城に帰るとすぐ、出くわしたのはなんとなく青白い顔をしたシンドバッド王だった。まさか、こんな時間に、お城の玄関先に王がいるとは思わない。それに、出くわしたというより、わたしが帰ってくるのを待っていたかのような腕組みを、ああ、またわたし自惚れている。王がわざわざお出迎えだなんて、わたしは何様のつもりなんだ。もし誰かを待っていても、それはわたしじゃない。つまり、わたしは別に悪いことをしているわけじゃないし、待っていてもらったわけでもない。ただ、なんとなく気まずいので、一礼だけして脇をすり抜けようとした。



「こんな遅くまでどこへ行ってた」



すれ違い際に、がっ、と腕をつかまれた。二の腕を走る鈍痛。思わず顔をしかめるほどの。なんで、と思った。でもとにかく目をあわせたくなかった。頭の中をたくさんのいいわけが過ぎった。わたし悪いことしてないのに、どうしてそんな強い力で、怖い声で咎められなきゃいけないんですか。まだ日だって落ちたばかりで、そんなに遅い時間じゃないし、町の子供たちだってまだ外を駆け回ってるくらいですから、と。そうよ、そうだ。わたしは子供じゃない。やはり何か言い返してやろうと顔を上げた。高い位置にある顔を精一杯の意地悪さで睨み付けた。でも駄目だった。わたしはあっという間に彼の底なしの瞳に捕らわれて、文句を言うどころか、目を逸らすこともできなくなる。夕焼けの海の色。あの港から見た景色。沈みたがる太陽を閉じ込めたような目だった。


「どこへ行っていた、と聞いているんだ」



さっきの青白さはどこへやら、赤み掛かった顔色と、低く唸るような声色は明らかな不機嫌を孕んでいて、わたしは慎重に言葉を選んで従順に応えるしかなかった。



「仕事を探しに、町へ」

「仕事を?」



王はすこし面食らったような顔をしたが、それはすぐに納得の表情に消えた。そしてそのまま安堵の溜息、呆れたような目尻、哀れむような声色で呟く。「君という子は…」。きっとわたしが何を言わずとも、浅はかなわたしの考えも行動なんか、聡明な彼にはお見通しなのだ。



「それは、きのう目を逸らしたから?」

「ぜんぜんちがう!」

「そうか、ではなぜ?」

「あの、わたし、あなたに依存するのは嫌で、その…経済的にも、精神的、にも」

「でも、君の仕事は他にあるはずだ。今与えられている仕事を蔑ろにするのは、大人な対応とはいえないな。それではいけないよ」

「わたし、仕事、ちゃんとしてます、その…ちゃんと」



口に出すことも憚られるような内容を仕事というならば。さいごのほうを言う前に、じぶんがすごく惨めな気持ちになって俯いた。朝焼けいろの瞳を見ていたら、わたしはなにをしているんだろう、なんて気持ちになってきて、きのうまでの行動力がぜんぶ間違っていたような気がして堪らなくなった。じぶんがあまりにも愚直で、恥ずかしいとか、情けないとか、それよりももっと先行していたのは「惨め」。みんなが知っている当然のことを、わたしが知らないことはよくあった。小さなことから、大きなことまで。特に、無限に張り巡らされた蜘蛛の巣のようなシンドバッド王の思考になんて、わたしが千年を費やしても及ばないことだってわかっている。手玉に取られて当然だ。しかし、その差があるという事実が、わたしを惨めの崖から突き落とすのだ。



「どうせわたしはいらないくせに」



落ちてゆく途中、口をついて出た無意識の言葉に、じぶんが一番おどろいた。と、同時にやっと気付いた。なんだ。わたしは結局、いじけていただけなんだ。身分でも見た目でも知性でも、相手にしてもらえないから、国民の税がどうだとか自立がしたいとか、たいそうな理由をつけて。七つの海を渡り歩くシンドバッド王と、この宮殿すらまともに出られないわたし。わたしは、やっぱり、なんてちっちゃいんだろう。自覚の海に落ちる。ばっしゃん。大仰な水飛沫を上げて背面から着水。そのままぶくぶくと沈んでゆく。いいわけ、聞いて、聞いて。手足で水を掻き藻掻くけれど、ただ遠くの水面がきらきら光っているだけだった。青い水面、上だけしか見えない。どうしたらいいの。すると生暖かい泥が背中を覆いはじめる。ああ、ここはうみの底だ。わたしは沈んだんだ。もう、おしまいにしたい。そうして目を閉じてしまおうとしたそのとき、両の手首をものすごい力で引っ張られ、ぷはっと息をするともう水の上だった。わたしを引き上げたのは、他でもない、シンドバッド王だった。わたしがどうやっても浮かべなかった海を、彼はあっという間に手懐けていた。彼も飛び込んだことがあるのだろうか。それは泳げる者にしかできない行いであり、また、まるでわたしがじぶんのいいわけに溺れるのがわかっており、完全に沈みきるのを見計らったようなタイミングだった。



「いらないわけがないだろう」


わたしの手首をぐっと掴んだまま、シンはつづけた。



「言ってしまえば、君は俺の愛玩なんだ。俺のためだけに綺麗に着飾って、呼んだらすぐに来てくれれば、それだけでいい。それだけで意味があるんだ。俺のためだけにいつでも待っていてくれるって存在が、どれだけ俺の精神衛生に繋がっているか、わからないか。確かに、表には出せない関係になってしまったけれど、それは、俺の表に出せない部分を君が担っていることだ。本来の俺の我が儘だとか身勝手だとか、そういうのを受け止めてくれる捌け口でいてほしい。まあ、それも身勝手なことだよな。ごめんな。でも、俺だって我慢ばっかりは無理だ。王の立場として隠さなければならないところを、君だけには甘やかしてほしいんだよ」

「そ、それでも、それだけじゃ、仕事なんて言いません。お給料が分に過ぎますし、」

「君は君を卑下し過ぎだ。そしてそれは同時に、俺の苦労も軽視してるってことになるよ。こう見えて、けっこう精神に負担がかかっていてね」



でも、と反射的に口を開いたものの、言葉に詰まる。さっきまでどん底にいたのに、シン様の言葉だけで舞い上がってしまいそうなじぶんがいる。わたしだけ、とくべつ。そんな風に言われている気がして、それならいいかもしれないと思った。もうそのときには、さっきまで振りかざしていた、王宮を出るとか、自立とか、脱依存とか、そんな言葉はわたしの頭にはなかった。



「わかったかな。ならば、仕事の確認をしよう。新しい職もいいが、まずは今の仕事をきっちりやることだ。二十四時間体勢でいつでも対応してくれなくては困る。しっかり休養もせず、今日のようにへとへとで帰ってきて、俺の体力に着いてこられるとでも思ってるか?」



俺は厳しいよ。そう笑いながら言って、シンはわたしの頭を御自分の肩に押し付けて抱え込む。強引だけど逞しい腕に身を委ね、ただただその安心に心を緩ませる。国税とか自立とか依存とか、もうなにもかもどうでもいい。シンがそう言うのなら、きっとぜんぶだいじょうぶ。むずかしいことはぜんぶ任せてしまおう。今度こそ目を閉じる。



「今日も抱きたい気分だったんだ。甘やかしてくれるか?」



わたしが黙って頷くと、耳元で囁くように「ありがとう」と聞こえた。その五文字の響きに縛られる心地よさが海馬を支配してゆく。やさしい強制力を持つこの言葉に、わたしはもうすでに夢中なのだ。



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