今まで怖くて下を向いていたからわからないかもしれないけれど、上さえ向いたらきっとたくさん新しいことを知れると思うんだ。だから知ることを怖がらないで。そうしたらもっと世界は明るくて楽しいものに見えてくるはずだから。
Fear always springs from ignorance.
昨日はあの後俺は部活に、白川さんは自販機で飲み物を買って帰って行った。なんでも人が怖いらしく、当然人混みも苦手で、できるだけ人のいない第二体育館の近くの自販機を利用することが多いのだとか。
今日も朝練が終わって、教室に入ると一番にすることは白川さんへの挨拶。いつも通りかばんを机に置いて、横を見て気づいた。
そうだ、俺はいつもここで挨拶をしていた。立っている俺は当然白川さんを見下ろしていて、それが怖かったのかもしれない。
そう思って俺は一度席に着く。そしてもう一度横を向いて声をかけた。
「白川さん、おはよう」
いつも通りちらりと俺を見るだけで返事は返ってこないと思って俺は、無言の彼女ににこりと笑顔だけ向けて前を向うとした。のだけれど。
「お、おは…よ……」
そう聞こえたのが幻聴じゃないかって思ったくらいに驚いた。まさか挨拶を返してくれるとは思わなかった。それもきちんとこっちを見てくれている。その視線は少し恥ずかしそうに彷徨ってはいたけれど、俺の挨拶に返してくれたのは確実だ。
俺は嬉しくなってもう一度白川さんに笑顔を向けた。
「うん、おは――」
「スガー、お前部室にジャージ忘れてたぞ」
突然聞こえてきた声に白川さんはびくりと肩を震わせて、前を向いてしまった。
その声に俺はもちろん心当たりがあるし、忘れてきたジャージを持ってきてくれたんだから感謝してもいい。そのはずだけど、俺はせっかくの白川さんと話せるチャンスを潰されて、大地に向かってため息を吐いた。
「なんだよ、せっかく持ってきてやったのに。てか同じクラスなんだから置いてくなよな」
不思議そうな顔をして俺に黒いジャージを渡してくる。俺はそれを受け取って恨めし気に見つめた。
これさえ部室に忘れてなければ白川さんともっと話せたかもしれないのに。昨日のこともあってもしかしたら少しは話せるかもしれないと思って、大地が着替え終わるのも待たずにそそくさと教室にやってきた。その甲斐もあってか挨拶は返してもらうことはできたし、きちんとこっちを向いていた。
「あーもう、大地タイミング悪い」
「なんだよ、なんかしてたのか?」
机に突っ伏して口を尖らせて、大地に八つ当たりをする。自分がジャージを忘れたのが悪いのはわかってるけどさ。でももう少し遅く来るとか、HRの後俺に話しかけるとかあるじゃんか。
いや、そんなの普通に考えてないってのはわかってるけど。そんなこと考えちゃうくらいには残念で。大地の質問にべっつにーなんて答えるけど、俺にとっては別になんて答えられるほど小さいことではない。
「ちょっと白川さんと話してただけだし」
俺にはちょっとのことではないけれど。それでも大地からしたらただのクラスメートだし、そもそも大地が白川さんを認識してるのかもわからない。
「白川?ああ、おはよう」
俺の口から出た名前を聞いて大地は俺から白川さんに視線を移して、至極自然に挨拶をした。
でも当の白川さんは大地を見ることもなく下を向いていて、よく見るとその手はスカートの上でぎゅっと握られていた。多分、というか絶対怖がってる。俺でさえ見下ろされるのが怖いと言っていたくらいだ。俺よりでかい大地が怖くないはずはない。
大地は返事の返ってこない挨拶を変に思ったのか首をかしげただけで、特に怒ってるとかではない。
「大地、大地」
「あ、わっ、なんだよスガ」
俺は大地の腕を引いて無理矢理しゃがませる。それによって今の位置関係は大地が一番低い場所。もしかしたらきっと、見下ろされないだけでも白川さんの恐怖を取り除いてやれるんじゃないかって思った。
白川さんはちらりと自分より低い位置にいる大地に視線をやって、小さく息を吸った。
「……さっ、わむ、ら…くっん!!」
緊張しているのか声を裏返しながら大地を呼ぶ。
白川さんは変わろうとしてる。人が苦手だと言いながら、こうしてちゃんと話そうと頑張ってるんだ。
白川さんの小さな呼びかけはきちんと大地に届いて、大地はしゃがんだまま白川さんを見上げる。彼女は大地をきちんと見て、もう一度息を吸った。その手はスカートの上で小刻みに震えていて、緊張と恐怖が伝わってくる。
ただでさえ普段からクラスメートとも話をしない。その上、俺たちは異性だし、彼女からしたら恐怖の対象だ。きっとその俺たちと話すことは彼女にとってはかなりの勇気が必要なんだろう。
大地はもう気づいているのかもしれない。今白川さんが一歩前に進もうともがいていることが。だから大地も俺と同じように白川さんの次の言葉をじっと待つ。
「お、はよう、ございます……」
尻すぼみに、しかも最後は大地から顔をそらしていつものように前を向いて俯きながら。それでもはっきりと挨拶をした。震えながら、きっと心の中で恐怖と戦いながら。
「ああ、おはよう。じゃあ俺、席に戻るな」
最後は俺に声をかけて大地は自分の席につく。
多分大地は、俺が彼女に好意を寄せていることがわかってる。だから早々に自分の席に戻って行ったんだ。
なんだか全てお見通しのようで気はずかしくなりながら、白川さんに視線を移す。さっきのまま固まっていて、呼びかけるけれど返事はない。
「白川さーん」
「っは……!!」
何度目かの呼びかけでやっと反応を示して、ゆっくりと首をこちらに向けて俺を見る。その瞳は何故か潤んでいて今にも涙が零れそうだ。
もしかしたらそれほど怖くて頑張っていたのかもしれない。白川さんはふうっと大きく息を吐いて眉を下げた。
「大地、怖かった?」
「……うん」
「大きいから?」
「……うん」
「で、話してみてどうだった?」
「……もう、怖くない、かもしれないです」
「っぶ」
かもしれない、なんて言うから俺は吹き出して笑ってしまった。そんな俺を不思議そうに見て、それからはっとして慌て出す。みるみるうちに顔が赤くなってきて、下を向く。
俺は笑いが収まってから、もう一度優しく白川さんを呼んだ。今度は一回でこちらを向いてくれた。まだ顔はほんのりと赤いままだったけれど。
「俺は?怖くない?」
「菅原君は、怖くないです」
さっきの質問への答えとは裏腹に、はっきりとしかもきちんと俺を見て即答した。
大地と同じように、かもしれないなんて付けられるんだろうと思ってたから、不意打ちにそんな素直に答えられて俺は一瞬固まる。そして心の底から喜びが湧き上がってくるような気がした。彼女の中では俺は恐怖を抱かない存在なんだ。人に対して怖いと思う彼女にとってはそれが特別なことのように思える。
恋愛感情じゃなくてもいい。自分が好きな子の特別だなんて、こんなにも嬉しいことはないと思う。
そっか、よかった。なんて特に何もないことのように返すけど、俺は内心ドキドキものだったし、にやける顔を隠せなかった。
恐怖は常に無知から生じる。
―エマーソン―
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