんなに不機嫌になるのだろうかと玉蓮は不安になりながらも筆頭家人に頭を下げた。
「静蘭様……お早うございます」
「おはようございます」
玉蓮に対して笑顔を取り戻し正義正しく一礼してくれたが、即行でまた目が据わる。
「ど、どうしたの静蘭…そんな怖い顔して……まさか父様のお茶でお腹でも壊した?」
そんな時こそ、玉蓮さんの薬湯よ!とやけっぱちに明るく提案するも一瞥されて終わった。
「私が何故そんな苦行を繰り返さねばならないのですか」
「苦行……ですか」
最近正直すぎる静蘭に玉蓮はしょぼんと俯く。
「お嬢様につまらないご報告です。この朝っぱらにタンタンくんが一張羅で門前に突っ立っております」
ようやく苛立ちの原因を口にする静蘭に秀麗は首を傾げる。
「タンタンが……?」
タンタンとは何方だろうと玉蓮はぱちくりと瞳を瞬かせる。
どうやら不機嫌の原因は二人が立ち入り禁止の高楼へ登ったからではなく、タンタンという人が訪ねて来たからのようだ。
しかしその名前、どこかで聞いた事がある気がする。
最初に御史台へ赴いた時に秀麗の裏行として横にいた官吏様だったような。しかし、そんな名前だったか。
「え、静蘭ってば……タンタンを門の前に立たせたままなの?」
「勿論です。そろそろ御史台の仕事に嫌気がさして懲りもせずお嬢様に二度めの求婚をしに来たのではないかと警戒致しまして、入れてません」
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