帰ってと言っているのに財前は一向に動く気配がない。それどころか縋るような目でカメラをじっと見つめている。



「頼む…全部、全部話させて欲しい」



いつだったかこんなことがあった気がする。

ああ、冬休み明けてすぐの頃だったか。確か告白された日、あの時も財前はあたしの家まで訪ねてきて、家に入れるまで引こうとしなかった。


財前は悲痛な表情のまま視線を逸らし、下唇を噛んで少し俯いた。


あたしは、財前にそんな顔をして欲しいわけじゃない。寧ろ笑って欲しい。視聴覚室で会っていたあの頃のように、自然な笑顔が見たい。

あたしといると財前はあの女の先輩から与えられたらしい苦しみから逃れられない。思い出してしまう。あたしといることが財前にとって苦しみの材料になるのなら、そう思ってお別れしようと決めたのに。

そんな顔されたら突き放せないじゃないか。以前なら平気で無視できた筈だけれど。



「入れば」



解錠するボタンを押してインターホンから離れた。それから棚の上に出していた財前のピアスを引き出しに放り入れた。さよならする意思を見せた以上こんなもの見られてはいけない気がしたから。



暫くしてインターホンが鳴って、あたしはもう何の抵抗もなくドアを開けた。



「どーぞ」



出来るだけ顔を見ないように、目を合わせないように、財前を部屋に招き入れる。財前も小さくお邪魔しますとだけ呟いてあたしの部屋に足を踏み入れた。


部屋に入った財前とラグの上で向かい合ってお互いに沈黙。あたしから話すことはないから、財前が話し出すのを待つだけだ。それなのに財前は俯いて、いっこうに口を開こうとしない。



「…名字」



やっと発した声は掠れていて覇気がなく、そこでやっと財前はゆっくりあたしに視線を向けた。その瞳は光を移していないような暗い色をしていて、感情を押し殺したように気持ちを映していなかった。


今何を考えているのかわからない財前の手がすっと伸びてきて、あたしを引き寄せた。突然のことにビクンと反応したあたしには目も呉れず、瞼が真っ黒な瞳を覆い隠して財前の唇があたしの唇に降ってきた。


驚いてあたしは身を攀じるけれど、財前は離そうとしない。それどころかあたしの背に腕を回してより密着してきた。抵抗を試みて、何度も胸を叩くけどそれも全く意味をなさない。


いったいどうして…。今までこんなことしてきたことないのに。



「ふっ……ん…」



深い口付けに無意識に声が出た頃、財前はあたしから離れた。その表情はあたしが今まで見てきたものとはまるで違う、別人のような暗いもの。



「どうしてっ…」



話をするだけだと思っていたのに。あたしがあんたのことを好きだとわかっていてキスなんてしてきたの。それなら何て残酷なんだろう。

だって財前は、あたしから離れようとしてたくせに。だからあたしももう気持ちを消してしまおうと思ったのに。これじゃあ忘れることができないじゃない。



「あっま…」



唇を親指で拭って、あたしを見つめた。

今度は瞳に光が戻っていていつもの財前。ただその瞳には緊張が現れていて、これからされるであろう話の重大さが感じられる。



「俺は、ほんまはこういうこと平気でするやつやねん」



あたしの知っている財前は、女嫌いで女子に触れられるのさえ拒む程。今告げられた言葉とは正反対だ。自ら触れ、キスをする財前なんて考えられない。

でもそれはきっと本当なんだ。今彼は全てをあたしに話そうとしているのだから。



「女に触れられへんのも、会話するのも、ましてや視界にすら入れたくないほど嫌になったんは高校に入ってからのことや。中学の頃の俺は全く逆やった。求められれば女に触れるし、キスも、それから…セックスやってしとった」

「…っ!?」



正直驚きを隠せない。9月に転校してきて半年くらいしか財前を見ていないけれど、とてもそんなことをしているのを想像できないからだ。まさかキスやその先まで平気でしていたなんて、あたしには想像し得なかった。

でもそれが財前にとって嫌な思い出であることはわかる。記憶を手繰り寄せながら、言葉を紡いでいく姿は、淡々としてはいるけれどとても苦しそうだ。



「俺がそうなったんは中学2年の頃…あの女に出会ってからや」

「あの女…」

「名字も見たことあるやろ?茶髪のケバい先輩」



あたしが見たことあるのは、財前が行方不明になった時に呼び出していた先輩だけ。あの人は財前と中学時代に先輩後輩で、財前に何か変化を与えた人。それはもちろん良くない変化で、財前には大きな傷として残っているみたいだ。



いったい、あの人は何をしたというのだろう。



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