−時間は動き出す−




月に何回か通うカフェで、頼むのはちょうど良い量ではないのはもう癖になっている。足りないと思うのにショートを頼む。それか飲みきれないと分かっていながらグランデを頼む。どうしてもジャストサイズのトールを頼みたくない。

だって、どうしたって思い出してしまうんだ。大好きだった彼のことを。



『その及川君ってのいい加減やめない?』
『む、無理無理!名前なんて呼べないよ』
『じゃあさ、これは?』
『え?キャラメルマキアート?』
『うん、大きさは?』
『トール』
『名前、もう一度ゆっくり言って』
『トーる…っ』
『言えるでしょう、俺の名前。ほら』
『と、とーる、くん』



くだらないダジャレみたいなことを言いながら、嬉しそうに笑った及川君。真っ赤になる私の頭を、よく出来ましたなんて撫でてくれたその手の大きさが、更に恥ずかしさを助長したなんてことには気づかなかっただろう。普段はバレーボールを扱う硬くて大きな手だけれど、私に触れる時は優しくて温かい手なんだ。その手ももう離れていってしまったけど。


結局付き合っていながら名前を呼んだのはその時だけで。私が東京に引っ越してからは連絡を取ることも減って、高校生の財力じゃこの距離を行ったり来たりすることもできず、部活が忙しい及川君に迷惑をかけまいと思っているうちに自然消滅してしまった。あの温かい手も、低くて心地よい声も、大きくて広い背中も、優しい笑顔も、全部、失ってしまった。





それがもう、一年も前のこと。

いい加減吹っ切らなきゃってのもわかってる。古くなって買い換えてしまった携帯には及川君の連絡先はない。だからもう及川君から連絡が来ることもきっとない。遠く離れた仙台と東京じゃ、偶然ばったりなんてこともない。だから、会える可能性はゼロなんだ。
だから、忘れようと思ってる。でもそう思ってるから忘れられない。 

よりを戻したい、なんてそんな気持ちはもうない。ただ、もう一度。もう一度だけ、あの声で名前を呼んで欲しい。そうしたら諦められる気がするんだ。新しい彼女がいたって、何かを思う権利だって私にはないんだから。

東京にいるはずの無い及川君を探してしまったり、後ろ姿の似ている人を凝視してしまったり、私はいつまでたっても及川君が忘れられていない。気持ちも一緒に自然消滅してくれたならよかったのにね。


この会えない一年できっと及川君だって変わっただろうに。もう私のことなんて想ってないだろうし、もしかしたら見た目だって変わってるかもしれない。私の知っているあの笑顔はもう、ないかもしれない。私とは別の人に、私の知らない顔で笑っているかもしれない。ひとつ、ひとつ、私の知らない及川君へと変わってしまっているかもしれない。私の中がまだ一年前で止まってるだけだ。



「トール……ふふ、徹君会いたいよ」



手にはいつも通りグランデのカップ。それを見て思わず笑ってしまう。飲みきれなくて家まで持って帰ることになってしまうのはいつものこと。そうしてお母さんにいつも、ワンサイズ小さいの買えば言いのにって言われる。そろそろトールを買えるようにならなきゃね。やっと及川君を思い出しても笑えるようになってきたんだから。



「…………名前?」



自分の家にあと50メートルもない所で、私は大好きだった声に呼ばれた気がした。ここにいるはずも無い人。だから空耳だと思った。空耳なんて聞こえちゃうほどまだ好きだなんてって、笑えちゃうなって、思った。けれど、違った。


手元にあるグランデのカップから目を上げて前を見れば、そこには及川君がいた。嘘だ、幻だ、だって及川君は仙台で青葉城西に通ってる。こんな東京の住宅街になんているわけない。私の家の前になんているわけない。



「名前、久しぶり」



なのに、そう言って近づいてきたのは紛れもなく及川君。私服姿だからか、それともやっぱりこの一年で変わったからか、大人っぽくなった気がするけど、それでも会いたかった及川君にしか見えない。



「…やっと、会えた」
「なん、で?」



思わず手に持っていたキャラメルマキアートを落とす。足元にはカップから零れたキャラメルマキアートが茶色い水溜りを作った。



「あーあ、もったいない。ていうかグランデは大きいんじゃない?」



へらっと笑うその顔は私の記憶の中の及川君と何一つ変わらない。変わってしまったと思っていたけど、全然変わってない。まだ、私に笑顔を向けてくれるんだ。



「髪、伸びたね。そうだよね、俺達が最後に会ってから一年も経つもんね」



私の髪に手を伸ばして、毛先をくるくると弄ぶ。まるで神経が通っていてそこから熱が広がってるんじゃないかって思ってしまう。予想外の出来事に固まる私とは裏腹に、及川君の声はとても落ち着いている。


髪の毛、傷んでなかったかな。ちゃんと朝セットしたっけ。髪型崩れてるかも。なんて、私の髪で遊ぶ手を見つめる。及川君を見上げることができないから。



「ねえ、名前、俺達……」



揺れるような不安定な声共に、髪から離れた手はゆっくりと上がってきて、頬に触れた。そしてそのまま私の視線を上に向かせる。


ああ、及川君だ。本物だ。温かい手も、優しい瞳も一年前と何にも変わらない。ただ少し、大きくなったような気がするだけ。


そう思ったら嬉しくて思わず涙が出てきた。ぱちりと瞬きをしたらその涙たちは零れていって、及川君の手を濡らす。



「って、え!?ちょ、待って!!名前、泣かないで!そんなに及川さんに会いたくなかったの!?」



私の涙を見て何を勘違いしたのか及川君は慌て出す。そんな彼がなんだか面白くて私は思わずくすりと笑った。泣きながら笑ってるなんて、変な私。



「違うよ、及川君」



頬にある大きな手に、私の小さな手を重ねた。擦り寄るように頬を寄せて、目を閉じる。温かい。うん、やっぱり私は及川君が、好きだ。



「これでやっとちゃんと思い出にできそっ」
「何それ!俺は名前と別れたなんて思ってないよ。ちょっと連絡が取れなかっただけで、俺は名前のこと今でも好きだよ」



私が言葉を言い切る前に及川君は私を抱き寄せて、というより覆いかぶさるように抱きしめる。一年ぶりの及川君の体温は、やっぱり記憶の中の及川君と変わらず温かかった。触れ合う部分からドキンドキンと心臓の音が聴こえて、やっぱり夢じゃないんだって私の中の冷静な部分が考える。



「連絡も取れなくて、どうしたらいいかわからなかった。でも名前が俺に誕生日プレゼント送ってくれたの思い出したんだ」



これ、と言って取り出したのは一年前の及川君の誕生日に私が送ったお守り。なんでも必勝のお守りらしくて、大したものが買えなかった私はこのお守りとお菓子を送ったんだ。


そっか、あの時の住所を見てここまで来てくれたんだ。



「ねぇ、頼むから。別れるなんて言わないでよ」



いつになく弱々しい声で呟いて、抱きしめている腕に力がこもる。ああ、今なら、ちゃんと呼べそう。



「と、徹君…好きです。来てくれてありがとう」



久しぶりの及川君にドキドキして、私も思わず彼の背中に腕を回した。



彼は大好きだった及川君、大好きな徹君。



夢なら、覚めないで。現実なら、未来を期待させて。動き出した私の時間が、願わくばもう止まることがないように。





END