昨日、はじめて部屋の外でシンドバッド王を拝見した。というと、すこし語弊がある。今までも廊下でお見かけしたときなどに、ご挨拶申し上げたことは幾度もが、お仕事中の王を見たのは、これがはじめてだったのだ。広間の前を通りかかったとき、たまたま扉が開いていた。おそらく、開放的な雰囲気を作り出すためだろう。シンドリアでは見たことがない色かたちの衣に身を包んだひとたちと、和やかに談笑なさっていた。何か交渉がおわった後なのか、そもそもこうしてお話をするためなのかはわからない。どちらにしろ、この国にとって重要なことには変わりない。つまり、わたしは見つからないほうがいい。わたしのような卑しい身分の者は早急に立ち去ったほうがいい。わかってはいたけれど、わたしにとっては物珍しいシンの姿をすこしだけ眺めたかったのだ。すこしだけ、すこしだけ。わたしは、扉の影からそっと顔を出した。初めて見た外交中のシンドバッド王。でも、いつも通り身振り手振りは大きく、まるで少年のように目をきらきらさせて雄弁を振るっていた。聞いている人たちも熱心に耳を傾けている。お話の内容は聞こえなかったが、もし聞こえたとしても、学を修めていないわたしでは到底理解できないだろう。
わたしは心の中で問いかける。また、あなた様お得意の理想論ですか?あれをしたい、これをしたい。あなたはすぐに理想を口に出す。けれどあなたの理想は絵空事ではない。理想を叶える一歩目なのだ。なにより、このきらめく海の真ん中に、世界で一番輝く王国を築いてしまったのだから。批判の声にも屈せず、反対派は希望溢れる演説で捻じ伏せ、協力を請うことに恥を見せず、資本を集めることにも労を厭わない。ほんとうに、曇りを知らない太陽みたいなひと。自信に満ち満ちているところはもちろん、お酒には弱いお茶目なところも含めて、どこを取っても魅力的だと思う。あなたに任せればすべてうまくいく気がする。だいじょうぶだと思える。きっとあの異国の方々も、彼のそんなところに動かされているに違いない。溜め息が出るくらい、とってもすてき。わたしたちの自慢の王様。
そのとき、わたしの心の声が聞こえたでもあるまいに、シンが熱弁の途中でぱっと方向転換した。こちらを振り向く。かち合う視線。目が合ってしまったのだ。わたしの時が止まる。どうしよう。もし今シンが手招きでもしたら。わたしは異国の、しかもお国の代表の方に紹介されてしまうのかしら。そうしたらわたしはなんと受け応えればいい?作法も知らない町娘の出身、きっとなにか無礼をしでかすに決まってる。お願いだから、だれにも気付かれないように、そっと微笑むだけにして!そんな考えを巡らせたのが、ほんの一秒にも満たない間。かっ、と体温が上がって、顔が熱くなって。思わず視線を逸らそうとしたが、それよりも先に動いたのは彼のほうだった。びっ、と指をさす。あっ、と思って身を竦める。



「そういえば、あちらの港では強大な海洋生物が出現する日があります」



あっ。

彼が指差したのは、わたしなんかではなく、わたしと反対側にある窓の向こうの海だった



「そういう日は、わが国のほとんどの家庭の夕食にも強大な海洋生物が出現するのです、もちろん刺身かソテーになって」



王の周りで笑い声が起こる。七海の覇王はご冗談も御達者ね。綺麗な異国のご婦人が、シンの肩に寄り添って笑っていた。わたし以外のひとたちが、全員笑っていた。わたしは途端に恥ずかしくなった。まるで、シンのお気に入りなれたと勘違いして、図々しく浮ついていたわたしを笑っているみたいだった。ばからしい。なんて、滑稽なんだ。なんだか、シンもお客様方も、もっと向こうの遠くの世界にいるような気がする。全然笑えないユーモアだった。いつから目線をはずされたんだろう。それくらい自然な振舞いだった。わたしは、見なかったことにされたんだ。






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そして今日。わたしは王宮を出ることを決めた。見て見ぬ振りをされた王様への腹いせ、というわけではない。日々の不安が積もり積もったのである。なにせわたしの生活費やお給金は、すべて税金で賄われている。色欲に溺れるだけの仕事、それからわたしの怠惰と酔生夢死に国のお金が支払われ、わたしがそれ相応の行いをしているとは思えない。第一にそのことに耐えられなくなったのだ。それに、シンは「人生に彩りを添える大切な仕事」と称したが、それならわたしは必要ない。別にわたしじゃなくてもいいと思うし、もっと綺麗なひともいるでしょう。たとえばあの、異国のご婦人、とか。だから、いじけているわけではないってば。わたしがいなくても彼の人生は充分華やかなのだ。


とはいえ、愚図のわたしがいきなり自立できるはずがない。とりあえず職を探して、ある程度お金が貯まるまでしばらくは宮廷から通おう。うん、わたしにしては計画的。わたしにしては理論的。そうだ、わたしは本気だ。ずっと思ってきたこと、きちんとひとりで生きていきたい。もらえるお金は少なくても、今度こそまっとうなお仕事をしたい。やっぱり、セックスでお金をもらうなんてわたしにはできない。


わたしは町中の商売屋を当たって回った。宮殿から西へ東へ。服屋、宿屋、果物屋。とにかく娼婦以外で働けるならなんでもいい。休憩もせず、あちらこちらを訪ねて歩いた。ただ、海洋生物の出るあの港には行かなかった。海洋生物なんてすこしも怖くなかったけれど、わたしはその海港に負けたのだ。勝手な対抗心。あまり気が進まなかった。それでも、気が付くともう日が暮れる時間で、じぶんがくたくたになっていることに気付いた。こんなに歩いたのは久しぶり。そもそも、宮殿から出ることすらも久しい。太陽が沈みきるまえに、そろそろ帰ろう。仕方ない。今日は仕事が見つからなかった。





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