鈍色、名もない歯車、蝋引紙、はじく洋墨、油色の日


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壊れかけた土地は潤み、血に染まった河川は陽に透け青を表現している。空は薄く広がり、風に硝煙は香らない。
生活が整うまでに十二年必要だった。同盟国はティントの独立以外に目立ったいざこざはない。


小さな環境設備における会議や承認、おたがいの思考を潤滑にするための視察会合、そんなものが毎日の仕事になっていたぼくは、月日の流れをなんとなくむなしいものに感じていた。



「最近、ハイイースト県の上層部が柔和になってきましたね」
「そうだね、落とされたときはどんな条約も飲まなくて、こっちはものすごい下手に出てたもんね」



執務室でクラウスの用意する書類に目を通し、羽ペンで慣れたサインを入れる。丁寧に漉かれただろう用紙はインクを吸いこみ、文字の縁に薄いグレーを飾った……これは墨が悪いのだろうか。
この書類は関税率と今後の輸出における条例についてのものだ。比較的寒い場所にあるハイイースト県での主な産業は農酪。牛や馬の他、小麦やジャガイモで生計を立てている。これを海路を用い輸出する際の税金が、今回、少し上がってしまうのだ。最近海賊が出回り、それを監視するための警備船を配置したことに原因が大きい。
以前ならば案件をはねのけていた上層部だが、今回ばかりは易く受け入れてくれた。いい人材でも入ったのだろうか。なんにしろ心を必要以上に砕くことが無くなったことは喜ばしい。



「これならもうそろそろ実行に移した方がいいかもしれないね」
「……テレーズ殿のことですか?」



「うん。ぼくはこうしてただ書類にサインしたり、オッケー出したり、学がないから簡単なことしかできないだろう? テレーズならもっとよくしてくれる。グリンヒルだけでくすぶらせるにはもったいない人材なんだ」
「ですが、リオウ殿の人望は厚く、それはなにものにも代え難いものだと思います。何も、君主を退かなくとも、今のままで十分あなたはよく行ってくださっていますよ」



「あはは、それはクラウスがちゃんとここに届くまでに吟味してくれているからじゃないか。ぼくはもうただの飾りさ」
「退いたとして、今後どうなさるおつもりですか」



「それは……まだ考えてないけど」
「でしたら、今のままが一番良い状況なのだと思いますよ」



クラウスは息をつき、穏やかな笑みを浮かべると用事の済んだ書類を持って部屋を出て行った。彼の言葉もよく解る。今後どうするかも決めないままに君主を退くなど、民衆も、役員も、テレーズも納得するわけがないのだ。ああ、重苦しいったらありゃしない。手で遊ばせていたペンで手のひらの紋章を縁取った。皮膚にしみ込み、柄が強調される。まるでシールみたいに見えるそれが、簡単に剥がせればいいのに。







米を発酵させて作った酒を舐めながら、窓の外を眺める。デュナンの湖は振動するかのように揺れ、写す月を震わせる。眠れない夜の慰めに、と視界を風景で満たしても、心は晴れない。少し散歩をすればいい気分転換になるかも知れない。ぼくは手燭台を用意すると、そっと自室を後にした。



船着き場の縁を歩き、眼前に近くなる水のかたまり。やはり近くで見ても振動しており、なおかつ水かさが増していた。
満ち潮に見えるそれだが、ここから海は遠いため、秤動が起きているのだと推測された。月が部屋で見たときよりも広がり、膨張しているようだった。深い色の天幕が目の前の劇場を包み、演劇が始まるのを今か今かと待ちわびる観客のような気持ちになる、しかし何も始まらないことがわかっている、そんなわびしさにも似た気持ちで風に吹かれた。



どれだけそうしていただろうか、後ろの木々の隙間から奇妙な空気を感じた。気付かぬふりをしていると、異様なそれが先に行動を仕掛けてきた。紋章の気配に振り返りざま対抗する。
左手を土から空へ向けるように印をふみ、魔力で出来た草花が自分を中心にサークルを描く。白い気流がぶつかってきたかと思うと、それは魔力の草花に絡め取られ、身動きが出来なくなる。



「白い狼……?」



手をのばし確認する前に狼のかたちをした力は大気に還元されていく。この紋章能力は、自分がまだ十代の時に見たことがあった……ミューズで対峙したときは金色に実体を持った狼だった、しかし、これはエネルギーを固めた子供だましのようなもの、いったい誰がこんなものを仕向けたというのか。



「フン……反射は衰えてないようだな」



心臓が一気に凍り付いた。一度聞いたら最後、忘れられない、全ての秩序を反転させてしまいそうな、独裁者の力を持った声に、口の中が乾くのを覚える。そんな、ヤツは、ぼくが殺したはずなのに。



白く浮き上がる体躯は、昔見たままのルカ・ブライトそのものだった。



「ゆ、幽霊なのか……?」
「どうとでも思うがいい」



問いに対し返ってくる答えはぞんざいで、頭の中が混乱に満ちていく。幽霊ならば、あの白い甲冑に身を包んでいるのではないか。しかし目の前の姿は旅人の軽装で、まるで長く歩いてきたような気風すら感じられた。



「貴様が君主だったか? みすぼらしい姿だな」
「これは夜着だからだよ」



白い貫頭衣のことを言っているのだろう、腕を組んで心を落ちつかせ、悪態で対抗する。二人の距離は約百八十センチ、縮まりも広がりもしないことにひとまずの安堵を得る。



「気風がみすぼらしいと言ったのだ、何の覇気もない貴様が、よくやってこられたな」
「……平和になったからね、もう覇気なんていらないんだ、外交力と、決定する責任力があるだけでいい」



「果たして、どうだろうな」
「なんだと?」



ふいに、ルカはこちらに向けて何かを投げ寄越してきた。球形のそれは水晶玉のような、紋章球、見覚えのある黒い剣の。背筋がぞわりと総毛立つ。



「これ、は、ジョウイの……紋章じゃないか……」
「そうだ。ジルから預かってきた」



「お前が、殺したのか」
「殺したかったがな、それを外して死んだらしい」



彼はもうこの世にいないのか、その衝撃が圧迫感となり、息苦しくなる。喪失感で体中が重くなる。ジョウイはナナミのところへ逝ったのか、自分を置いて、先に……
膝をつきたくなるのを堪え、目の前の男を睨み付け、気をしっかり持つことに専念する。



「お前はどうして生きている」
「そもそもオレは貴様に殺されて等居ない」



「……どういうことだ」



「俺は獣の紋章を体に埋め込んでいた、不死の状態だ。瀕死にはなっても、完全な死には至らない。だが、ジョウイはそれすらも利用した。そういったところは褒めるべき奴の利点だが」
「ジョウイが、ルカ・ブライトを利用……?」



「あいつは俺を人身御供にし、獣どもを操ったのだ。抵抗する俺に奴もだいぶ苦労したみたいだがな」
「じゃあ、城に、お前も居たのか」



「……地下にな。崩壊したときは喜んだものだ。これで自由になれると」
「だけど、お前は殺戮することなく、今まで生きてきた、それは何故だ」



「人間を根絶やしにすることが出来ないからだ」
「……お前は、自分すらも人間のカテゴリに入れるんだな」



「そうだ。不老不死の俺が最後に自害したところで、生き返ってしまうからな」
「それで、放浪の旅を?」



「ああ、どうせ死滅させられないのなら、強い人間と戦って遊んでいた方がいいだろう」
「人間丸くなるもんなんだね」



「諦めている、の間違いだな」



こちらに対し用が済んだのか、遠い目をしてきびすを返すルカを思わず呼び止めてしまう。
何故止めたのかはわからない。



「……なんだ」
「えっと、その……また、会える?」



「は?」
「いや、えっと、強い人間と会ってるんだろ? ぼくだって、その部類に入るんじゃない?」



「……貴様のようなふぬけが、強いだと? 笑わせるな」
「一度殺されかけた奴が言う台詞じゃないと思うけど」



「チッ……ならば、また天秤が揺れる夜に来てやろう」
「天秤? ああ、そういうことね、わかった。ちゃんと装備を調えて待ってるよ」



「フン、来るとは限らないがな」
「来るよ、だってぼくが待ってるもの」



穏やかに笑んで手をふれば、眉を寄せて森の中に姿を消していく。
思うよりも普通に対応が出来た自分に、ほっと息をついた。奴が二十七で時を止めているのなら、今のぼくと同い年だ。そういった感覚が気軽さを生み出したのだろうか。
それでも、ルカ・ブライトの持つ重さを自分はまとえていないけれど。こういったところはやはり生まれや資質なのだろう。



手の中にある紋章球に目を移した。ジョウイは何を思い、封印し、逝ったのだろうか。ジルさんは、最期を見届けたのだろうか、ピリカは、ちゃんと受け入れられたのだろうか……袂を分けた相手を心配する、それはいけないことだろうか。君主としては駄目かも知れない。けれど今は友人として、死を悼みたい。



両手で包み込み、額に寄せ、亡骸を抱きしめるように静かに涙を流した。満ち潮の夜は更けていく。







「ねえ、ザムザと手合わせしたいんだけど」
「……ザムザとですか? これはまた、一体どうした風の吹き回しですか」




執務室で毎日の業務を行い、最後の一枚にサインし終えたところでクラウスに声をかける。いつものように息をついて、貼り付いた笑みを少し複雑にさせながらこちらの考えをより深く聞こうとしてくるその姿は、どこか嬉しそうにも見えた。錯覚だろうか。



「最近全然体動かしてなかったし、勘が鈍ってるんじゃないかなあと思って。オウランにお願いしたかったんだけど、シーナについて行ってるだろ? ハウザーはミューズに指揮官の会合に参加してるし、ってことで、消去法で残るのはザムザだろ」
「……いつもあの方は消去法で選ばれるんですね……」



「いいじゃん、そういう星の下に生まれてるんだからさ。ね、いいかな、セッティングしてくれる?」
「構いませんよ。あなたの行動に城の皆も活気づくでしょう」



「それと、近いうちにハイイースト県の視察に行きたいんだ。それからグリンヒルに寄って、テレーズと話したい」
「……何か企んでらっしゃいますか」



「ええ? 人聞きが悪いな、君主が君主らしいことしちゃいけないの?」
「いいえ……かしこまりました。そちらも使者を送り、準備をしておきましょう。でも、またいきなり何故」



「……気になることがあってね」



机に肘をつき、顔を支えた。湖で出会ったルカの言葉が引っかかっているのだ。覇気が無くてもいいと答えればうやむやな言葉を返してきた。何か、あの男は知っているのではないか、言葉の裏に思いを馳せる。それが出来る程度には大人になったと思っている。
クラウスは思考に更けるこちらに続く言葉がないと判断したのか、昼食後に訓練場にいらしてください、とだけ残し、退出していく。扉を閉めるその一瞬、こちらを伺う目があった。
不審に思われただろうか、まあ、それでも構わない。



執務室に一人になり、午前の仕事も終わらせてしまったため、椅子から立ち上がり、隅に置かれたクロゼットを開けた。外交用にと刺繍の施されたオートクチュールがならぶ中に、使い古された道着を見つけ、手に取った。身丈の長く、袖の広いパオに着替えると、トンファーを握り、訓練場へと向かう。







木人相手に組み手をしていると、食事を終えたらしいザムザがゆったりとリラックスした様子で訓練場に現れた。時間が経ってもこの小さな傲慢ぶりは変わらない。彼のそこが妙に気に入ってしまっている自分が面白かった。



「やあ、これは君主殿。私と是非に手合わせをしたいそうで」
「うん。そうなんだ。ザムザの魔法ってすごいだろ? 鈍った体に活を入れてもらいたいと思ってね」



「ふふふ、その言葉に応えることは簡単だが、後悔はしないように」
「そんなもったいぶっちゃって、ザムザの方こそ体が鈍ってるんじゃないの?」



「この私にそんな口を利いていいのかな?」



ちりちりと火花を散らし、ザムザの腕が炎に纏われていく。緩い熱気がすぐさま灼熱のそれにかわり、こちらも不敵な笑みでトンファーを構えた。
どちらからともなくお互いの懐に入り込むように走り出す。拳を受け流し、その流れで両手をつき、足蹴りを喰らわせる。ザムザはそれを炎龍で攪乱すると、距離を取り、火炎を踊らせるように放出してくる。額の水の紋章で相殺しながら、魔法を使えないように印をふんだ。城内が水球に満たされたところでただの殴り合いが始まる。



ザムザのいいところは、魔法使いのくせに肉弾戦に長けているところだ。途中でトンファーを投げ出し、こちらも拳で応戦する。さばき、払い、打ち込み、そしてさばかれ。一歩踏み込み弱筋に手刀を入れようとすれば気付かれのけぞられる。そのとき、魔力の皮膜がかき消えた。タイミングを合わせ、盾の紋章を輝かせる。光に目をやられたザムザはあおむけに倒れ込む、すかさずそこへのしかかり、首を圧迫する。勝者はぼくだ。



「やっぱり鈍ってましたね」
「ふ、ふん、食事の後直ぐに動いて腹が痛かっただけだ」



「では、何度でもお手合わせ願いましょうか!」



飛び退き、トンファーを手に取った。起き上がろうとしているところにトンファーを突っ込ませに走る。炎の壁がこちらを阻む中、紋章で互いを回復させる。これでまたフルで戦える。流れるような攻防はいつしか観客を呼び、白熱した一時を演出したのだった。









酒場で兵士達と飲み交わしながら、次は自分と手合わせを、と言う会話に接待的な意味でまた今度を繰り返していれば、クラウスがやってくる。席をひとつ空けてもらい、座るように促した。レモンスカッシュが運ばれ、自分の焼酎と乾杯する。



「なかなかいい試合をされていたようですね、城の全員が楽しそうにしていますよ」
「うん、面白かったよ、クラウスもやる?」



「いえ、私はもう脆弱さを理由に退いた身ですから」
「なにも、戦おうとするんじゃなくて、スポーツだと思ってやればいいのに」



「あなたはそう思って手合わせしている訳じゃないでしょう」
「……そうだけど」



「でしたら、それは互いに無礼ですよ」
「うーん、そうだろうけど、ぼくはクラウスと戦ってみたいよ」



「チェスであればいつでもどうぞ」
「えー、あれ苦手だ。訳わかんない。最初から陣形変えられないじゃん」



「それは、そうでしょう、公平を期すためですから」



愉快そうに笑われ、それがいやでテーブルに顎をつけ、不満げにクラウスを見つめた。ごまのスティッククラッカーを差しだされ、ぱくりと食らいついてやる。




「来週、ハイイースト県へ視察に行ってください。二日の滞在の後、グリンヒルで一泊する手筈を整えます」
「ここから船と馬で二日、ハイイースト二日、移動に一日、グリンヒル一日、帰路に一日、一週間で予定立ててくれたんだ、ありがとう」



「ええ、それ以上はこちらの仕事も滞りますので、ご理解いただければ」
「十分だよ。いきなりわがまま言ったのはこっちなのに、調整かけてくれて嬉しいよ」



「あなたは私の絶対君主ですからね」
「遠回しに独裁者って言われてるみたい……」



拗ねた振りをして焼酎を飲めば、またクラッカーが差しだされる。同じように食らいつけば、何が面白いのかどんどん食べさせてくる。果てにはその場に居合わせた者が皆唐揚げやらフルーツやらを口元に持ってくる。素直に餌付けされていると、クラウスが苦く笑った。









ハイイースト県のどこにも不穏な箇所は見つからなかった。深読みしただけなのか、自分の感覚が間違っていたのか、あまりの静かさに眉を寄せた。馬も、牛もよく育ち、小麦と芋の発育も順調だ。ハルモニアとの境にある関所にも行ってみたが、眼帯をした寡黙な男が気になったくらいで、他は普通だった。そう、普通。
何もかもがテンプレートやマニュアルに沿ったものみたいに、典型的な何にもない日常だった。こっそりと村人達を眺めに行っても、不平不満があるでもなく、食事に困ることもない様子で、元ハイランドの人間としては安心できるものだった。そう、人々は最初こそ渋ったものの、今では暮らしを受け入れ、新しいしあわせに触れようとしてくれている。
それのどこが悪いことか。いいことじゃないか。何も悪いことはないのだ、ルカ・ブライトの言葉を深読みした自分が悪いだけなのだ。



グリンヒルでは、テレーズがカラヤ族と和解をした祝いも兼ね、ハイイーストで仕入れた小麦と牛を数トン贈った。牛を放牧する場所がそんなにないということで、その場でさばき住民に肉を配った。人々の嬉しそうな顔に、テレーズも微笑する。牛の命には謝罪し、感謝した。




「本日は祝いのためだけにいらっしゃったのではないでしょう」



食事会も済み、互いにワインをくゆらせるだけの空間になったとき、テレーズから行動に移してくれた。こちらから言葉にすることがなくなり、ありがたさに口の端がゆるむ。彼女は聡い。やはり彼女こそ、デュナン君主国に君臨してもらいたい存在だと思った。



「そうだよ、お祝いもあったけど、それとは別に、あなたにデュナン君主になっていただきたいと思っていて、それを知って欲しかったんだ」
「度々……文で頂いておりましたが、まさか、冗談かと思っていました」



「ぼくは、君しかいないと思ってる」
「そうでしょうか、あなたを慕う方は沢山いる、そこに割り込む自信は私にはありません」



「……僕を君主たらしめるのはね、これのためだよ」



右手を掲げ、ホログラムのように輝く盾の紋章を掲げて見せた。夜闇に微睡む暖かい明かりの中で、それはぎらつくように存在感を表す。



「紋章と、過去の功績だ。そして残念なことに、ぼくは未来に新たな功績を残せない……わかるよね、統一戦争以上の争いは、起こらないし、起こさせないんだから。でも君は違う。より堅実で、民衆に寄り添う、やさしい功績を残せるんだ。少なくとも、ぼくはそう信じているよ」



紋章をしまい、ワインに口を寄せた。渋みと酸味のきつい液体は、舌先にざらつく。



「グリンヒルの人々を残すことは、私には出来ません」
「君の力は、グリンヒルのためだけにあるのかい? それは、他の人々に対して不公平だよ、君主になれば、公平に君の能力が発揮できるんだ」



「どうして、そこまで推すのですか、あなたのいる場所を」
「僕は多分辞めたいんだよ、君主という空っぽの自分をね」



微笑んでみせれば、テレーズは俯き、ワイングラスをくゆらせ続ける。それは悩んでいる証拠なのか、こちらの思惑が理解できないのか。



「少し……考えさせてください」



上々な答えをもらい、機嫌が良くなる。考える、と言うことは気持ちが揺らいでいる証拠だ。彼女は逡巡し、そしてかならず君主の座を受け入れるだろう。彼女の機知は、彼女が一番よく解っている。自らの力を最大限に発揮できる場所がどこなのか、よく理解しているはずだから。









再び、満ち潮の夜がやってくる。
夜着姿でカンテラを持ち、振動に震える水面を眺めていると、殺気が走る。慌てることなくトンファーを振り上げ、剣の動きを止めた。



「ほう、言葉に偽りはなかったようだな」
「そりゃあね、あんたと同い年だし、まあ、身長は追いつかなかったけど、年月は体を成長させてるんだよ」



答えたところで次はこちらから不意打ちをかける。カンテラをほうり投げ、明かりに驚く目の前で破壊する。すると一瞬世界が全く読めなくなる。これはどんなに屈強な人間でも変わらない。そこを狙い、踏み込むと利き腕の腱を潰しにかかる。気付かれたのか野生の勘か、腕を反転させ庇われる。そのまま剣が横滑りするように闇を切りさいた。瞬時に持ち替えたのか、おそらくは両利きだ。トンファーで受け止め、間合いを広げた。湖に湿気った土をかかとが削り取り、皮膚につく感覚は冷たく、気持ちのいいものではない。



「頭も回るようになったな、その狡賢さはお前のところに居た軍師譲りか」
「シュウのこと? そうかも知れないね。ずっと近くで見ていたし、色々と教えてくれたのは彼だったから」



「かわいげが無くなったはずだ」
「あれ、ぼくのことかわいいと思ってたの、今でもかわいくない?」



「減らず口をたたくな、殺すぞ」



降りかかる刃にトンファーをあてがうと、もう片方の持ち手を変えリーチを伸ばす。一直線に打ち込めば、腹筋に刺さる感覚が伝わる、しめた、思わず口の端が上がった途端、防御していたトンファーごと振り切られ、腕の筋肉と肋骨が衝撃にひびいた。お互いに鈍い声を上げる。



「ねえ、すっごい痛いんだけど」
「当たり前だろうが」



剣とトンファーが応戦する。



「あのさ、ルカは何か知ってるのか」
「何をだ」



「ハイイースト県で、起ころうとしていること」
「今はそんな名前だったな」



「あんたの言葉が気になって視察に行ってみたけど、どこもしずかなもんだった、普通だったよ」
「フン、しずかではない場所がしずかであれば、普通では無かろう」



「しずかじゃない場所が、しずかだったら、普通じゃない……? ごめん、わかんない」
「フン、緩い部分もあったわけか」



「学のない人間で悪かったな……あ、そうだ、かわいげあっただろ?」
「ククッ……あったと言ってやろう!」



「ははっ、あんたとこんな軽い会話出来るようになるなんて思ってもみなかったな!」



渾身の力をこめて武器を叩きつける。力は相反し合い、お互いを吹っ飛ばした。
勝敗はつかないが、それは五分五分であるということ。十二年の歳月は伊達じゃないなあ、なんて感慨深くも思う。ルカにだって流れているだろう年月だが、成長が止まっている分、ぼくが追いつけたのだろう。



同じように息を切らしている相手に向かい、手を差しだした。軽く払われた後、手首を掴まれる。



「握手なんだけど、これ、手首掴むのは違うよ」
「貴様と握手する気は毛頭無い」



「じゃあ、これはどういう意味?」
「生涯の敵、ということだ」



「ふうん、いいね、それ」



手を振り払い、こちらも手首を握る。指の回らない腕が憎たらしい。



「あんたと好敵手になれるとは思わなかった。生きてみるもんだな」
「……お前はよくやっている」



トーンを落としたいきなりの言葉に、目を見開く。明かりといえば月と星しかない場所で、よりいっとう見えるはずもないのだが。



「国は波無く豊かだ。元皇子として礼を言う」
「……あんた、いいヤツだなあ。ちゃんと自分の国見てるんだ、すごいよ」



手首を外して二の腕を叩いてやる。それを甘んじて受け入れている表情はどんなものだろうか、夜闇であることを嘆きそうになった。近いのに、遠いライバルは、何を考えているのだろう。



「だからこそ、言おう、気を付けろ、と」



不意に鼻をつままれ、驚いている間に、ルカ・ブライトの気配が消えた。気を付けるとは、いったい何に対してのことなのだろうか。居なくなった方向を眺め、さよならを呟いてから口をきゅっと引き締める。カンテラをひとつ壊したことを、クラウスに告げるのが怖くなったからだ。









日の出の前のことだった。早馬で駆け抜けた伝令が兵舎を通り、クラウスへ届き、そして寝ぼけ眼のぼくに伝えられた。



ハルモニア南部辺境警備隊、及び義勇軍、兵力およそ三万の軍勢がハイイースト県を落とそうと進軍し始めたという、あって欲しくない内容の。




「今から密書を書く! 急ぎトランとグリンヒルへ使者を出せ!」
「何か考えがあるのですか」



「ラダトにも文を出す、シュウなら応じてくれるはずだ」
「……シュウ殿を!? あの方が手を貸してくれるなど、ありえない!」



「はは、ありえないはずがない、軍主が泣いて困ってると伝えれば、嫌が応にも動きたくなるさ」
「そんな馬鹿な」



「……ほら、急いで! 時は一刻を争う、夕刻には精鋭部隊が出立できるように整えろ!」



羽ペンを動かしながら久しい凶事にまごつくクラウスを諫める。今ならルカの言葉がわかる。どうして気付かなかった。ハルモニアの辺境部隊がこちらの動きを甘んじて受け入れるはずがないのに。しずかなものが、おかしかったはずなのに。今歯がみしたところでもう遅い。




「クラウス、君は優れた軍師だ。だからこそ、ここで総指揮を執り行わなくてはいけない。テレーズの補佐をよろしく頼む」
「ど、どういうことですか」



「ただ今の時をもってデュナン君主にテレーズを迎え入れる。この軍事行動の責はすべて僕が背負う。気兼ねせず采配を振るえ」
「あなたが何を仰っているのかわかりません」



「君主として、最後の仕事に行くのさ」



トランへの陳情は応えてくれるか不安があるが、一時の貸し出しだ、こちらの特産物でも献上すればなんとか対応してくれるだろう。テレーズの心はすでに決まっているはず、考えも理解してくれているはずだ。そしてシュウなら、ぼくが用意した駒を遺憾なく利用してくれるはずだ。



精鋭部隊二千五百の兵士を連れて、夕闇に紛れるように早馬で駆け抜けた。









翌朝たどり着いたときには、ハイイースト県の兵士達は疲弊し、殺され、その数を少なくしていた……動かぬ戦友を堀に敷き詰め、残されたものは鼻を啜っていた。
死したものを生き返らせることは出来ない、もっと早くたどり着けていれば。自らを叱咤したところで、この現状は変わらない。頭を切り換えるために地形図を広げた。
特徴のない平原を戦場にする、すなわち、奇をてらう戦法は基本、使えないということだ。
援軍が来るまで耐えるしかないのか、グローブの上から爪を噛んだ、皮からにじむ塩味が、舌をしびれさせてくる。



ハルモニア軍から早足の大太鼓が聞こえてくる。昨日の大勝から兵の士気は上々だろう、ここにいても勇んだ雄叫びが聞こえてくる。



「魚鱗の陣を敷け! ハイイーストを守る! 土地も、作物も、馬も牛も、もちろん、自分たちの命の誇りを最後まで守り続けるんだ!」



ざわつく兵士達に活気は見られない、のろのろと、命令に従う、それだけを目的として動き始めていた。元々彼らもハルモニア側の人間だったのだ、これほどの犠牲を出してまでデュナンにつく必要もないと思っているのだろう。鼓舞し、士気を上げなければ。



「ぼくは、君たちを見捨てない! その証をここに見せよう!」



右手を掲げ、紋章のリミッターを外し、最大出力で味方の全てに光が降り注ぐように調整する。空中に大きく輝く盾の紋章とその治癒の恩恵に兵士達がどよめき、色めきたっていく。
体中の血が無くなっていくのを感じ、めまいがするのを堪える。これは相手にも衝撃を与えるはずだ。二十七の真の紋章のひとつであり、君主国の象徴である輝く盾が守護しているとわかったのだから。



しかし、この力も規模を考えればおいそれと使ってはいられない、子供だましに近いものがある。策が成るまでごまかしが利けばいいのだが。



ハイイーストの兵士とデュナンの精鋭軍はぼくのはったりに簡単にやる気を取り戻してくれたのか、美しい陣を敷き、領地を守る壁となる。一陣、二陣、三陣で構成されたそれは鈍い鉄の絡み合う音をひびかせ、応戦していく。
しかしそれでもどれだけ持つかわからない。ハルモニアの辺境警備隊だと言うが、戦闘における手練れがいるらしい。紋章攻撃と帯刀を合わせた攻撃に、平和慣れした兵士は歯が立たない。
馬上にて伝令と縮図で戦を眺め続けるのは性分に合わない。しかし、この中で戦争に慣れている上官と言えば自分しか居ないのだ。なまじ生き残ることを第一に訓練させてきた兵士ばかりだ、対人相手の殺生に身がすくみ、本陣へ逃げ帰ってくるものも多い。連続で使い続けた紋章による疲弊もすさまじく、戦わずして死ぬかも知れないな、と自分で自分をあざ笑った。



こちらの形勢が悪くなり、ハルモニアの軍隊が伝令無しに確認できるようになったとき、手練れがどの人物なのかようやっと見当がついた。視察の際に目に留まった眼帯の男だ。奴を止めれば戦況は変わるかも知れない。しかし、いったい誰に。
そのときだった。北の森から飛び出してくる少数部隊の姿に、僕は目を丸くしてしまった。どれだけ小さな姿でも、慣れ親しんだ人のかたちはよく解る。



「よお、リオウ!! 来てやったぜ!」
「困ってるって聞いてな! 案の定だったみたいだな!」



「ビクトール! フリック! 黒い隻眼の男を止めてくれ!!」



再会の挨拶は無しだ、すぐさま目標を伝えることが、助けに来てくれた彼らへの最高の謝辞になる。



「よっしゃ、まかせな! 行くぞ! せいしん……は無かったっけか」
「……お前のたれ死ぬんじゃないか?」



「おいおい、長く付き合ってもまだビクトール様の本領を知らないようだな、ようし、いっちょ見せてやるか!」



空気の派手な二人組は流石になれているのか、こちらの指し示した目標に一直線に向かっていく。
そしてそのタイミングに合わせ、二頭の騎馬兵がこちらへ近づいてくる、クラウスと、トウタだ。二人は陣にたどり着くと滑り落ちるように馬からはなれた。トウタは負傷者に歩み寄り、クラウスは手紙を広げながらこちらへ早足で向かってくる。早速文を受けとり、目を通す。



「まさか本当にシュウ殿が馬を飛ばしてくるとは思いませんでした」
「言っただろ、直ぐ来るって」



「さすがですね、トランからの物資をすぐさま兵法に組み込まれるなど」
「クラウス、感心ばかりしてちゃ駄目だよ」



「それは、そうなのですが、自分の凡才を突きつけられてしまうと言うか」
「……クラウス、それじゃあ、このミッションにおいて君はどんな陣を敷く?」



「私なら……鋒矢の陣を敷き、相手の陣を分断します」



悪戯を仕掛けるようににやりと表情を伺えば、言いよどんだ後でしっかりと言葉にする。それは彼の利点であり好きなところだ。謙遜するのに、しっかりと意見を述べる。彼はテレーズの良い右腕になるだろう、にっこりと満足げに笑ってみせれば、クラウスはきょとんとこちらの心にも気付かない。兵法とは心を読むこと、なのにそれをただの人で活用できない不器用さも好きだ。



「よし! 陣形を変える! 大将にクラウスを置き、鋒矢の陣を敷け!」
「わ、私が大将ですか!?」



「そうだよ、君はテレーズ君主の代理だろう」
「あ、あなたはどうされるんですか」



「決まってる」



体を動かしたくてうずうずしていたのだ。



「先陣切って相手の大将の首をはねてやるんだ!」



満面の笑みで答え、縮図と伝令書をクラウスに託してしまうと、両手にトンファーを持つ。両手に馴染む重さに心が躍る。やはり、自分のいる場所は頭脳ではなく身体なのだと実感した。









矢尻のような陣形が敵陣を分断するのを先導するように単独で自軍を駆け抜けていく。旗を振りかざし、勝機はあると鼓舞していけば、兵士達の武器が高く掲げられていく。
鈍色のアーチの中を、馬の背につくようにかがみ、すり抜けていった。











落馬させようと躍起になる長槍をトンファーで叩き割っていくが、裂けた木片の殺傷力を舐めてはいけない。負けじと振りかざしてくる敵兵の精神は自軍にも見習ってもらいたいものだと感心さえした。避けては頭頂部を殴りつけ、戦意を意識もろとも奪っていかなければ先に進むことは叶わない。



「君主どの後ろです!」



誰の声かはわからない、その声に意識を向ければ、目の前には振りかぶってくる槍の残像があった。瞬時に体をひねるも体勢を崩し、鐙に引っかかった足のために体はひっくり返り、頭から湿気った草の上に放り出される。上半身を引きずりながら、馬は勝手に走っていく。刺し殺そうとしてくる刃物の動きに苦し紛れの霧で対抗し、足をしっちゃかめっちゃかに動かし、どうにか体を馬から解放しようと踏ん張った。しかし簡単には外れてくれそうにもない。クソが、などと悪態をつきながら拾い上げた剣で鐙を支える力皮を押し切り、やっとのことで解放される。
きりもみし草に細かな傷を付けられながら体制を整えるタイミングを見計らう。すべるように大地に足を固定すると、脳震とうにくらむ頭を勢い良く持ち上げる。刹那、取り囲む刃。



「デュナン国君主、リオウだな」
「……ぼくに名など無い。君主はそもそもリオウではない」



眉を寄せ戸惑う兵士達に嘲笑した。自分の望む未来の形が見えたからだった。数秒の静寂の中、自分の頼りない鼓動だけが聞こえていた。が、それもすぐにかき消える。
陣太鼓の激しい繰り返しと観客が囃したてるような喧騒が一気に戦場を包み込んだからだ。



……策は成った。



何が起こったのかと戸惑う瞬間に狙いを定め、流れるように兵士達の腕を切り落とす。重力を感じる落下音と、ぬるい体液の噴き出す音。絶叫の中、新しい剣に持ち替えると脇目もふらずに走りだす。人の群れから抜け出たときに、初めて後ろを振り返った。
ハルモニアの軍隊を両脇からデュナンの軍隊が挟み込んでいる。房かざりのついた旗を掲げる兵士のそばに居る懐かしい姿に手を振った。タイミングまで計るなんて流石同盟軍最高の軍師だな、なんて思いながら。



シュウはこちらを一瞥し、直ぐ戦場へ向きなおった。戦時における緊張を取り崩さないその姿が、何年経っても変わらず、嬉しくなった。




血まみれになりながらひとり敵陣営へ走る姿を第三者から見ればどう感じるだろうか。簡単なことだ、ただの殺人鬼に違いない。息の切れる喉から吸う空気は血が混じり、もはやただの味なのか気管が傷ついているのかすらわからなかった。










たどり着いたところの大将はフィッチャーをもう少し小憎たらしくしたような髭の男だった。剣を掲げ、こちらを睨んでいる。息を整えることに集中しながら、渇いた喉を飲みこんだ。



「侵略行為を直ちに止めてください。そうすれば、命と身柄はハルモニアにお返ししましょう」
「生ぬるいお言葉ですなあ、君主どの」



「……一言も、飲めないと、この、生ぬるい提案を、ひとつも受け入れることは出来ないんですか」
「我々はハルモニアのために、そして踏みにじられたブライト皇家復権のために立ち上がったのだ! 隷属を呑むような条件を受け入れる術はない!」



「では! その命を持ってこの諍いを納めさせていただく!」
「その命を奪って安寧を再び我らハルモニアに献上せん!」



剣を振り上げ上段での攻防、力で押し込み、体勢を崩したところを払いに出るが受け止められてしまう。互いに不利な体勢での力比べだ。それをすくうように流せば、一振りで届くような位置に間合いを詰める。



この大将は、ハルモニアにこの地を献上したいのだ。それを考えれば、これは国の意志ではなく、彼らの個人的感情が引き起こした戦争ということになる。流れていった十万と約五千百二十時間は、おたがいのわだかまりの少しも溶解してくれなかったことに気が付いた。土地が肥え、人が潤えども、根本は変われぬ者があるということ。歯がみしても何も変わらないのはわかっているが、それでも悔しさがにじみ出てしまう。戦争は何故起こるのだ、砂と水で洗われた上に成り立つ歴史は、混沌と黒い血液が基盤にあるというのか。



ならばなんとむなしい人の生きる礎よ。血を捧げずに成り立つ歴史など有りはしないのだ。



綺麗事を並べて生きてきた自分を恥じ、ルカ・ブライトの大きさを改めて知った。彼こそが歴史を体現している、血で全てを終わらせようとする高潔な人種。
それに比べればなんと幼稚な考えを持って生きてきたのか、この世に美しいものなどすべてかき消えてしまっているのに。



それでも。



ぼくは愛する人々がしあわせに暮らすために、この時代を穏やかなものにしたいのだ。
利己主義のかたまりに辟易し、自嘲気味に剣を振るう。




下からすりあげるような動線をたどった剣はそのまま手を離れ、弧を描くように原っぱに落ちた。目の前がまっ白になり、思考が停止した。いったい何が起こったのかわからなかった。ただ、何も考えられず、膝の力がぬけ、かくりと足が役割を忘れたかのようにほどけると体が落ちていく、目に焼き付いたままの宙に飛ぶ剣と同じように、倒れる。



ほどなく頭上から暖かな雨が降り注ぎ、鼻腔に鉄の匂いを染みこませていった。









「リオウさん、リオウさん!」



乾いた目を瞬かせると、眼前に浮かび上がるのは、髪型こそ昔と違わねど、立派な医者としての気風を兼ね備えたトウタの顔があった。心配そうな表情の横で、同じように心配する少女の顔。恋人か何かかな、いやだなあ、人がみんなどんどん先へ進んで、置いてけぼりになっている気分だ。それでも嬉しいんだから人間の感情って難しい。



「リオウ殿、体調はいかがですか」
「う……ん……戦争はどうなったの……」



「覚えてないのか。お前が大将の首をはね、それで終わりだ」



首をはねた、自分が? 記憶の中では、僕の武器はどこか遠くへ飛んでいったはずなのに、周りの意見と意識が合致しない。
不可思議な感覚を持って眉を寄せると、ビクトールが頬をつねってくる。



「紋章の使いすぎで頭イカレちまったか?」
「おい、怪我人に手荒なまねをするな」



フリックが頭をはたいてくれたおかげで、頬から手が離れる。ゆっくりと体を起こすと、それを支えてくれるのはクラウスだ。シュウは手を添えることなく、ただ動きを見つめている。



「トランに貸しが出来たな」
「シュウなら、ヘリオンの大鏡を使いこなせるって思ったんだ、大正解だった」



「……一度しか使えぬ転送装置を、光源で二箇所に分けるのだ、おれ以外の思考回路が活用できるはずもない」
「シュウ殿が焦魔鏡の文献を手にしたのは、それでしたか……」



クラウスもクラウスなりに考えていたのだろう、シュウに一歩及ばずと言ったところだろうが、陣形の選択は正しく機能したし、なによりも、これからの世界には彼の気質こそふさわしい。恥じ入る頬に人さし指を押し込んでみる。驚き眉を寄せる姿に笑ってやる。



「戦争は終わったってこと?」
「ああ、一ヶ月の戦争だったな」



「でも、彼らの中では、何年も前から準備していたことだろうし、きっと、終わることもないんだろうね」



ぼくの言葉に、みんな静かになる。終わる戦いなど無いのだ、ただ、息を潜めているだけで。



「ビクトール、フリック、ありがとう」



空気を替えたくて、言いたかった礼を簡素に伝えれば、二人は笑う。



「なあに、こっちも楽しませてもらったさ。リオウが言ったあの眼帯の男、なかなかの使い手だったしな」
「そうだなあ、落ち着き払いやがって、おれたちとそう世代も変わらないくせによ」



「クラウスが彼らに連絡を?」
「は、はい、使えるものは何でも使え、とシエラさんに言われたことを思い出しまして」



「すごく助かったよ、ありがとう、クラウス」



肩を叩いてそう言えば、まんざらでもない様子で微笑む。そのまま肩に体重を置き、ゆっくりと立ち上がると、シュウと向かい合わせになる。大人になったというのに、彼にも身長が届かなかった。見返したい相手は、目に見える形では決して追い越させてはくれない。



「ありがとう、シュウ」
「……泣かれたままなのは、夢見が悪いからな」



斜めに構えて微笑む彼の手を取った。ゆっくりと握りしめて、そうして放す。



「君の少年はもう居ないのに、それでも助けてくれて、ありがとう」
「何を言う、お前はいつだっておれの王だ」



シュウの言葉に泣きそうになるのを堪え、後ろでたたずむクラウスに向き直る。



「クラウス、君は、ぼくの大切な家族だ」
「いきなり何をおっしゃっているのですか、まるで、今生の別れみたいに」



「……だよねえ! みんな、はやく帰っておいしいもの食べて騒ごう!」



おもいっきり顔を歪ませて笑顔を作り拳を振り上げてみせれば、懐かしい面々も破顔した。









祭りのような祝宴は一週間続いた。肉の焼ける匂いでいっぱいになった城の廊下をゆっくりと歩いていく。踏みしめるごとに、思い出がよみがえってくる。今の自分を作り上げた運命というには重すぎる日々が足音にゆっくりと馴染んで消えていく。
朝焼けの近づくときに起きているものはいない、夜の中の人間は目を閉じて、ひととき神の御元に落ちつき、安寧に浸っていることだろう。
その眠りの泉に波紋をたたせないよう、慎重に歩いていく。
歩いていく。
歩いて。
行く。








湖を挟んで望むデュナン湖城にゆっくりと目を細め、のびをした。陽はすでに顔を出し、人々はじわじわと異変に気付き始めるころだろうか。
全てを置いてきた。気に入ってた服も、爺ちゃんが買ってくれたサークレットも、愛用のトンファーも、何もかも。身につけているものは簡素な夜着、所持品はナナミの写真と、ジョウイの紋章球、そして金。うん、上々じゃないか、と空を仰いだ。雲がたなびき、天候は必ずしも良いとは言えないが、きっとこれから晴れていくことだろう。
湖面に光が反射して城が夢の建造物のように目に映る。もう彼処には帰らない、二度と、彼処へは足を向けない。



思い出と夢の中でだけ足を踏み入れることになるだろう、それはぼくの願いのひとつ。



長く世話になった住処に背を向けて歩き出す。まずは服装を整えよう、いつもなら着ない服を着て、装飾品で飾り立てるのも面白そうだ。やってみたいことが次々と溢れ出して心が躍る。



「……なんのつもりだ」



街道脇の森の中から声がする。それが誰なのか直ぐにわかって、意識して無視をした。すると森の中で横並びになるように、草を踏み荒らす音がひびいた。



「ぼくの代わりに大将の首をはねたんだろう、そっちこそ何様のつもりだよ。皇子様っていう冗談は無しだよ」
「俺は全てを捨てた人間だ、元であろうが無かろうが、皇子など関係ない」




「……そう、ありがとう。名のり出てくれたら良かったのに。きっとみんな驚いて、面白かったと思うよ」
「他人の表情をおもしろがる趣味はない」



「否定ばっかりだなあ、君らしいけど」
「お前は今からどこへ行く」



「……そうだなあ、とりあえずは、この右手の紋章と別れたいな」
「古シンダルの秘術を探すのか」



「へえ、その秘術っていうので外せるんだ、博識だね、いいこと聞いた」



右手の紋章がある限り、ぼくはずっと君主のままだ。このせいで、ぼくもみんなも怠惰になっていたのだ。もっと個々を信頼し、自分で決めるということになれていかなくてはならない。それは人々だけではなく、ぼくがことさらしなければならないと思っていることだ。紋章の力は絶大だが、それで人々の進化を阻めてはいけないのだ。



ジョウイと同じように紋章を外し、誰の手にも届かないようなところへ隠してしまおう。そして、名前も身分も捨て去り、新しい自分を歩むのだ。誰の目にも届かない、平凡で単調な人生を。……それが叶う頃には、紋章の呪いで死んでしまっているかも知れないけれど。



「そうだ、あんたはこれからどうするの」



ルカはぼくの言葉に驚いたようだった。少し考え、こちらを見つめる。首をかしげてやれば口の端をにやりとゆがめられた。



「俺を殺し損ねた男の最期を見てやろうと思ってな」



「それぼくのこと? 悪趣味だなあ」



「……近いだろう、貴様の死は」
「まあね」



「死期を悟り一人旅立つ、か、猫のような男だな」
「いいねえ、猫。孤高の野良猫だ、にゃーごにゃご」



「野良猫よ、貴様の名は何という?」
「野良に名前はいらない。そういう君は?」



「野生の狼一匹一匹に名がついているか?」
「はは、名無しの二人組か」



話ながらいつの間にか二人ならんで歩いていた。ぼくはいずれルカよりも老いていくのだろう。そう思うと、なんだか申し訳ない気持ちになった。
それでも、この旅のみち連れに安堵を感じずにはいられない。もし、紋章を付けたまま朽ち果ててしまったら、彼に全部押し付けてしまえるから。なんという身勝手で酷い人間だろうか。



「古シンダルの秘術が一度しかつかえぬようなら、俺が使わせてもらう」
「え? なんで、ぼくが見つけたんだよ」



「まだ行動してもいないだろう、阿呆が」
「あはは、そうでした。でもどうして?」



「……貴様が年上になるのは耐えられないからな」




「……ぷ、あはははは、なにその変なプライド−! あんた可愛いところあるんだなあ!」



指をさして笑ってやったら頭を殴られる。ごめんと涙目で謝れば、苦く笑われる。



「お前を殺すのは俺だ」
「うん、紋章に殺されるより君に殺される方がいいや。もちろん、力の限り抵抗するけど」




触れあわない距離でぼくたちは歩いていく。名前を捨て、歯車のひとつになって、誰にも気付かれずにその仕事を終えるのだ。
大好きな人々の生きる時代がしあわせであるように、祈りながら。










物語はこれで終わり。付け足された蝋引き紙に洋墨ははじかれ、すべては油色の思い出の中。











二十と七夜の物語は、これでおしまい。



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