部長と会ったのは偶然だった。
学校の授業で唯一苦手な体育で恥ずかしながら転んだ。あたしは勉強はできるけど運動はできないんだ。
大した怪我もしてないけど一応保健室に行くように言われて、来てみたら部長がいた。部長は保健委員らしい。
「なんや元気ないな。何かあったん?」
あたしの擦りむいた膝を消毒しながら部長は優しい顔をする。
元気がない、わけじゃない。いたって普通だ。
でもここのところ自分で自分がわからなくて、正直悩んではいる。
相変わらず視聴覚室でサボるあたしたち。今まで二人でいるからって特別な感情を持ったりしなかったのに。いつからかあたしは財前と話す度、財前を見る度、正体不明の感情に支配される感覚に陥る。
「…ってわけなんですよ、部長」
すごく苦しくて、でもあったかくて。あたしの知る喜怒哀楽の感情ではうまく説明できない。
「うーん…名字さん、それって“好き”って気持ちなんやない?」
「すき…?」
部長の言葉に思わず首を傾げてしまう。好きって言うのは、つまり恋愛的な意味だろうか。
「おん。財前を意識しとるってことやろ?」
「意識…してる…」
手当てを終えた部長は立ち上がって使用した物を棚にしまっていく。その後ろ姿を眺めてあたしはぼんやりとしてしまった。
「財前のこと考えるとどんな気持ち?」
部長の突然の質問にきょとんとする。そして財前のことを思い浮かべる。
女嫌いな財前。女子と話すのさえ嫌悪する。でもあたしとは話してくれて笑ってくれる。時々遠い目をしてて、理由を聞いても答えようとはしない。あんな見た目だし不機嫌な顔してることが多いから、一見冷たいように見えるのに、本当は想像以上に優しくて。あぁ、もっと知りたいって思わせる。
「…苦しいです」
「見たら?」
「…ドキッとします」
「話したら?」
「…ほっとします」
睫毛が長くて鼻が高く、薄い唇。整った顔も無防備な寝顔も見るだけで心臓が鳴る。素っ気ないけど話しかけて気遣ってくれてるのを知ってるから不思議と安心する。
「名字さんは財前のこと好きなんや」
「そっ…か。これが“好き”か…」
胸の辺りをぎゅっと握る。そこでは心臓がドキドキといつもより速いペースで鳴っていた。
今まで知らなかった感情。
あたしは感情を忘れた人間だった。
でも大阪で他人と関わって自然と思い出した感情。段々あたしの世界は色が戻ってはっきりとしてきた。もうどうでもいいなんて思わない。
けれど一つだけあたしの中には最初から存在しない感情がある。
それが、恋や愛、好きって気持ちだった。
忘れてしまったんじゃなくて、知らない感情だったんだ。
あたしには愛してくれる人が生まれてから一度もいたことがないから、そんな感情を教えてくれる人はいなかった。
両親はあたしを邪魔者扱いしてずっとお手伝いさんに押しつけたまま。両親のために良い子にしなきゃって思ってたけど、幼心にもわかってた。自分が独りぼっちだってこと。どんなに良い子にしたところで両親があたしを見てくれることはなかった。
幼稚園は楽しかった。そこであたしは喜怒哀楽を学んだ。その頃は友達もできて、一緒に遊んでた。
あたしが今みたいになったのは小学校に入ってから。両親があたしを望まずして作ったことを知ってしまったから。
「部長、あたし、財前が好き…なんですね」
愛を知らないあたしが、人を好きになるなんて馬鹿げた話だ。でもあたしは財前が好き、なんだ。
−42−
戻る