翠湖市伝え書き覚え書き〜ぼくととりまく世界〜

001:はじまりはいつも、なに?


まえもくじつづき



しとしとと雨が降り続ける朝。
どんよりと曇った景色を窓越しに眺めながらぼくは、乾燥機を使うことによる電気代の増加を思う。
洗濯機の中の湿った衣類はそのままにして、ガスの元栓や戸締まりなんかをしっかりと確認すると、
ベージュの雨傘を広げた。


「……おはよう」
「おはようございます」


家の前で所在なげに黒い傘を広げている彼は、幕内 輝彦(まくうち てるひこ)。
姉の菜々実と同い年、同じ高校に通っている。通称をティルと呼ぶ、そのひと。


「どうしました? テッドさんは?」
「飼育部の当番なんだってさ」
「菜々実も朝練で先に行ってますよ」
「いこう、電車に間に合わない」


たたずむ理由を遠回しに聞いているのに、話したくないのか、ぼくがついてくる前提で彼は歩き出した。もちろん、その後に早足でついていく。


何もしゃべらない彼に対していろいろと考えを巡らせてみる。
そういえば最近、朝のバス中で無差別に刃物を振り回した人がいた。
もちろんその場にいたわけでもなくて、ニュースで遠くに聞いた事件だ。
よもやそれを心配して一緒に登校してくれようとしているのか。
ぼくたちは電車通学で、バス通学じゃないから、気にしなくて良いと思うけれど。
ということは、これは理由に該当しない、と思う。
いつも一緒に通学しているテッドさんがいなくて、その上に、雨。
ああ、そうか。


「雨、苦手でしたよね」
「……わかってるなら口に出すなよ」


ふてくされる口調に正解を感じた。彼は親友がそばにいない日の雨を何故か怖がっている。
小さな頃に何かあったのかもしれないな、と笑うテッドさんに、不機嫌そうな表情を返していたことを思い出す。


「テッドさんと一緒に登校すればいいのに」
「お前なあ、べつにそれだけが理由でここに来た訳じゃ」
「え? なにかあるんですか?」
「なんでもない」


首をかしげて黒い傘の中をうかがう。
意図的に隠しているのか、表情をこちらに見せようとはしなかった。




改札口までの階段で傘を閉じると、二人並んで階段を上る。
歩いた後に水がしみこんで、お互いの歩き方の癖が丸わかりだ。
いろんな足跡が重なっているそれを見ていると、ティルさんの靴紐が解けているのに気がついた。


「ティルさん、靴紐ほどけてますよ」
「え? ああ、本当だ、ありがとう」


階段を上りきった先で彼は靴紐を結び直そうとする。
邪魔そうな傘を代わりに持って、彼を待つ間に乗車ICカードを取り出した。
取り出しながら、チャージしないと使えないことを思い出す。
その場にしゃがみ込むティルさんに一言添えると、改札口のそばにある自動精算機へと足を向けた。


精算機を前にいくらチャージしようかと鞄から財布を探っていると、
背後が妙な雰囲気を漂わせてくる。不安な、ぴりぴりとした、不可解な空気だ。


女性の悲鳴、男の大きな絶叫。


いきおい振り返れば、構内の廊下の向こうから、ネルシャツが脱げそうなほどに錯乱した男が包丁らしきものを振り回してこちらに向かっている。
あまりのことに動けない女性に目標を定めたのか、動きに統一性が出てきた。
ぼくは財布をしまい、二本ある傘を片手ずつに持ち直した。
トンファーを持つようなかたちだ。腕に沿って伸びるアルミニウムの骨を確認すると
迷いなく女性と男の間に飛び込んだ。


振り下ろされる包丁をベージュの傘骨で受け止める。
出刃包丁だろうか、アルミニウムがぐにゃりと曲がる感覚が腕に伝わる。
男が体制を整える前に渾身の力でもって傘を脇腹に殴り込み、体をくの字に曲げて男は床に倒れた。
遠巻きに動揺する人々をよそに男が動かないことを確認すると、傘を放り投げ女性に向き直る。


「おけがはありませんか?」
「は、はい……」


長い黒髪が小刻みに恐怖で揺れている。
大丈夫だと安心させるために男から遠ざけ、
もう一声かけようとしたとき、動揺が再びわき上がった。
女性の視線がぼくの背後から動かない。


「理央!」


後ろを確認する暇はなさそうだった。
ぼくは女性を守るために目を瞑り、衝撃に耐える準備をする。


しかし続いたのは、男のくぐもった声だった。
ゆっくりと振り返れば、ティルさんと、もう一人、男の人が助けに入ってくれたようだった。
ティルさんはぼくが放った黒い傘を手にしている。それが少しへしゃげているので、
それで殴りつけたことがわかる。
もうひとりは、特に何を持っているわけでもない。素手で飛び込んだとあれば、なんて勇気を持った人物だろうか。


「理央、大丈夫か!?」


心配するティルさんに頷いてみせると、女性を見やる。
すでにそこに姿はなく、探せばもう一人の男性の胸に飛び込んで泣きじゃくっていた。
素手で飛び込んできた理由がなんとなく察せられて、ほうっと息をつく。


「うん、大丈夫。ティルさん、助けてくれてありがとう」
「無茶するなよ、肝が冷える」


傘、もう使えないなあ、なんて話していると、鉄道警察隊の人達が遅れて駆けつけ、調書を取られることになってしまった。
学校は遅刻確定で、申し訳ないことをしたとティルさんに謝ると、サボれてラッキーだよ、と笑顔で返される。度量の広い友人に、心がぽっと温かくなる。


ぼくたちを残して駅のシステムは普段通りに流れていく。
構内の端っこで、ぼくたちと、恋人同士らしきふたりの男女が警察の質問に淡々と答えていく、その一角だけが非日常のように感じられた。


助けに入ってくれたもう一人の背の高い男性にあっけにとられ、
その大きな姿を無意識に見つめていると目があった。
不快そうに眉を潜めてにらみ返され、慌てて視線をそらす。
強そうで堂々としていて、にらまれはしたけれど、見た目も格好良かった。
あんな男の人になれたらいいなあ、なんて思う。


「では、また何かあれば連絡しますので、名前と住所、電話番号を教えてください」


携帯電話でもかまいません、という言葉にふたりでポケットを探る。
探りながら隣の話が耳に飛び込んできた。


「キジョウです」


へんだな、女性の名前は教えないのかな。
携帯電話から自分のアドレスを探しながらそんなことを考える。
教えた内容に間違いがないか確認している間に隣は終わってしまったらしく、
すでにどこかへ行った後だった。


それを何か寂しい思いで眺めながら、ぼくたちも警察の人に別れを告げた。




それからが大変だった。学校では何故か表彰されるし、どこから聞きつけたのかテレビ局はやってくるし、何故か代わりに菜々実とテッドさんが出演しちゃったけど良かったのかな、なんて考えたりもして。
慌ただしい日常がやっと落ち着きを取り戻し、学校から帰ってきてほっと息をついて家事が出来る、そのことを改めて幸せに感じているとチャイムが鳴った。
新聞社か雑誌編集者か、はたまた警察か。
内心げっそりとした気持ちを抱きながら玄関の引き戸を開いた。
目の前には、こんな人になれたらなあ、と思い描いていた、「キジョウ」さんが立っていた。


「えっと……輝城さんですね、少々お待ちください、帳簿と領収書を持ってきます」


彼は驚いたことに、じいちゃんが話していた、新しいアパートの住人だったのだ。
年老いた住人の健康状態の確認のために打ち出した、
家賃は家主のところに持ってくる、というシステムが気にくわないのか、
輝城さんは依然不機嫌そうな顔をしていた。


「あ、よかったら晩ご飯一緒にしていきますか」


領収書を渡しながら、いつも住人に話すように口に出してしまい、しまった、と後悔するように手のひらで口を押さえる。


「ここでは住人に食事を勧めるのか」
「あ……アパートには一人暮らしの方が多いし、たくさん作ってるから、みんなで食べるとおいしいし……ご、ごめんなさい、彼女と一緒に食べますよね、あはは」


彼女、と口に出してまたしまったと思った。どうもこの人の前では不必要なことまで話してしまう。


「彼女、だと?」
「え、ええ、この前、駅で、彼女が不審者に襲われそうになって、助けに入ったでしょう?」
「……お前か」


妙な巡り合わせもあるものだ、と輝城さんは頷いた。
彼は今やっと駅の小さな事件のことを思い出したらしかった。


「今日の夕食は何だ」
「えっと、白菜と豚肉の甘煮と、鰆の西京焼き、味噌汁……それと」
「アップルパイ、か」


オーブンから流れてくる香りの正体を口に出されて、ぎこちなく頷いた。


「では遠慮なく上がらせてもらおう」


靴を脱ぐ動作に慌ててスリッパを指しだし、居間へと案内する。
彼の前に焼きたてのアップルパイと紅茶を用意して、みんなが帰ってくるまで適当にくつろぐようにすすめた。
そうしているとティルさんの声。ただいま、という声と一緒に居間のふすまが開いた。


「あれ、このひと……」
「ティルさん、お帰りなさい。家には連絡入れましたか?」
「あとでメールしとくよ。それよりどうしてこの人がここにいるの?」
「じいちゃんのアパートに新しく入ってくれた人で、家賃を持ってきてくれたんです」


「ふうん、あ、アップルパイ!」
「ティルさんの分もちゃんとありますから」
「シナモン多めにしてくれよ」
「わかってますってば」


ぼくたちの会話を気にすることもなく、
輝城さんはアップルパイに迷わずフォークを突き刺していた。


全員が揃うと、食卓はいつも以上の賑わいを見せた。
輝城さんは菜々実の勢いに飲まれて戸惑い気味。テッドさんもその勢いに便乗して彼のことについて質問を投げかけている。そのすべてが好きな食べ物から足のサイズまで、小学生が聞くような内容ばかりで、周りでその様子を見ているぼくたちはなんだかなあ、と笑うしかなかった。


居間の大きなテレビで遊んだ後、輝城さんが帰るというのでぼくは見送りに立った。
他のみんなはゲームに夢中。じいちゃんは風呂に入っている。
なんだか悪いなあ、と思いながら、暗い夜道、家から少し離れた街灯のそばまで一緒に歩く。


「賑やかな家だ」
「また、いつでも来てください。いつもごはんたくさん用意してますから」


すると、輝城さんはぼくの頭をやさしくなでた。


「また来る」


彼はこちらに背を向け、片手を上げてアパートへと帰っていく。
やっぱり、格好良いなあ、なんて、思う。




「あれ、また来たんですか」
「松阪牛と幻想水滸伝の新作だ。入れろ」
「……そのゲーム、みんなで遊べないじゃないですか」
「だまって肉でもかんで見てろ」
「はいはい、どうぞ。レアで良いですか」
「レア以外に何がある」
「はいはい、ルカさんの好みはそうですよねー……」


まさか彼まで家に入り浸るようになるとは誰が予想しただろうか。
いや、多分、誰もしていない。




×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -