見事な満月が室内を照らす夜、男は腕を組むと眉間に皺を寄せて呟いた。


「なぜ、亜子は首を縦に振らない」


女に対しては百戦錬磨のこの男は首を大いに傾げる。そろそろ本気を出さないとダメということなのだろうか。


「だから、このままでもいいじゃないですか。彼女は彼女なりに頑張っていることですし……」


脇に控えていた男の部下は、心配そうに言う。昼間の亜子の様子が気にかかっていたためである。顔は青白く、痩せたというよりやつれたという方が正しいくらいに細くなった身体がなんとも痛々しかった。


「いや、なんとしても亜子には首を縦に振らせる」


男は部下の進言をあっさり退けて、その決意を固めた。彼女には素質がある。それをみすみす見過ごすことは男自身が許さない。








「この書類書いておいて」
「あ、これも」
「この書類もねー」


結構な数の女官、官吏の人たちが私に嫉妬を抱いている。それはシンドバッドさんが原因。tただでさえ私は官吏の人たちに疎まれているのに、最近、やたらとシンドバッドさんが私の元に訪れる回数が増えたことにより、その嫉妬の影は以前よりも表面化していた。今だって、自分で片づけなければならない書類を私にどんどん押し付けていく。ああ、今日は残業確定だ。一体、私はどれくらいの人々の妬みを身に受けているのだろうか。考えたくもない。


「随分と大変そうね」


私が懸命に書類たちと格闘していると、鈴の音のような可愛らしい声が部屋に響く。振り返れば、澄ました顔の紅玉ちゃんがいた。ちなみに、私はシンドバッドさん絡みで紅玉ちゃんにまで警戒されている。そのためなのかはわからないが、彼女は何かと私の周りに出没する。


「手伝ってさしあげましょうか?」


紅玉ちゃんは口元に笑みを浮かべるが、目は決して笑っていない。おそらく、本当に手伝う気などはない。私をただ単にからかっているだけ。


「大丈夫ですよ。シンドバッド王の大切な大切なお客様である姫君に雑務をやらせたとあっては、私が主君に叱られますので」


私がにこりと微笑めば、紅玉ちゃんは顔を赤くし、ふんっとそっぽを向いた後立ち去ってしまった。なんて可愛らしいんだろう。私の言葉に照れたのだろう。私は僅かに口元を緩めたあと、また大量の書類たちと向かい合ったのであった。





*





「亜子」


ああ、またか……


辺りが宵闇に包まれた頃、残業のために机に向かっていると、ふいに私の名を呼ぶ声がした。振り返れば、やはりそこにはシンドバッドさんの姿。その顔にはやはりいつもの笑顔を貼り付けている。


「こんな時間にどうしたんですか?」


私はあえて彼の要件を問うた。シンドバッドさんはにこりと笑った後、私の元へと歩を進める。


「そろそろ色好い返事を君から聞きたくてね」
「……またそれですか」
「今夜は色好い返事が聞けるまで帰らないよ」
「……」


シンドバッドさんは私にこれでもかと近づくと、私の手を取り、自分の両手で包み込んだ。そして、誰もがときめくような笑顔で微笑んだ。


「君が必要なんだ」


彼が発する言葉ががん、がんと頭に響く。自分でも顔が赤くなるのがわかった。私は必死でシンドバッドさんから目を逸らす。そんなことをされても私の答えは変わらないのだから。


「離して下さい」
「……」
「……いい加減しつこいですよ、シンドバッドさん」


瞬間、シンドバッドさんの瞳に陰りが指した。


「なぜだ……」
「え、」
「なぜ君はこの話を断わり続ける」
「なぜって……」


そういえば、なぜだろう。あの夜シンドバッドさんに言われたことが悲しくて、それで……


「と、とにかく、私はまだやることがありますので……!」


私はその疑問を薙ぎ払うように、シンドバッドさんの手から逃れようと自らの手に力を込める。でも、なかなか離してくれない。


「離してください……」
「まだ理由を聞いてないのだが、」
「私だってわからないんです!」


私はついカッとなって、シンドバッドさんの手を振り払う。しかしその反動で、バランスを崩してしまった。いつもならそれで尻餅をつくだけなのに、なぜか身体が鉛を背負い込んだように重くて、私は頭から背後に倒れ込んだ。後頭部に衝撃を感じた後、私の意識は暗闇に落ちたのだった。





(もう限界のようです)