翠湖市伝え書き覚え書き〜ぼくととりまく世界〜
004:とおりすぎていくところ
和やかな雰囲気は、一瞬にして空気を変えた。
緊張感がびりびりと、ルカさんから発せられているのがわかる。
「貴様……もしやジルの差し金か……!」
「そんな、お兄さん、僕は何も知りません!」
「貴様に兄と呼ばれる筋合いはない!」
乱暴に席を立つとルカさんはダイニングから出て行ってしまう。
慌てた僕は皿に刺身を盛り合わせ、ビールを持ってあとを追いかけようとする。
「あの、僕が」
「いえ、ルカさんの感じじゃ、ジョウイさんが行っても難しいと思うから、ぼくが行きます」
「おいおい、刺身とビールは要らないんじゃないか?」
テッドさんのからかうような言葉に曖昧に笑ってみせると、続いてダイニングを飛び出した。
○
何本目かの街灯の下に目的の人物を見つけ、ぼくは呼び止めるために声を出した。
それでも止まってくれないので、ビールがこぼれるのを気にしながらもスピードを上げる。
「ルカさん、ビール!」
「……は」
少しこぼれたことを謝りながら、宙ぶらりんな手を取って五百ミリリットルの缶を持たせる。
「俺は落ちこぼれのサラリーマンか」
「いや、だって空けちゃってるし、放っておいたら美味しくなくなっちゃうし」
ふ、と笑われる。人工的な明かりが顔の造形をより深く際だたせて、どきっとしてしまう。
ジョウイさんが格好良いって言ってたのも、大きくうなずいてしまうほどだ。
「あ、それとお刺身。お家で食べてください」
もうひとつの空いた手に皿を渡すと、なんだか面白い姿形になる。
「この状況はいったい何だ」
「爺ちゃんが魚市場で買ってきてくれたから、絶対、おいしいと思って……ごめんなさい」
「いや、まあ……別にかまわん」
「少しでも変に見られないように、ぼくもアパートまでご一緒します」
「それもそれでおかしく思われるぞ」
「そこまでぼくがお刺身持ってますから。一人よりは気が楽ですよ」
「まあ、それもそうだな」
ふたりでならんで歩いていく道は、たまに軽四自動車が通りすぎていくだけのしずかな道だ。
空は藍がかり、だんだんと夕闇を色濃くしていく。
そっと、見上げるように様子をうかがう。
ジョウイさんの話からすれば、彼はお金持ち、の部類に入るんだろう。
株みたいなこともしてるって言うし……それなのに、どうしてうちみたいなボロアパートを借りているんだろう。
この人には、わからないことが多すぎて、それが気になって仕方がない。
「ん? どうした」
「え? あ、あの、ゲーム好きだとは思ってたんですけど、ゲーム作ってらしたんですね」
「ジョウイか……」
「は、はい」
「そんなもの、一事業に過ぎん」
「そ、そうなんですか……」
ルカさんはビールを煽った。液体が体を降りていくのが、のど仏の動きでよくわかる。
「今のままじゃBCEは衰退する……なぜ親父はわかってくれない……」
つぶやくような言葉に首をかしげていると、アパートの前にさしかかった。
いつ見ても、ぼろい。
クリーム色の壁は少し亀裂が走ってるし、階段は鉄さびでぼろぼろだ。
ちょっと外装だけでもきれいにした方がいいんじゃないかなって、いつも思う。
「それじゃあ、ここで失礼します」
「あがっていくか?」
「いえ、もう暗いし……今日のところはお気持ちだけ受けとっておきます」
「……知りたいことがたくさんあるんだろう?」
「でも、ぼくだけ知っても、なんにもならないと思うから……それじゃあ、また。アイスありがとうございました」
「ああ……気をつけて帰れ」
「はい」
鉄階段のじりん、じりんと鳴る音は、ルカさんの足音だ。
背中でそれを受け止めて、ぼくもゆっくりと歩いて帰る。
お父さんと、何かあって、ここに住んでいるってことなのかな……
彼ならもっと良いマンションとか、借りられると思うのに、なんで、ここなんだろう……
とりあえず、ジョウイさんには、恋人とルカさんについて連絡を取らないようにしてもらおう。
きっとそれが一番良いんだ。落ちついたら、彼からきっとみんなに話してくれるだろう。
○
玄関につくと、並べられた靴の中に見なれない綺麗な靴があった。ちまっとしていて、可愛くて。
こんなの菜々実持ってたっけ。
「ただいま」
居間からダイニングへ入ろうとふすまを開けると、見たことのある女性がソファに座っていて、ぼくの思考は止まった。
「その節は助けて頂き、ありがとうございました」
立ち上がり礼をしてくる女性は、紛れもない、ルカさんの妹だ。
「輝城・ジル・ブライトと申します。お礼も出来ず、申し訳ありませんでした」
「えっと、あの、どうしてここに……」
「あの、婚約者から兄と会ったと連絡を頂いたもので……」
ジョウイさーん!
と声を荒げたくなる衝動をおさえ、彼女に座るようすすめると、ぼくはふらふら、台所へ向かう。
紅茶を出して、余り物だけどおかしをだそう。
……それぐらい気を回してくれても良いのに、みんなそれをしないのはなんでなんだろう、と溜息をつく。
「リオウさん、お兄さんのようすはいかがでしたか」
「え、と、いや、別に普通だったけど……」
渡したビールと刺身にあっけにとられて、機嫌がリセットされてしまったというか、そんな感じだった。
だから多分普通だったと思う。そう答えると、ジョウイさんは心からほっとしたような表情を見せた。
でも、ジルさんに連絡を取ったことがルカさんに知られたら、すごく怒るんじゃないかな、と口には出さずに唱えてみせる。
「驚きました。あなた方がジルさんを暴漢から助けてくれたなんて……僕からもお礼申し上げます」
「できることをしただけですから、気にしないでください」
「でも、それではぼくの心は収まりません」
「そう思われるなら、カニかま以外の具材もたくさん食べてくださいね」
つい、いらっとして出た言葉は、彼をきょとんとさせ、爺ちゃんや他のみんなは大笑いした。
それに驚いて振り返ってくるジルさんにことわると、急いでお茶の用意をした。
「あの、お気遣い無く……菜々実さんにそうお伝えしたのですが」
「いえ、これは礼儀ですから」
とりあえず、菜々実も接待しようとしてくれた訳か、それがわかって少し心が落ちついた。
「えっと……ジルさんはルカさんを追ってこられたのですか?」
「はい。このあたりに住んでいるとしか聞けなかったもので……市のマンションを洗いざらい探しても見つからなくて、途方に暮れていたところだったんです」
まあ、金持ちがボロアパートに住んでるとは普通考えないよなあ……
だからこそ彼はうちの貸し物件に決めたんだろう。
住みにくいだろうに、なによりも居場所を知られるのが嫌だったんだろう。
「そうですか……」
「兄のところに、案内してはもらえませんか?」
「あの、それは、やめておいた方がいいと思います」
「どうして……?」
かなしそうな表情に胸が痛いけれど、住人のプライバシーは尊重しなければならない、と爺ちゃんは常に話してくれている、から。
「どのような事情がおありかは知りませんが、彼は見つかりにくい場所としてうちの物件に決めてくれたんです。その信用性を保つためにも、教えることは出来かねます」
「そう、ですか……でも、どうしても伝えておかねばならないことがあるのです」
困ったようすのジルさんに、ぼくはどうすればいいかわからない。そこへ、食事を終えた爺ちゃんがやってきて、ぼくのとなりに腰掛けた。
「住人の話であれば、わしの担当ですな。なんでしょう、よろしければ、お伝えしておきますよ」
「爺ちゃん……」
確かに、この話は爺ちゃんが取り次ぐべき話だ。出しゃばった自分が恥ずかしくて、顔を伏せてしまう。
なんにも言われず、頭をわしゃわしゃと撫でられるだけなのに、それがすごくつらく感じる。
「父の会社が、何者かによって買収されようとしています」
なんとも大きな話で、家中がしんと静まりかえった。
「ブライト・コンピュータ・エンタテイメントはデジタルコンテンツから家電におけるまで、全世界にシェアを持っている大きな事業です、が……それが最近、とある人物に株を大量買収されていることが発覚したのです。このままじゃ、会社は乗っ取られてしまう」
「……その、買収してきている相手はどなたですかな?」
「公には出てきておらず、アマチュア投資家のようで……実態は把握できておりません」
「そうですか……それを輝城さんに伝えておけばよろしいんですかな」
「はい。それだけでも伝えてくだされば……」
ジルさんは、お兄さんに助けを求めているのだとわかった。
それならば、ちゃんと伝えて、家に戻るようにすすめなくちゃ……
でも、そうしたら会えなくなるのかな。一緒にゲームとか、出来なくなるのかな……
○
ジルさんがうちに帰り、ティルさんとテッドさんのふたりも帰っていった。
ぼくたちは居間で、ぼんやりと考えていた。
「どう伝えればよいものか……」
爺ちゃんが、沈黙を破った。
「すみません、僕が来て、なんだか騒がしいことになってしまって」
謝るジョウイさんに、家族全員が首を振って言葉を否定した。
「これはただの偶然だよ、ジョウイ君が気に病むことなどひとつもない」
爺ちゃんの言葉に、ジョウイさんの表情が少し軽くなる。
「しかし、また部屋がひとつ空くのか……」
「だ、だいじょうぶだよ、すぐ人が入ってくれるよ!」
にが笑いする爺ちゃんに、菜々実が慌ててフォローを入れた。
やっぱり、部屋を引き払うことになるんだろう、それを考えると心がちくりと痛い。
それをごまかすように、ぼくは冷凍庫からアイスを取り出し、みんなに食べようと進言した。
ジョウイさんは目を輝かせて、バニラを選んだ。
菜々実はイチゴ、爺ちゃんはあずきを選んだ。ぼくはバニラを選ぶ。
おいしそうに食べるジョウイさんの顔を見ていると、ルカさんは、彼のことを嫌ってないんだろうな、と思った。
食卓では嫌そうな雰囲気だったけど、それはてれかくし、というか、そんな感じじゃないだろうか。
だって、寒いところに住んでいる人はアイスが好きだろう、なんて言葉にするのは、この表情を知っているからこそ出てくる選択肢だと思うから。
爺ちゃんはルカさんの部屋へ明日訪問することに決め、その一日はそれで終わった。
ジョウイさんにふとんのひき方を教えて、僕も自室へ戻る。
窓を開けると、半分の月が目の前にあった。
それを見つめて、自分の気持ちを整理する。
アパートなんだから、人の出入りが激しくなるのは仕方ない。
いずれは彼だって帰るんだから、それが早まっただけだ、そう心に言い聞かせても、なんだかさみしかった。