Io lo perdono


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ルカ・ブライト率いる王国軍が、同盟軍本拠地に迫り来る。
それに対し、グリンヒルやトラン共和国、マチルダ騎士団からの賛同者を加え戦力を拡大した同盟軍が迎え撃つ。
 
狭く深い森の道に魔術めいた風が波打ち、それは同盟軍の勝利への鼓舞にもとれた。
だがしかし、狂皇子の名のままにルカ・ブライトはその圧倒的な力を持って同盟軍の撤退を決定づけた。
 
ルカという力の化身の前に、なすすべはないのか。
同盟軍が重い空気に包まれている中、
それを率いているリーダーは本拠地裁上階に位置する自室の窓からのんびりと外を眺めていた。
 
彼の表情からも、雰囲気からも、軍全体の絶望は見て取れない。
幼さを残すその横顔と、どこまでも黒い瞳はなぜか安堵していた。
そしてそのまま、瞳は城下を歩く見慣れぬ男、レオン・シルバーバーグを無感動に見つめ続け、
男が城内へ入ったあたりで興味を無くす。
少年が窓から離れベッドへ体を投げ出すと、穏やかな寝息が動かぬ空気に溶けていった。
 
リーダーがルカ・ブライトの夜襲を知り、またそれを好機と迎え撃つ算段を知ったのは、
夕闇の赤色が深い藍色に飲み込まれていく頃だった。
 
リーダーが己の役目を理解したとき、彼の足はかすかに震え始める。
軍師として仕えているシュウはリーダーの変化に気付きながらも表には出さないように、
ただ彼の肩を優しくたたき、促しただけだった。
 
先の戦が終わってリーダーは安堵していた。
それはなぜだったのか。人を殺さずにすんだから。
なら今はなぜ、胸を締め付けられる感覚に足を震わせているのか。
それははじめて人を殺すかもしれないから。
兵隊を用いて、誰が誰を殺したのか分からなくなる状況ではなく、
リーダーとして、ひとりの人間として、お互いを認識した上で相手の息の根を止めろと軍師は言ったのだ。
それが英雄を英雄たらしめる行いなのだと。
 
リーダーは混乱していた。
夜の闇の中で真白い甲冑に身を包む恐怖の象徴に刺さる矢羽根の輝きを見たとき。
川の濁流の中で意識を失っていた自分を助けてくれたビクトールやフリックが、
狂皇子の刃に倒れたという報告を聞いたとき。
皇子を守ろうとする兵士の断末魔を聞いたとき。
絶対的な存在であるはずの男の苦しい息の弾みを耳にしたとき。
 
リーダーのもっていたピリカに渡し損ねた木彫りのお守りが木に引っかかっていたとき。
 
(シュウさん、それはあなたがほしいと言って僕が渋々渡したものだったよね?)
 
その木彫りのお守りの透かしから光が漏れているのを震える男の手が解放し、
生きた瞬きが空へ上っていくのを見たとき。
虫に奪うほどの価値もないと言った、力ある力なき男の瞳を見たとき。
そして明かりの隙間から数え切れないほどの矢筋がほの明るい甲冑に降り注いだとき。
 
(蛍はピリカやナナミ、ゲンゲンたちと楽しく捕まえたもの。それをあのルカ・ブライトが解き放ったんだ)
 
リーダーの中で、本当にルカ・ブライトを死へ至らしめなければならないのかわからなくなっていた。
それでも最後の狂気をたたえた瞳で男はリーダーに刃を振り上げてくる。
少年にとっても恐怖の塊であった男が、今は悲しい生き物に思えた。
 
(ぼくは……ぼくはどうしたいんだろう)
 
少年は狂気に満ちた最後の言葉を聞き終え、
軍も撤退しあたりが静まりかえった頃、男の亡骸にそうっと近づいた。
その異常な行動に気がついたのは、彼に非情な策を言い渡したその人だった。
 
「リーダー殿! 何をするおつもりですか!」
 
蛍の輝きよりも深く濃い光がリーダーの右手からあふれ出す。
それは息絶えた同盟軍の最なる敵、ルカ・ブライトに注がれていく。
薄紫に退色するはずの男の肌は血色を取り戻し、反対にリーダーの顔色は青白く落ち込んでいく。
 
「ぼくは……っ殺したくなんか、ないんだ……!」
「馬鹿なことを……! はやくその紋章をおしまいください!」
「いやだ! ぼくは、ぼくは……!」
 
(ひとごろしになんかなりたくない)
 
リーダーの悲痛な叫びが暗闇に吸い込まれると同時に、輝きも闇に同化していく。
気を失ったリーダーは今は赤く染まった甲冑の上に身をゆだねた。
それはまるで悲恋の末に死を選んだ、どこかの戯曲の一場面のようにシュウには思えた。
軍師は同盟軍きっての名医を呼び出すと、二人を隠すように城へと運んだ。
 
ルカ・ブライトは、いや、今はどこの誰でもないルカという男は
地下牢でただ昏々と眠り続けていた。
ルカの生存を知っているものはシュウとホウアン、数人の忠実なる兵、
そして彼を生かしたリーダーのみであった。
リーダーはルカ・ブライトの討伐から長く寝込んでいたが、今は元気を取り戻し、
時間を見つけては地下牢へと足を運ぶ。
 
暗く湿気の多いベッドの上で、かつては王族だった男がみすぼらしく眠り続けていた。
包帯はこまめに取り替えてもらっているらしく、清潔な布にリーダーはほっと息をつく。
紋章の力のおかげで傷という傷はほとんどふさがってはいるものの、目を覚ますことはない。
一生目覚めないかもしれないという医者の言葉に、リーダーはそれでもいいと頷いて見せた。
目覚めれば自分の立場にプライドの高い彼は傷つくだろう。
だから眠り続けるのならば、それはそれでいいのだと。
 
「ルカ、今日の調子はどう? ハイ・ヨーさんに頼んで、今日はトリガラだしに卵をとじたおかゆを作ってもらったよ」
 
暗闇に少年の柔らかな声に応えるものはいない。
リーダーは未だおいしそうな香りと湯気を放つかゆをひとさじ口に含み、人肌にさますとルカの口に流し込む。
無意識にのどを動かすその反応にリーダーは満足し、少しずつ口から口へとかゆを運ぶ。
薬湯をもってきたホウアンはその光景を静かに見つめながら、まるで親鳥とひな鳥ですね、と和んではいけないとは思いつつも優しく息をつく。
 
実際、眠り続けるルカにリーダーはよくしていた。
床ずれを起こしてはいけないとこまめに体勢を変え、その体を暖かなタオルで拭き、無意識にあふれてくる排泄物の処理ですら進んで行っていた。
忙しいさなかだというのにルカの存在を忘れることは一度もなく、
それは姉のナナミが彼をかばい、死に倒れるまで続いた。
 
リーダーの姉の葬儀もつつがなく終わって、城の中の悲しみも薄まり始めた頃のことだった。
少年はルカの元へ行くこともせず、医療所に入り浸るものの眠ることもせず、
ただ死の間際に姉の眠っていたベッドを見つめ続けていた。
 
もんしょうが、つかえなかったんだ、とリーダーは焦点の定まらない瞳でそばにいるホウアンにつぶやいた。
助けたいと思ったのに、つかえなかったんだ、と涙も出ない、乾いた瞳の少年をホウアンは抱きしめる。
彼にも整理する時間が必要だ、ゆっくりと休める時間が、とその心の不安定さを医者は危惧する。
だから落ち着くまで、ルカのことも気にせず、自分のことだけを考えなさい、とホウアンはリーダーに声を掛けるつもりだった。
 
医者が行動に移す前に、深く重く、悲痛な叫び声が地下から響きあがってきた。
何事だ、と兵士や住民が驚くよりも先に、リーダーの瞳に光が戻る。
 
「まさか、あのひとが……!?」
 
ホウアンのたじろぐ声を横手に、リーダーは走り出す。
いぶかしむ人々に大丈夫だと声を掛けながら。
 
暗い地下牢には思った通り、シュウをはじめとした兵士達であふれていた。
 
「シュウさん!」
 
リーダーの声に、軍師は顔をゆがませて彼の聞きたいことに先に答えていく。
 
「どうやら怪我のショックか……あるいは失血のせいか、記憶が混濁しているようです」
 
「母上はどこだ! 母上を出せ! おまえらさては父親の差し金だな!?」
 
軍師の言葉に異を唱える前に、記憶の混濁というその真実を突きつけられる。
リーダーははじかれたように兵士の間をぬい、ルカの目前へと身を乗り出した。
危ないという声も少年には届かなかった。
部屋の隅で薄い布一枚に身をくるみ震える男の姿に、自分の中の何かが軽くなったような気がしたのだ。
自分は人殺しではなかったと、やっと自分に言い聞かせることが出来たような、そんな感覚だ。
 
「ルカ……?」
 
名を呼ばれた男からは逆光になっており、リーダーの表情はつかみ取れるものではなかったが、
その発音、音の響きに深い慈愛が含まれていることが周囲にも、男にも分かった。
 
「母上……」
「ルカ? 体はもう大丈夫なの?」
 
ルカは小さくしていた体を広げると、リーダーに向かって歩き出す。
 
「母上……よかった……またあの父親がサナトリウムに連れ出したものかと」
 
少年は母上と声を掛けられながら、その小さな体を大きな男の胸へと預けた。
背中に力強く熱い腕の感触と、男のしっかりとした鼓動を聞いたとたん、少年の瞳から涙があふれ出した。
それは同盟軍のリーダーになってから、
つらいことも悲しいことも飲み込んできた未だ幼い少年の心がほぐされた瞬間だった。
 
「母上、どうした、どこか痛いのか?」
「ルカが、起きてくれてうれしいんだ」
 
戦っていたときには想像もつかなかったまっすぐな情愛と心配のまなざしが、ルカから発せられる。
少年は心配を掛けまいとにっこり笑うと、かろうじて背に回った手のひらで大きな子供をあやす。
 
「それとね、ぼくはお母さんじゃないよ」
「嘘を言うな。母上だけだ、そんな風に俺を呼ぶのは」
 
リーダーの言葉を頑として理解しようとせず、ルカはまた強く少年の体を抱きしめた。
困っているような少年の背中を見たシュウは、音職人のコーネルならこの状況の分析が出来るだろう、と
兵士を急いで呼びに向かわせる。
訳も分からず連れてこられたコーネルは軍師から話を聞くと、それならと続けた。
 
「シュウさん、一度彼を呼んでみてください」
 
「それから、「お母さん」の言葉もお願いします」
 
にっこりと薄明かりの下で美少年にほほえまれ、シュウとリーダーは、すこし恥ずかしさを含みながら
「ルカ」の名を口にした。
 
「そうですね、シュウさんや他の人……同盟国のひとの発音はcaで終わるんですけれど、リーダーさんの声はh……神の御息の"アッシュ"がかすかに含まれてるみたいです」
 
だからなんだ、という全員の表情に、コーネルはたじろぎもせずに続ける。
 
「本当に親愛を含めて彼を呼べばそうなると言うことです」
 
兵士や軍師は息をのんだ。
ルカは少年を抱きしめ、細い肩に顔を埋めたまま動かなかった。
少年はその大きすぎる背中を優しくさすってやりながら、この人は母親以外に優しく名前を呼んでもらったことがないのだと理解した。
 
「ルカ」
「……なんだ」
「ぼくを母親だと思うのは、ここが暗いからだよね。明るい場所に出たら、ぼくがお母さんじゃないって分かるよ」
 
へばりついていた男の体をリーダーは優しく離すと、その手を取って牢の出口へとルカを促す。
 
「おやめください、リーダー殿。今彼が外へ出れば混乱が巻き起こります」
「なら、ぼくの部屋とその屋上なら問題ないよね」
 
軍師の言葉をそこで遮ると、薄暗い地下の廊下を小さな少年と大きな男はゆっくりと歩き出した。
心許ないろうそくの明かりに大きな影が揺らめく。
軍師と音職人、そして兵士達は何も言わずに二人を見送った。
 
「あのルカ・ブライトも……寂しい身の上だったのかもしれないな」
「ばか、お前、それでも俺らのかたきにはちがわないんだぞ」
 
そういったささやき声がろうそくの明かりをせわしなく揺らした。
軍師は予想している事態が起こらないように祈り、
音職人のコーネルは、ただ柔らかな少年の声を反芻し、優しくほほえんでいた。
 
薄闇の使われていない非常用階段を
いまやすべての希望と言われるリーダーと、かつてすべての元凶と謳われた男が一緒にのぼっていた。
 
男は石壁の隙間からさしこむ光に照らされる少年の姿に、本当に母親ではなかったのだと顔を伏せ恥じた。
そして、自分の視点の高さを不思議に思って手のひらを見つめてみた。
細く角張り、骨の節々に使い込まれた間接の黒さが見える。記憶にある力のない柔らかな手ではなかった。
 
「さあ、もう少しで着くよ。新しいルカの部屋」
 
この手を引く少年はなんなのだろう。母親ではないとすれば、どうしてその名を呼べるのか。
男の疑問は、日常の光に未だ慣れぬまぶしさに中断された。
 
部屋いっぱいにあふれる光に慣れたとき、男はしっかりと目の前にいる小さな少年を認識した。
少し色の悪い、けれど肉付きのよい柔らかな体に、黒く深く優しい瞳と髪の毛、
小さな鼻、柔らかそうにふくれた唇。
どこにでもいそうな風貌の少年に、ルカは眉根を寄せた。
 
「お前が母親じゃなかったことは素直に認め、謝ろう」
「そう、よかった」
「じゃあお前は何なんだ。母上と同じ発音をどこで覚えた」
 
男の疑問符には少年も答えられそうになく、視線を泳がせる。
そうしてその先で、少年の瞳に映ったものはきつく握られた男の拳であった。
 
「母上はどうした」
 
少年はルカの拳に優しく触れた。男は触れられた箇所から緊張がほぐれていくのが奇妙で仕方がなかった。
 
「ルカの本当のお母さんがどうしているのかは、ルカが知ってるとおもう」
 
リーダーの言葉を皮切りに、力の抜ける男の体。
少年は慌ててその体をベッドへと寄せ、男の腰掛ける場所を用意する。
体を受け止めるスプリングの柔らかさに添いながら、ルカは理解した。
 
「母上は……ジルを産んだ後、血の病で死んだ……」
「そう……」
 
「母上はもういない、母上はもういないのに、どうして俺は生きているのだ!」
 
ルカはいつしか少年の手をつかみ、祈るように嘆いた。
窓から差し込んでくる太陽光の筋が、少年の半身の境目を無くしていく。
 
「ルカ、ぼくがいるよ」
 
少年は膝をつき、握り込まれた手のひらを男のほおへと寄せ、優しく包み込んだ。
少し生えかけたひげが熱さとも冷たさとも感じ取れる鋭利な感覚を少年の手のひらに与えた。
 
「ぼくとね、ルカは、家族になるんだ。だから生きているんだよ……」
 
いつか泣いていた自分に姉がしてくれたように、額と額を合わせ、ほおを寄せる。
 
「かぞく……血もつながっていないのに、笑わせる……」
「つながっていなくても、家族にはなれるんだよ」
 
優しい、羽根のような言葉が空気にあおられ浮上していく。
男は泣くまいとこらえるくしゃくしゃな顔で、少年にもたれかかるように腕を回した。
それは新しい家族の始まる、優しい抱擁だった。
 
「俺は王になるために生まれてきたと聞いた」
「うん」
 
幾日か経ったリーダーの部屋は、今日もルカの言葉であふれていた。
記憶に傷害は見られるものの、朗らかに笑い、話すようになったルカを見るのは少年も気持ちが良かった。
それはリーダー付きの近衛兵や診察を定期的に行うホウアンにも感じるところがあった。
もし敵ではなく、今のルカ・ブライトと出会っていたとしたら、
憎しみだけを抱いていけたかどうか不安である、と。
近衛兵に限っては接触することも多いため、ルカに「慣れた」と言って笑うものも多い。
クラウスもキバ将軍も敵でありながら仲間になれたんだ、ルカ・ブライトですら大切な仲間になると言ってはリーダーを安心させたりもした。
 
「お前、聞いてるのか」
「うん、聞いてるよ。ルカは王様になるんだよね」
「そうだ。そこで問題が出来るのだ。わかるか」
 
朗らかで悪意のない会話は続く。
大きなベッドに寝転がりながら、本を広げ、
チェスをひっくり返しながらリーダーとルカは毎日を過ごしていた。
リーダーはルカが王様になる上での問題が何なのか分からず、
ルカに向かって頭を傾けてみせるとギブアップ、と仰向けになっているルカの上に身を乗り出す。
ルカは少年の体を難なく受け止めると、その脇の下に腕を差し込み、体を持ち上げながら真剣に答えた。
 
「お前がどうなるかだ」
「ぼく? どうなるの?」
「俺は王様だ、お前はどうなるかわからないのか。だったら俺が決めてやろう」
 
体を持ち上げられた際に手持ちぶさたになる腕をぶらぶらさせながら、リーダーは真剣なルカの目を見つめる。
 
「お前は后だな」
「きさき? それって」
「お前は体が小さいから、俺が守ってやらないといけない。だからお前は后だ」
「……いいけど……王子とか他にもあるよね……?」
「王子は子供だ。対等じゃない」
「まあ、そうとも言い換えられるけど……」
 
后と言うには少し変な気がしながらも、満足げに笑うルカの姿を見下ろせば、少年の疑問はなかったことにされてしまう。
じゃあぼくはお后様だ、とリーダーが優しく声を出せば、一等の弾んだ声をもって男はそうだと笑う。
そして少年の体は胸板の暖かさを感じるように弾む。
その穏やかな光景は、構図こそルカの死の場面と同じではあったが、暖かさと優しさに包まれている。
 
柔らかな空気を奪うものは城内にいつも存在していた。
 
「失礼します、リーダー様」
 
近衛兵の遠慮した、それでいて有無を言わさぬ肯定を待つその声にリーダーは先を促した。
 
「シュウ軍師がお呼びです」
 
またか、とリーダーは息をついた。
軍師は今こそハイランド侵攻の時、と息巻いているのだが、リーダーはルカの手前、のばしのばしにしていた。
 
もしルカが記憶を取り戻してハイランドに戻りたいと言ったとき、
ハイランドが無くなっては困る、という少年の考えをシュウは理解していた。
だからこそ早く戦争を終わらし、ルカの反逆への可能性を少しでも摘み取っていきたいが為、
軍師としてリーダーをせかし続けている。
 
リーダーもそれをまたわかっているからこそ、毎日のこの呼び出しが心苦しいものになってしまっているのだ。
 
「なんだ、また行くのか」
「うん……ごめんね、すぐ戻ってくるから」
 
見るからに嫌そうにルカの上から離れていく少年の腕をルカはとっさにつかんだ。男の顔もまた、少年がここから離れるのが心底嫌だと正直に顔に表している。
 
「嫌なら行くな、ここにいろ」
「そうしたいけど、ぼくとルカが一緒にいるためにも、行かなくちゃね」
 
苦しそうに笑う少年の顔に、ルカは渋々つかんでいた手を離した。
男の力は、少年の腕にうっすらと跡を残していく。
 
リーダーが部屋を出て行くと、男はつまらなさそうにベッドから起き上がり、民族工芸品でまとめられた室内を歩き回る。
少年がそばからいなくなると、ルカの中から小さないらだちがふつふつと盛り上がっていき、何かつぶしていきたくなる、そんな破壊衝動に駆られるのだ。
それをごまかすように、男は近衛兵に声を掛ける。
 
「あれはいつも忙しいのか」
「あれ……? ああ、あのお方は我らにとって大切な身だから、それなりに忙しいんですよ」
「ふん……そうか、答えてくれて礼を言うぞ」
「い、いえいえ、礼を言われるようなことはしてませんから」
 
あいつは忙しいのか、とルカは少年の行動を頭に描く。
 
(朝はゆっくり眠っていて、俺の方が早いくらいだ)
 
朝の輝きは少年の体を柔らかく見せる。
それがどこか切なくて、先に目覚めるルカは隣で眠る幼い顔を見つめつつ髪をなでる。
すると少年は待っていたかのようにゆっくりと目を覚ます。どんなときも優しいその声で挨拶をする。
そうして男の一日も始まりを告げる。
 
(食事は給仕がもってくる。そういえばたまにあいつはデザートを作ってくれるな)
 
ここの食事は少し味が濃いめで、ハイランドとはまた違うものだった。だが心を尽くされた料理はまずいものではなく、むしろおいしい。それでもたまに舌がおかしくなりそうな頃になると、きまって少年はルカに料理を振る舞った。ハイランド特有の香辛料を少し加えたクリームパイは、胃へ与える重さに加えて、なんとなくほっとする味だ。チーズケーキならベイクドで、サワークリームの酸味を抑えた優しい甘み。
母の焼いたものと同じ、ハイランドでのおだやかな。
そこでルカの思考は止まる。ハイランドとは何だろう、ここではないのか。ではここはどこだろう。
考えれば頭の痛みが増す。ルカは料理の話題に思考を転換した。痛みは治まっていくが、胃のあたりが代わりに収斂する。
 
(しまった、腹が減る。根本的な考えを元に戻そう。あいつの一日の行動だったな)
 
食事が終わると少年はルカが身支度をしている間に庭園へ花をもらいに行く。
そのほとんどはバラであったが、たまに優しい色の花が混じっていた。
 
ルカはふとサイドボードの上の花瓶に目を向けた。
少し元気のない花の姿に、今日はまだ花をもらいに行っていないのかと理解する。
そうして男は行動に移した。
 
「る、ルカ様、どちらへ」
「花瓶に生ける花をもらいに行く。三階でよいのだったな」
「え、ええ、ですが……」
「小うるさいシュウもあいつとの話で忙しいだろう、ばれることはない」
 
ルカの言葉に、行動の静止を促していた近衛兵はふと考える。
自分が大丈夫なのだから、花をもらいに行くくらいならさして混乱も起こらないだろうと。
たまには外を歩いてみてもいいんじゃないか、そうした仏心が働いて、近衛兵はルカの前から体をよける。
 
「花をもらいに行くだけですよ」
「お前は話がわかるな」
 
いたずら好きの子供のように笑いかけられ、兵士はリーダーとは違ったカリスマ性を改めて見いだした。
どこで人生を間違えてしまったのか、と黒いシャツに白いズボンの後ろ姿を見送りながら、兵士は壁に背を合わせた。
 
ルカは階段を下りていく。
少年がそばにいないいらだちは、外への興味に負け、いつしかなりを潜めていた。
四階を通るときはそれとなく足音を控えてみたりもしたが、それは男の杞憂に終わった。
三階に下りると、いつもいた場所とは違う涼しいにおいと風がルカの前髪を揺らす。
心許ない気持ちをはじめて抱きながら、ルカはテラスへの扉に手を伸ばした。
 
扉一つ向こう側にあったのは、バラの咲き乱れる空上庭園。
どこまでも高く青い空とまっすぐな日差し、思い思いに憩う人々の姿。
 
誰に声を掛けて花をもらえばよいのかと考えあぐねているルカを見つけたコーネルが、
その大きな体の側面へと声を掛ける。
 
「どうしたんですか?」
「部屋に生ける花をもらいたい」
「ああ……リーダーさんの代わりにですか」
「そうだ」
 
コーネルは庭師にはさみを借りながら、きっと喜びますね、と笑いかける。
そのときの男の表情を、コーネルは忘れることが出来ないと後に話の種にするだろう。
ルカの表情は、その人を知っているものなら誰もが驚くほど、穏やかに優しく笑ったのだ。
コーネルはルカにこのような表情をさせる唯一の人物を思い、男に花束を渡しながら改めてほほえんだ。
 
そんな穏やかな雰囲気のまま、ルカは部屋に戻るはずだった。
女の悲痛な叫び声が響くまでは。
 
「やっぱりあの噂は本当だったんだ! ルカ・ブライトは死んではいなかった!」
「お前が私の兄弟を、父を、母を、街を、すべてを殺し燃やし尽くした! 今この無念、はらしてやる!!」
 
当のルカ・ブライトはどうして見知らぬ女に憎悪を向けられるのかわからない。
ナイフを手に突っ込んでくる女の体をよける。そうすれば女はバラの茂みに体を投げ出すことになる。
幸い花の品種がとげを持たないものであったため、憎悪に少しきつい香りがまとわりつくだけにとどまった。
 
ルカは女の動向を見守りながら、自分に刺さる視線に気がついた。
今まで穏やかに花を愛でていたはずの人々が、ルカ・ブライトを目の当たりにしたことで、
恐怖や憎しみの色をその瞳から皮膚にまでにじみ出させていたのだ。
 
(俺はこの皮膚にびりびりする感覚を知っているぞ)
 
ルカの頭に一瞬の痛みが走ったかと思うと、死ぬ前の出来事がつま先から走っては消えていく。
 
母を見捨てた父が憎い。
母を陵辱した都市同盟が憎い。
俺以外はすべて不必要な、奪うためにあるだけの命。
 
子供を使えば戦争嫌いの穏健派も腰を上げるだろう。
 
なんだこいつらの目は! 殺されるというのに強く俺を射貫く!
 
またお前たちか! どうして俺の前にいるのにあきらめないのだ!
 
汚らしい魂を、肉体を、すべて屠ってしまうがいい、我が獣の紋章よ!
 
 
あいつを、同盟軍のリーダーを殺せばすべてうまくいく。
 
その殺意をすべてつぶしてやろう!
 
蛍を殺す理由もない……
俺を殺す理由は多々あるか?
 
なぜそんなに哀れんだ目をする!
 
俺は!!! 俺が思うまま、俺が望むまま!!!
邪悪であったぞ!!!
 
 
(そうだ俺は、すべてを憎み、殺したかったのだ)
 
ルカはすべてを思い出した。己に向けられた殺意と憎悪を目の前にして。
 
(今が好機ではないか、こいつらを殺せばいい、そしてハイランドへ)
 
ハイランドへ戻ればいい、と考える前に、ルカは違和感を覚えた。
 
(あの息の詰まる策略と謀反の冷たい渦の中へ帰るのか? そこが俺の家なのか?)
 
俺の家はどこだ、とルカはあたりを無意識に見渡した。
どこにも探しているものはなかった。ルカ自身、「家」を探しつつも何を探しているのかわからなかった。
ルカ・ブライトに向かって、再び女の持つ刃がのびていく。
今度もまっすぐな憎悪の軌跡をルカはよけることなく、目を閉じた。
 
(そうか、俺が与えられた憎しみを、俺がまた与えていたのか)
 
今頃になって気付くとはおもしろい、とルカは口をとじたまま唱えた。
 
「やめろ!」
 
木片に刃が刺さる音が鈍くルカの耳に届いた。
うっすらと目を開くと、死ぬ前からずっと目に焼き付いて離れなかった、同盟軍のリーダーがルカの代わりに憎しみの刃を受け止めていた。男は何かを見つけたと感じた。そうして同時に、悔恨の感情がわき上がってはあふれ出していく。
 
「……すまなかった」
 
ルカはそのつぶやきを何度も繰り返した。懺悔のような響きを持つ音は途切れることなく、庭園に響き続ける。
うなだれ膝を折り、懺悔を繰り返す王族の姿に、憎しみを行動に移した女もまた、足を震わせて立ち尽くす。
 
「な、なによお……っいまさらっ、今更謝られたって……!」
 
同盟軍のリーダーはナイフの刺さった武具を放り出し、大きくも今は小さいその男の体を抱きしめた。
 
「ごめんね、ごめんなさい、ルカ、ごめんなさい、ルカにつらい思いをさせることがわかってたのに、ぼくのわがままで、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
 
同盟軍のリーダーと、かつての敵総大将がお互いに懺悔の言葉を唱えるその光景はあまりにも滑稽であり、
人々はどうして良いのかわからなかった。
 
「……どうして謝るのだ、お前はこうして俺に懺悔する機会を与えてくれたではないか」
「ちがうよ、そんなこと考えてなんてないよ! ぼくはただ、ぼくはただ……!」
 
「ひとごろしになりたくなかっただけなんだ!!」
 
少年は叫ぶような懺悔と共に、年相応の泣き声を青空に響かせた。
リーダーの取り乱し泣き叫ぶ姿に、人々も、遅れて駆けつけた軍師たちも、彼がまだ子供だと言うことに気付かされ、自分を恥じた。
憎むものも憎まれるものも、すべてが己を恥じていた。
 
軍師はそこの誰よりも己を早く取り戻し、
騎士団を呼び出すとリーダーとルカの二人を自室へ送り届けさせようとした。
だがそのまえに男は泣き続ける少年を抱き上げ、騎士たちの間を歩いていく。
表情こそ暗く落ち込んでいたが、男の足取りはしっかりとしたものだった。
 
太陽はゆっくりと沈みかけ、赤い色彩をふたりの部屋に満たしていた。
少年の赤い服は夕日と同化し、
嗚咽を漏らす少年を抱き続けている男はまるで太陽が泣いているようだと思いながらその背をなでた。
 
「もう謝るな」
「でも、ぼくは、酷いことをしたから、自分のことしか考えてなかったから」
「謝るな……俺もそうだったからな」
「ルカに嫌われても仕方ないんだ、でも嫌ってほしくないんだ」
「……嫌うわけがないだろう」
 
男にとってはじめてなのだ。
母親以外で自分のために泣き続け、自分に嫌われたくないと言うまっすぐな情愛を向けられるのは。
そんな人間をどうして嫌うことが出来るのかルカにはわからない。
そうしたことを踏まえた上でのルカの言葉にやっと少年は顔を上げる。
リーダーの目元と鼻は赤く腫れ、表情は崩れていた。
決して可愛いと思えるものではないそれを見つめながら、ルカは体の奥から何かむずむずとしたものがわき上がってくるのを感じていた。
それがいとおしさという感情だと気付く前に、ルカは少年の瞳に唇を寄せた。
 
「俺たちは家族なのだろう?」
「うん」
「俺はお前がわからない。お前の同胞を殺し、住処を奪った俺にどうして涙を流す」
「それを言うなら、ぼくだってルカの大切なものを壊してきたよ」
「俺の大切なものなら、むしろお前は与え続けている」
「どういう、こと?」
「それはもういい、俺の質問に答えろ」
 
いつか少年にしてもらったように、今度はルカから額と額を合わせる。
まっさらなその皮膚は隙間無く密着し、お互いの温度を分け与えていく。
 
「僕たちが捕まえた蛍を、ルカが逃がしたからだよ」
「おまもりの中のか?」
「うん。それをみたら何が悪くていいものなのかわからなくなったんだ。ルカは優しい人なのかもしれないって思ったんだ」
「ルカはあの夜の戦いからずっと眠っていたんだよ……」
「ホウアンから聞いた」
「ルカが生きていることが、ぼくの希望になったんだ。ルカが死んでいないから、ぼくはひとごろしじゃないって」
「そうか」
「ルカの目が覚めたとき、とてもうれしかったよ。殺されてもいいって思うくらい」
「……そうか」
「ルカのお母さんが死んだことを知って、ナナミが死んだぼくと重なって、ひとりぼっちのぼくらなら、家族になれると思ったんだ」
「俺は、ちゃんと覚えているぞ。お前が俺の母であり友であったことを」
 
ルカが額をはなし、ほおを寄せると少年はくすぐったそうに笑った。
 
「そして今は、俺のすべてになってしまった」
「ルカのぜんぶ?」
「ああ。俺がくつろげる唯一の場所だ。お前から離れると俺は気が気でないと今日気付いた」
 
少年は涙で輝く瞳を細め、笑う。
ルカはリーダーを抱きしめると、ベッドに腰掛けた状態であったその体を横たえる。
 
「ほんと? うれしいな、でもそれじゃあぼくがいないとき困るね……」
 
男の腕を枕にする少年は、腕の持ち主であるルカの顔に流れる髪の毛を指で梳いていく。
 
「ハイランドに侵攻するのか」
「したくないよ……どうしてひとつの国を滅ぼさないと、新しい国が作れないのかな……」
 
髪をもてあそぶ少年の手のひらをつかむと、ルカは手の甲へと唇を寄せた。
 
「俺も行こう」
「え……」
「俺は皇王族の唯一の血統だ。その俺がお前の騎士になっていたらどうなるだろうな」
「え、ちょっとまって、騎士って……」
 
男の言葉に少年は上半身を持ち上げ起き上がろうとする。それをルカは押し戻し、驚く少年の表情を見つめながら続ける。
 
「ここではお前が王なのだろう。それに仕えるのが順当だ……戦いのさなかも共にいられる」
「……でも、対等じゃないよ、僕たち家族でしょ?」
「ならばこの部屋の中だけ、俺が王となろう。お前は、……わかっているだろう?」
 
少年は悪巧みに成功したような男の問いかけと笑顔に、眉を上げて息をついた。
わかっているよ、ぼくはお后様だ、とリーダーが答えると、そうだ、とあの快活な声で返ってくる。
それがなんだかおかしくて、少年は笑ってしまう。
ルカもそれを見てゆっくりと微笑んだ。それはコーネルに見せたものよりも、一等優しく、甘さを含んでいた。
 
「王と后の関係をお前は理解しているか?」
 
少年が答えるよりも先に、ルカの唇がその答えを奪っていった。
 
ルカがリーダー専属の騎士になると申し出たとき、シュウは眉根を寄せてはいたものの渋々承諾した。
あのルカ・ブライトが同盟軍リーダーの騎士に、という衝撃的な出来事は、ハイランドをも震撼させるだろうと。
 
自国間にも混乱や流言はあったものの、リーダーに対する紳士的な態度のルカに、
それ以上にリーダーのルカに対する絶対的な信頼を見て取り、民衆はゆっくりと受け入れていった。
男が眠り続けていたときのリーダーの行動を美談としてもてはやした軍師の策略もそこに含まれていたのだが。
 
同盟国とのめまぐるしい挨拶や式典を間に挟みながら、ルカの騎士服をみんなで思案する。
図案を元にバーバラやタキが寸法を測り、仕上げた専用の騎士服がそろそろ届く頃合いだった。
 
ニナやアンネリー達のデザインした服なのだという。
絶対似合うから楽しみにしていてね、とルカに笑いかけてきた少年は未だ深い眠りの中。
ルカはリーダーの柔らかなほおを撫でながら、流れていく優しい時間に感謝していた。
いまだに男を恐れや憎悪の対象としてとらえるものも多いが、それは自業自得だ。
今この少年に必要とされている限り、自分は存在し続けよう、とルカは改めて一人誓いを立てた。
 
そんな折、扉がぶしつけにノックされた。
ルカはズボンだけ履き終えると、扉の前まで歩き、乱暴に開く。
目の前にいたのは、薄紙に包まれた騎士服をもった少女。
旅芸人のアイリだった。
 
「あんたの服が出来たんでね、もってきてあげたよ」
 
ぶしつけな物言いに新鮮さを覚えたルカはアイリに問いかけた。
 
「お前は俺が怖くないのか?」
 
自嘲気味に笑う男をアイリは目を細めて見つめた。
上半身に何も身につけず、リーダーの姿がここから見えないことに妙な勘ぐりを覚える少女は、
それを振り払うようにやんわりと頭を振る。
 
「私たちはジプシーだ。奪われるものはない。あんたを恨むことも怖がることもないよ。まあ、通行規制されたときは困ったけど」
「そうか」
「むしろ私はあんたに感謝すら覚えるよ」
 
アイリの思っても見なかった言葉に、ルカは眉を寄せた。
 
「ナナミが、あいつの姉貴が死んで、あいつはぽかぽかするような笑顔を出さなくなった。でもあんたが目を覚ましたら、あの太陽みたいな笑顔が戻ってきたんだ」
「だから、あんたにはそれを曇らせないでほしい」
 
アイリはルカの胸に服の包みを押しつける。薄紙の乾いた音が皮膚に張り付いていく。
 
「ちょっとしゃべりすぎた。あいつが目覚める前にこれに着替えて、驚かしてやんなよ。じゃあ、またあとでな」
 
アイリは軽く手を挙げると、ルカに背を向け、階段を下りていく軽やかな音を響かせた。
ルカは包みを見つめながら、少女の感情の行く末を考え、苦く笑うほか無かった。
 
男は部屋へと引き返し手に持った包みをテーブルの上に広げてみた。
白いつややかな生地に、銀糸で刺繍が施されているその騎士服にルカは笑う。
笑みを向けたその先にあるのは、襟にひそやかに施されたリーダーの持つ紋章、それに狼が寄り添う刺繍。
 
(なるほど、ここの人間は皇都の者よりセンスがいいらしい)
 
さらりとした布擦れの音を響かせながら、ルカは仕上がったばかりの服に袖を通した。
突っ張ることもなくちょうど良い布と皮膚との距離。
無駄のない装飾と銀の防具。
騎士服を身にまとった男は、かつての荒々しい皇子ではなく、静かな威圧感をたたえ、そこにいた。
 
「服、ぴったりみたいだね」
 
ルカが衣替えに夢中になっている間に目を覚ました少年は、布にくるまったまま新しい男の姿を見つめて笑う。
 
「ああ、考えたのはニナとアンネリーと言ったか? センスがある」
「女の子って、そういうの凝るんだよね。見ててぼくも楽しかったよ」
 
少年はくるまっていた布から飛び出すようにベッドから下りると、ルカの隣へ体を寄せる。
背筋をぴんと張って立つリーダーは、上目遣いにルカを見上げるとため息をついた。
 
「なんだ」
「どっちが同盟軍のリーダーかわからないと思ってさ」
 
いじけるように絨毯の模様を見つめる少年をルカは軽々と抱き上げ、肩に乗せる。
 
「俺はお前の装飾品だからな、格好良くて結構だろう」
「そうなの?」
「そうだ」
「じゃあ、このままみんなにお披露目に行こうか?」
 
少年の申し出に男は快諾し、リーダーを肩に乗せたまま大広間へと歩き出した。
 
 
「リーダー殿、額が腫れていますがどうされたのです」
「……聞かないでよ……」
 
108星をはじめとした全軍を前に、リーダーとその騎士ルカ、軍師、各隊長が並んでいる。
そう、この日ここで、ルカの騎士としての門出を祝うと共に、ルルノイエへと軍を進ませるのだ。
晴れやかな、緊張を持つこの場で、リーダーの額だけが場違いのように赤く腫れていた。
 
「いえ、聞きます」
 
軍師の一息も置かぬ食いつきに少年は恥ずかしそうにうつむき、隣の騎士とその事件を目撃した数人の兵士は笑いをこらえるのに必死だった。
 
「ルカに肩車してもらったまま、大広間に行こうとしたんだ」
「はい」
「そうしたら、その、扉の高さが足りなくて……」
「ぶつけたんですか」
「うん、そう……です」
 
最終決戦の前にあるはずの緊張が大広間から一気にかき消えた。
全員が全員、声を漏らして笑いをこらえきれずにいる。
 
「最終決戦を前に、気の抜けるようなことはなさらないでください」
「シュウさんが聞かなかったらきっと大丈夫だったよ」
 
ルカは和やかなこの場に、この幼いリーダーの神髄を見たような気がした。
どんなに恐ろしい事が待っていようと、この人物さえいれば何とでもなる、そんな雰囲気を皆が持っている。
だからこそ少年は人々の期待を背負い、幼さを隠して今まで頑張ってきたのだろう。
そしてこれからも過ごしていくのだろう。
男はこの孤高な少年に何をしてやれるだろうかと、りりしさを取り戻したリーダーの横顔を見つめた。
 
「行こう……ルルノイエへ」
 
軍のすべてがリーダーの声に同調し、喝采を送る。
その声は歌となり希望に満ちあふれていたが、
この戦いの末に平和が訪れるのかどうか、少年にはわからなかった。
少年のために存在する銀色の騎士は、少年の不安な心を推し量るかのようにその肩を抱いた。
 
ルカが久方ぶりに帰ってきた故郷。
皇都は静まりかえり、かつての活気はどこにも見られなかった。
城下を眺め、くだらないと決めつけた市場の流れや祭りの笛の音。
もう見ることはかなわないのかと男は思うと共に、わき上がる感傷に妙な不快感を覚えた。
 
「ルカ。ぼくはここに活気を取り戻したいんだ」
 
少年の思いがけない言葉に、騎士はリーダーへと向き直る。
北の大地に吹く青い風は少年の髪を緑に輝かせ、体に馴染んだ服の裾を遊ばせていた。
 
「ルルノイエも同盟の仲間になれないのかな」
「ふん……最後まで綺麗事を貫くつもりか」
「ルカも綺麗事だと思うんだ。そうだよね、ここじゃぼくの方が憎まれてる……」
 
皇都の冷たい石畳に視線を落とす少年のほおをルカは優しくつつく。
 
「すねてるわけじゃないよ」
「お前は俺を忘れているぞ」
「忘れてないよ」
「忘れている。俺はお前の綺麗事を気に入っているのだ。皇族の俺が」
 
リーダーの顔が跳ね上がり、騎士の不敵な笑みをその瞳にうつした。
 
「出来んことではないと思うがな」
「ルカ、ありがとう!」
 
少年のいきなりの抱擁に驚きながら、ルカはそれを受け止めた。
 
「ほんとに、丸くなったもんだな」
 
ビクトールとフリックが苦笑する。皮肉を言った二人を見る騎士の表情は不愉快に満ちている。
 
「砦のことをまだ根に持っているのか?」
「いんや、過ぎたことはしょうがねーや」
「ルカ・ブライトは死んだ。あんたはリーダーのためのルカにすぎない。今は仲間さ」
 
フリックの言葉に少年はうろたえ、それに合わせて顔は赤く染まっていき、ビクトールとルカは笑った。
 
「じゃ、さっさと行って決着つけるか」
「また城が崩壊しなければいいがな」
 
ビクトールとフリック、そしてルカ。
三人だけをつれて、リーダーは城へと足を踏み入れた。
 
静かに冷たい色の城。どこまでも続く廊下はどこか不安な気持ちにさせる。
渋い赤色の絨毯を踏みしめながら、少年はルカの子供時代のことを考えた。
 
(こんな冷たい廊下で、大好きなお母さんがいなくなってしまったら)
 
少年は母親を祖父に変えて考える。
 
(悲しくて悲しくて、すべてが嫌になるだろうな……)
 
「何を考えている。不意打ちがきたらどうする気だ」
「あ、ごめん。大丈夫だよ」
 
城に入ってからルカの纏う空気がとがってきている。
それは敵地にいるからなのか、それとも同盟軍を見限るつもりだからだろうか。
少年は裏切られてもいいかもしれないと思った。
 
(ぼくがどれだけこの場所が怖いと思っても、ルカには家なんだし、気持ちが変わることだってあるはずだ)
 
「……俺が怖いか」
 
城の空気に気圧されているリーダーに気がついたのか、
男の意識した優しい声が廊下に響いた。
 
「ルカじゃなくって、ここがね、なんか怖い」
「城がか?」
「うん。変だと思うよね、だから気にしなくていいよ」
「……まあ、俺自身もここが息の詰まる場所だとは思いもしなかったがな。さっさと終わらせて帰るぞ」
 
期待していなかったルカの「帰る」という言葉を聞き返そうとしたとき、
四人の前にルルノイエの騎士、クルガンとシードの二人が剣を持ち構えて現れた。
 
「……まさかルカ様とあろうものが同盟軍に下るとは思わなかったぜ」
「こちらの士気を下げるための流言かとも思いましたが、どうやら真実のようですね」
 
赤と青の騎士の憎まれ口をルカは聞き流す。
背にリーダーをかばうと、上から見下ろすように言葉を紡ぐ。
 
「お前らこそ、どうして俺に刃を向ける?」
 
「ルルノイエを侵略するものだからだ」
 
「この冷たい都が、お前らが守ろうとしたものか」
 
「昔はそんなこともありませんでしたよ。あなたが軍の実権を握るまでは」
 
クルガンの言葉に、ルカは唇をかみ、瞳に力を込めた。
 
「理解している。だから俺は同盟軍にいるのだ。リーダーのもと、その理想は、お前達と同じだ」
「同じ理想だと? 笑わせるな。お互いの領土を食い荒らし、憎み合っている俺たちが、同じ理想だと!?」
 
「ぼくは、ルルノイエの賑やかな空気を知っています」
 
騎士の背から出てきた少年は、まっすぐな瞳で二人を見つめた。
どこまでも曇りのない瞳に、クルガンとシードの掲げる剣が、固くこわばっていく。
 
「国が国を滅ぼさないと新しい王国が作れないというのなら、ふりだけしてもらえませんか?」
 
「はあ? 自分で何言ってるのかわかってんのかこのガキ」
 
「ジョウイとルカとぼく。三人で新しい国を作る事が出来れば一番いいと思いませんか」
 
「統べる王が三人、ですか、おもしろいことを言う方だ」
 
「この方法は反感を買うって、シュウさん……同盟軍の軍師に言われました。でも、一つの国になったからって、みんながうれしい訳じゃないと思うから、そういった人たちを三人で訪ねていけば、うまくいくんじゃないかなって……ぼくが考えてるだけだから、不安なんですけど」
 
どんどんと語尾が小さくなる少年にビクトールとフリックは愉快そうに笑った。
クルガンとシードも緊張感のない奴らだと思いながら、自分たちのもっていた頑固な考えに笑いが漏れてしまう。
ルカは立ち往生しているリーダーのせなかを大きな音をたてるように叩いてみせる。
 
「どうだ、このリーダーの言っていることは全くの綺麗事だろう!」
 
自信満々に声に出すルカを少年はすねた瞳で見上げ、敵対する男ふたりはお手上げだと声を上げて笑い出す。
 
「まったく、綺麗事にもほどがある」
「だがこの綺麗事に、お前達ものってみたいと思うだろう?」
 
ルカの問いかけに、ふたりは止まらぬ笑いをこらえながら剣を鞘へと戻した。
 
「そうですね、是非三人の建国式典を見てみたいものです」
「まったく、負けたよ。まさか戦わずして終わるとは思ってもなかったがな」
 
「あ、ありがとうございます」
 
クルガンとシードの言葉に、少年はほおを上気させて礼を言う。
そんな姿に早くも和みを見いだしながら、ふたりは表情を鋭く変えた。
 
「……まだ和んでもいられませんでした」
「そうだよ、ルカ様。あんたの過去の大罪が、向こうで牙磨いで待ってるんだぜ」
 
シードの言葉に、ルカは表情を変える。
 
「獣の紋章のことか? しかし、あれを発動するには」
「最後の一人の血なら、ルルノイエ最上の軍師が用意してますよ」
 
クルガンとシードは鞘から再び剣を掲げ、走り出す。
 
「どこへいく、クルガン、シード!」
 
「お前らは新しいルルノイエの王様だからな、古い国の尻ぬぐいなんざさせられねえ!」
「そういうことです。もしもという時のために、避難していてください」
 
廊下を駆け抜けていく二人。新たな仲間の背を見、四人はお互いの顔を見合わせ、頷いた。
 
「おいしいところをとられちゃかなわねーや」
「そうだな、うまい具合に俺たちのパーティにも空きがある」
 
「獣の紋章は俺の咎だ、部下に責任をとらせてたまるか」
「よし、早く二人のところに行こう!」
 
城内が奇妙なゆがみと揺れに包まれていく。
獣の咆吼が激しく響き渡り、城一帯が異次元と化したかのようだった。
 
 
城の崩壊は免れたものの、砕けた獣の紋章とジョウイの脱ぎ捨てられた礼服がルルノイエの崩壊を示していた。
クルガンとシードは自分たち以上に頭の固い主君を心配し、少年は親友の衣服を抱きしめながら、口をまっすぐに引きとじた。
ビクトールとフリックは混乱に倒れた兵士達を担ぎ出し、同盟軍の医療班を城内に呼び集めている。
敵味方もない医療の現場は、これからの新しい国を暗示しているかにも思えた。
そうしてルカはあたりに気付かれないようにリーダーの手を引きその場を後にする。
 
皇都の外は草原と風が満ち、先ほどまでの戦いの騒々しさが嘘のようだった。
 
「ジョウイの居場所、お前は知っているんだな」
「うん、たぶん……いや、きっと……ルカとはじめて話した、あの場所でぼくを待ってる」
 
ルカはユニコーン少年兵部隊のことを思い出し、ばつが悪そうに視線をそらした。
少年はルカの手を取り、そらされた顔を見ようとする。
 
「悪いと思ってる?」
「思ってるから、顔を合わせられんのだ」
「ルカにも、ぼくにも、ジョウイにも……時間はあるよ。ゆっくり償っていこうね」
「お前は何に償うというのだ。お前に罪など無い」
「あるよ。戦争を起こして、たくさんの命を奪った」
 
少年のまっすぐな答えに、ルカは押し黙った。
 
「ジョウイにも、ぼくの考えてることが伝わるといいな……」
 
次は少年が落ち込み、ルカがその顔をのぞき込む番となった。
 
「伝わるだろう。お前の理想は人を笑顔にする」
「綺麗事だって?」
「綺麗でいいではないか。人間は綺麗なものに惹かれるだろう」
 
ルカはゆっくりと少年にくちづけた。
 
「こんなふうに」
 
くちづけられた少年は顔を真っ赤にしてあたりを見渡した。
二人の出来事を知っているのは、どこまでも広い空とどこまでも豊かな大地ぐらいのものだった。
 
「あのね、ルカ。綺麗なのはジーンさんやアニタさんみたいな人のことを言うのであって」
 
真っ赤になって抗議するリーダーの口をルカはもう一度自分のそれでふさぐ。
後に続く言葉が見つからない少年は、ルカの手を握って、恥ずかしそうに目を泳がせた。
 
「今からジョウイのところに行こうと思うんだけど……ついてきてくれる?」
 
ルカは静かに頷き、二人は並んでゆっくりと歩き出す。
 
どこまでも薄青い大気にあふれた地平をルカは目を細めて眺める。
少年のまっすぐな思いは、皇王にまで成り上がり、そして堕ちたもう一人の少年に届くだろうか。
 
赦しを与えてくれる手袋越しの少年のぬくもりを確かめ、新しい国の美しさを思いながら。
届いてくれ、と男ははじめて居もしない神に願った。
 
 
……この国ではたくさんのお話が集まりました。
優しくて、ちょっぴり悲しいお話です。
 
このお話は、その中の、また、ひとつ。
 
 
おしまい
 


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