さよならは言わなかったんじゃない。言えなかった。
でもすっきりした。ちゃんとあたしは前を向いてる。もう財前のことを思うのは今日でやめる。
だからせめて今だけはあいつを想って泣くのを許して欲しい。
「うあ゛ぁああ゛ぁあぁ゛ああぁぁ」
涙を堪えて家まで急いだ。部屋に入った途端、あたしは大声を出して泣いた。もうこれ以上声は出ないんじゃないかってくらい。泣くのさえ躊躇っていたあたしは、初めてこんなにも大きな声を出す。
手には引き出しの奥に仕舞っていた財前からもらった赤色のピアスを握り締めて、制服のまま泣き崩れた。
初めて人を好きになって、初めて側にいたいと思って、初めて好かれたいと思った。好きという新しい感情もフラれてしまった切なさも知った。
もう十分だ。十分財前はたくさんの気持ちを教えてくれた。
だからもうさよならなんだ。言うことはできなかったけど、ちゃんとお別れしたんだ。
「ごめっ…ごめんな、さいっ…くっ…ごめんな…さっ」
優しくしてくれたテニス部の先輩たち、応援してくれて励ましてくれた部長に申し訳ない。
でもこれで良かったと思ってる自分もいる。もうこれ以上、あたしも財前も苦しまなくて済むんだと思って内心ほっとしてる自分もいる。
「さよなら。さよなら……ひ、かるっ、うっ」
あたしは泣きつかれるまでその場で泣き続けた。そしてそのまま意識を失うようにその場で眠ってしまった。
それから目を覚ましたのは夜の九時過ぎ。
部屋は真っ暗で、リビングにある机で制服のまま突っ伏して寝ていた。そのせいで身体が痛い。それに大泣きしたせいで目が重い。これは確実に腫れている。でもそれさえも初めてのこと。
いい子にしなきゃ、捨てられないようにしなきゃ、そんな気持ちで生きてきたあたしが泣くことはほとんどなかったから。
でもどんなに我慢してきたって結局捨てられたから今一人暮らしなんてしてるんだけど。
「ふっ、馬鹿らしい」
何も頑張らなくたって勉強はできた。中学までは真面目だった。どんなに周りに嫌われても家族がいたから。
それすらも幻想だったことに気づくのが遅すぎた。偽りの愛で育まれてきたあたしは本物の愛なんて知るはずがない。
でも、
「…短い時間だけでも、好きになってくれてありがとう」
真っ赤なピアスを見ると、自然と笑顔になれた。
これは財前があたしを好きになってくれた証。独りじゃなかったっていう事実。
「もう、独りじゃない。でも財前とはさよならだ」
口にすると少しばかり寂しいけど。いつか、いい思い出になればいい。
ピアスは敢えて仕舞わない。棚の上に転がした。
もうきっと大丈夫だから。そしていつか、これを返したい。ありがとうって言葉と共に。
「よし。いつまでもこのままではいられない」
制服のポケットの中のミルクキャンディーを口に放り入れて、スウェットとパーカーに着替える。前髪もとめて、夕飯でも作ろうとした、その瞬間に鳴ったインターホン。
こんな時間に一人暮らしのうちに訪ねてくる奴なんていないはずだ。宅急便だって九時を過ぎてるんだから来ないはずだ。
不審に思ってカメラを見ると、そこにいるのは有り得ない人物が映っていた。
「は?なん、で?」
整った綺麗な顔を少し顰めて、色の異なるピアス達を際立たせる黒髪。学ランを身に纏っているということはきっと学校の後そのまま来たのだろう。
でもどうしても。ここに来る理由が見当たらない。
やっと覚悟が決まったのに。今会いに来るなんて反則だ。イエローカードだ。いや、むしろレッドカードだ。
そう思うのに、あたしの中では居留守を使うということは出来なかった。思わず通話ボタンを押してしまった。
「何しにきたの」
だけど自分の口から出たのは予想以上に抑揚がなくて、冷たい声だった。そんな声でそんな言葉を浴びせるなら居留守をしてしまえば良かった。
「…自分勝手なんはわかっとる。せやけど、どうしても名字に話したいことがあんねん」
カメラをじっと見てるってことは、きっとそれを通してあたしを見てるってこと。その瞳からあたしの心に財前の感情が流れ込んでくる。
苦しい、つらい、でももう覚悟を決めた。
そんな風に言ってるように見えるんだ。眉間に皺を寄せて悲痛な表情を浮かべるのに、瞳だけは揺れることなく真っ直ぐだから。
「もう話なら終わった、帰って」
それでもあたしは会いたくない。さよならを決めたんだ。どうせまた突き放される。
裏切られる苦しみはもう嫌なんだ。
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