「白石くん、今日は本当にありがとう」
「ほんと、ありがとー!」
 店長と私に口々に言われる礼に、いやいや俺は何も、と白石蔵ノ介が謙遜したのが、確か、三時間前のことだっただろうか。


 混雑が予想されていたにもかかわらず出勤できる人数が異様に少なかった本日がいよいよ二日後に差し迫った金曜日、いつもにこにこと笑顔を絶やさない社員さんが病に倒れた。
 あ、やべえ。これは、日曜終わったわ。
 社員さんの病欠の電話をたまたま受けた私がその旨を店長に報告したとき、間違いなく私と店長は言葉を声に出さずに以心伝心を図ることに成功したと言えるだろう。全国チェーン展開されるこの店の傾向上、店長ともう一人の合計二人しか社員はいない。あとはだいたいバイト、それも土日祝日は学生バイトが中心になるのが通例だ。
 それが生憎、今日はどの学校も大学祭とやらが開催されてしまったらしく、学生バイトの半分はそっちにとられてしまったのだ。


「いや、おまえの大学も学祭だって。同じ大学の奴全員休みとってんじゃん。何かすごい人がライブやるんじゃねえの?」
「まじか。知らなかった」
 と、いう私と店長の会話が繰り広げられたのはつい昨日のことである。ライブなんてやってたのか。本当にまじで知らなかった。


 と、まぁ、何はともあれ、これじゃぁ本当に店がまわせない!と焦るなか、近隣店舗からヘルプとしてやってきてくださったのが、この白石くんである。
「ヘルプで来てくれた白石くんです」
 と店長に紹介され、よろしく、と微笑んだ彼を見たフリーターの伊藤さんがイケメン!と目を輝かせたのは余談である。私は、驚いた。
 白石蔵ノ介と言えば、私の所属するテニスサークルでは知らない人のいないほどの有名人だ。眉目秀麗という単語がまさしく似合う。いくつもの大学での合同サークルのため人数がやたら多いが、白石くんのいる場所だけはいつも容易にわかってしまう。そんな、輝きのある人。
 その白石くんが、まさか、同じ系列の店でバイトしていたなんて。
 しかし、驚いている暇もなければ、余計な会話をしている暇もない。


 とにかく、忙しかった。
 とにかく、スタッフがいなかった。
 とにかく、お客さんが大勢いらっしゃった。


 無我夢中でとにかく働いていれば、気が付けば閉店で。
「長い時間本当にありがとう。お疲れさま」
 と店長が白石くんに声を掛ければ、彼はにっこりとほほ笑み、ラストまでおりますよ、と申し出た。
「閉店後業務、ふたりじゃ大変でしょう?疲れてんのはお互いさまやし、俺も手伝いますよ」
 あぁ、これか。これが、人気者の白石くんなのか、と、ぼーっと考えた。ここまで周囲に気を配れる学生バイトなんて、きっとそうそういない。これも彼の人柄がなせる業だろうか。伊達に人気者はっていないんだな、と実感させられる。


 三人で何とか閉店後業務の衛生やら翌日の準備やらを終わらせれば、お礼にご飯でも、と店長が言ってくれる。
 いやもう、ほんと、正直な話これを期待していた。夕方からは業務後のビールを楽しみに仕事していたくらいだし。朝コンビニで購入したレッドブル2本とおにぎりひとつしか摂取していない身体は、貪欲にうまい酒とうまいごはんを求めている。
「白石くんも、行くでしょ?あ、時間大丈夫ですか?」
「俺も、ええんですか?」
「いいに決まってるじゃん、ねえ店長?」


 そんな流れで近場の飲み屋で食べ放題飲み放題コースを選択し、乾杯したのが三時間前のこと。二時間飲み放題コースでたっぷりビールと大好きなマッコリを堪能した私は、徒歩で帰宅する店長と別れ、白石くんと並んで駅に向かって歩いていた。はずだった。


 いつも以上にハイペースで飲み過ぎたのか、尋常ならざる疲労なのか、ふらふらとした足取りが我ながら心許ない。ビールにはじまり、ハイボールからカクテルから日本酒からワインまで雑多に次々頼んでいた彼、白石くんは、なかなかお酒が強いのだろうか。しっかりした足取りで歩いているし、顔も赤くない。


 駅が目の前に見え、別れる前にもう一度、と白石くんにお礼を告げようとしたとき、疾走するいわゆるDQNと呼ばれる人種のかばんが私の肩にぶつかった。
「あ」
 痛い、と思うより、先に、廻る視界。よろける。ふらつく。倒れる。
 転ぶ。と思った。そんな私を支えたのは。腰に伸びたしっかりした腕で。
「大丈夫か?」
 と私の顔を覗き込むのは、白石くん。近い。その距離感にどきっとしてしまう。支えてもらっている以上、致し方ないのだけれど。


 大丈夫、と答えようとして、先に飛び出したのは、少しうわずった「ひぇ」という声だった。
 腰のあたりで、うごめく、掌。
 白石くん!?と呼ぼうとすれば、彼の次の行動に、それは阻まれた。
 腰を引かれて、そのまま彼にぐっと近寄せられる。腰から離れた手はおなかにまわり、反対の手は肩に伸びた。


 抱きしめられている。
 うしろから、あの、白石くんに。


 その事実を認識するまでに時間はかからなかった。かぁっと熱い頬は酒のせいだけじゃない。


「帰したない」
「え?」
「まだ、離れたくない」
 耳元で、彼が低く囁く声は蠱惑的で、耳に吹きかかる熱い吐息が、私のなかの、何かを煽る。
「……なんて、俺に言われたら、迷惑?」
 表情に出ないだけで、実は彼は酔っていた?と一瞬考えたけれど、違う。彼はしっかり歩いていたし、私がよろめいてからの反射神経も普段テニスをする彼と相違なかった。そして、この、声音も。酔っているのとはまた違う。
「め、迷惑……じゃ、ない」
 酔っているのは、私か。迷惑じゃない?そんなことは、ない。
 もう終電も間近だし、明日だって学祭の片付けで学校は休みだけれど午後はサークルがある。いや、サークルは白石くんだって一緒か。


「わ、私、」
「うん?」
「まだ、白石くんと一緒にいたい」
 紡ぎだした言葉に、自分で驚いた。でも、もう戻れない。覆水盆に返らず。後戻りは、できない。


 三時間前は、確かに、店長と白石くんと三人で労いながら飲んでいたはずだった。
 いま、私が白石くんに手を引かれて歩くのは、俗に言うラブホ街だ。


 どうしてこうなった。


 酔った勢い?そうだ、そうに違いない。
 じゃぁ、私は白石くんを何とも思っていないの?それは、違う。


 ずっと、目で追っていたじゃないか。
 ずっと、彼と話をすることを夢見ていたじゃないか。
 ずっと、彼のことばかり考えていたじゃないか。


 いつから、なんて覚えていない。
 どうして、なんて考えるだけ無駄。


 気が付いたら、そうだった。いつのまにか、大好きだった。
 じゃぁ、いいじゃないか。もしこれが今宵限りの愛だというなら、それを一生の宝にして。もしこれが私と彼を良い方向へ導くなら、それは儲けもんだ。


 切っ掛けなんて、どうだっていい。




切っ掛けは燻る




 大好きな笑顔を目で追っていたら、きみの視線に気が付いた。だから、勝算はあった。
 酒の勢いみたいな真似が嫌だなんて綺麗事を抜かしている場合じゃない。
 たまたま行ったバイトのヘルプ先に彼女がいて、一緒に飲んで、ふたりきりで駅に行くなんていう、この、大チャンス。みすみす逃す方が阿保というものだろう。過程も切っ掛けもどうだっていい。きみを手に入れる。その結果さえ得られれば、満足だ。
「勝ったもん勝ちやで」
 中学時代、よく口にした言葉を思い出す。さて、今宵、どうやってきみを手に入れようか。







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