吐いた息が少し白くなるのを見届けながら、コートへ入る戸を開ける。金網にかけた指先が少し赤くなっているのに気づいた。こんな寒い日でも手袋ができないのがテニス部の辛いところだ。今はまだ堪えきれる気温だが、冬本番になったらかじかむ指の感覚がなくなってラケットを握るのも辛くなって…ああやだやだ考えるだけで霜焼けになりそう。

コートに一番乗りしたはいいが、他の部員が来るまでにはもう少しかかりそうだ。それまでサーブ練習でもしていようか。そう思ってボールの入ったカートを引っ張ってくる。シュと上げたトスを追って見上げると、視界いっぱいに広がる空。一番高い打点で打てば、いい音がしてボールはネットの向こうへ飛んでいく。そのまま続けてサーブを打っているとカシャン、と戸の開く音がした。

「何や、随分早いなぁ」

コートに入ってきたのは、白石くんだった。彼は中学の時からテニスをやっていて、全国ベスト4に入ったこともあるらしい。当然うちのサークルではダントツの腕で、私にとっては雲の上のような人だった。それが、こんな風に話すことになるなんて。

「サーブしてたん?」
「う、うん。1人だったし…」

白石くんは女の子に人気だけど、確かにこれはもてるはずだ。美形に話しかけられて少し緊張してしまう。

「よかったら、一緒に乱打せえへん?」
「へ?」

こんなに近くで綺麗な顔を拝むことなんて滅多にないから、まじまじと眺めていた私は素っ頓狂な声を上げてしまった。何て言った?乱打?

「…えええ無理無理無理!」
「何で?ちょうど2人だけやし、ええやん」
「だって私と白石くんとじゃレベルに差がありすぎるというか、申し訳なさすぎるというか…」
「そんなことないやろ。いつも自主練してるやん」

な、なぜそれを知っているんだ。なるべく人のいない時間にやっていたのに…。

「ほな一球だけ。それならええやろ?」

私はともかく白石くんには何のメリットもないのではないかと思うが…。

「…じゃあ、一球だけ」
「よっしゃ、決まりやな!ほな俺あっちサイド行くわ!」

そう言って白石くんはボールを一球かごから出してコートの反対側へ走って行ってしまう。何でそんなに嬉しそうに笑うんだ。思いがけず少しときめいてしまったではないか。ないない、これは少女漫画によくありがちなパターンとかではないぞ。イケメンの笑顔は人類の共有財産だからな。見慣れていない私が動揺するのも無理はない。

「じゃ、行くでー!」

気づくと白石くんが既にラケットを構えてボールを打つ準備をしていた。慌てて私も態勢を整える。最初の一球を白石くんが打つ。私が打ち返す。うわ、私相手に手加減してくれているけど、それでも彼のショットの正確さが伝わってくる。さすが聖書テニスと言われている人だ。私が打ち返しやすいように、でも単調にならないように球の球威やコースを変えて打ってくれている。私が取りづらいところに返してしまっても、必ず丁寧に拾ってくれる。こんなにラリーが楽しいのは初めてかもしれない。ラリーはどんどん続いて、もう何球打ったのかわからなくなった時、

「あ」

ボールがコートに落ちていた小石に当たり、軌道が外れた。何とか打ったけれど、それは大きく宙に弧を描くように跳んでいく。どうみてもアウトだ。それもラインどころか後ろのフェンスに届きそうなホームラン。楽しかった乱打もこれで終わりか。少し残念に思っていると、

「俺がとったる!」
「え!?白石くん!?」

なんとあろうことか彼は大きくバックしてボールを追いかけに行くではないか。その視線は空中のボールだけに向けられている。そのまま走り続けたら、確実に。

「危ない!!」

ガシャン、と大きな音がして白石くんが地面に倒れ込む。さあ、と血の気が引くのが自分でもわかった。私は考えるよりも先に彼の元へ走り出していた。

「大丈夫、白石くん!?」
「いったー…。あかん、失敗してもうたわ」

口では何でもないように言っているが、彼は座り込んだまま後頭部を手でおさえている。フェンスに突っ込んだ時に打ったのかもしれない。

「打ったの、ここ?」

患部を確認するが、外傷はないようだ。そのことに少しほっとする。

「ごめんね、私があんなボール打ったから…」
「自分のせいやないで。俺がただ――」

”好きな子の前でかっこつけたかったんや”

何気なく紡がれた彼の言葉が、静かに私の中で反駁する。好きな、子?突然のこと過ぎて頭が全然ついていかない。は?え?困惑の中で、すぐ近くにいる白石くんと目が合う。いや、たまたま目が合ったのではない。彼がずっとこちらをみつめているのだ。目を反らしたくてもまっすぐな瞳にとらわれて動けない。ふと、かじかんだ手に何かが触れる。暖かくて優しい。これは、白石くんの手だ。包み込むように握られた両手に思考が爆発しそうになる。彼は私の手をそのまま、自分の両頬へゆっくりと運んでいく。されるがままの両手は端正な顔を包み込むようにあてがわれる。少し冷たい頬の温度がリアルで、心拍数がますます加速する。

「し、白石く…!」
「…このまま、俺のこと温めとって?」

やっとのことで出した声も、少し上目遣いで言われてはひとたまりもない。氷漬けになったかのように動かない身体とは裏腹に、私の顔はどんどん熱を帯びていく。どうしよう、どうしよう。握られた手にぎゅっと力を込められ、頭がパンクしそうだ。もう、これ以上は限界――。

カシャン

「!」

無機質な音が一気に私を現実に戻す。コートへ入る戸が開く音。どうやら誰かが練習に来たらしい。死角になって私達の姿が見えないことにほっとした。

「おい誰だよボールかご出しっぱなしの奴ー!」
「ああ、すまんなぁ俺や!」

白石くんが返事をし、私も慌てて立ち上がる。あまりにもいつも通りな彼に、もしかしてさっきまでの出来事は全て夢だったのではないかと思ってしまう。いや、そうなのかも。だってあの白石くんが私を好きだなんて考えられない。もしくはあの言葉は聞き間違いで、単にあまりの寒さに目の前にいた私に暖を求めただけとか…。うん、きっとそうだ。そうに違いない。と、白石くんの背中を見ながら1人納得する。すると、彼がくるりと振り向いて私を見た。

「続きはまた今度、な?」

耳元に顔を寄せ囁かれた言葉に、私の身体が甘く痺れを持つ。その感覚に、やはりあれは紛れもない現実だったのだと思い知らされる。そんな思考回路ショート寸前の私を見て、白石くんは優しく、妖しい微笑みを残すのだった。


夢と現実の狭間で


(ずっと見てた。頑張り屋なきみのこと)

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