6/3:あじさい
また今日も雨だ。
どんよりと曇った空を眺めながら、しとしとと降り続ける雨の音を聞く。朝は降っていなかったから大丈夫だと思ったんだけど、と頭の片隅で考えつつ、手持ち無沙汰な手を握り締める。
ご察しのとおり傘を忘れた私は、下駄箱周辺まで来て雨の程度を確かめ諦める。これはもう少し雨が弱まるのを待った方がよさそうだ。図書館で時間でも潰してこよう。
そう思って回れ右すると、目の前に知った顔があった。うさんくさいその笑顔に、私は驚いて後ずさる。
「後ずさることないやん」
けらけらと笑うその男は、友人の今吉翔一その人だった。手にはビニール傘を持っている。
茶化しにでも来たのだろうか、むっと見上げると、今吉は空いた手をひらひらしながらまたうさんくさい笑みを浮かべた。
「だって今吉が急に後ろにいたから」
「ワシはずっといたけどな。みょうじが自分の世界入ってたから気付かんかっただけとちゃう?」
からかうような声色。
今吉はいつもこうだ。何を考えているのか分からないし、私をいつも翻弄する。
「まぁそんなんどっちでもえぇわ。それより自分、傘持ってないんとちゃう?入れてったるわ」
「えっ」
「こんな土砂降りやったら走って帰るんもきついやろうしなぁ」
これはもうお言葉に甘えるしかない。雨が弱まるの待っていたら帰れるのがいつになるか分からなかったし、第一今すぐ帰れるのならそうしたい。
「じゃあお願いします!」
「りょーかい。素直なんが一番やで」
そう言って歩き出す今吉を小走りで追いかける。足の長さが違うから歩幅も違う。私が初めて今吉と出会った二、三年ほど前と、何も変わらない。
いつもふらりと現れてはいつの間にかいなくなっている。何にも縛られない野良猫のような男だった。
「はい」
バサリと開かれた傘。二人で入ると少し狭くて、私と今吉の距離も狭い。窮屈で、でもその窮屈さが心地よかった。
歩く音が湿っている。
雨だから道は人通りも少なくて、とても静かだった。
「二人で帰るなんて久々やなぁ」
「最近は今吉部活で忙しかったもんね」
「せやなぁ」
「今吉が何かに熱中してる姿なんて、あんまり想像できないなぁ」
酷いわぁなんて肩を竦める今吉。
ただ実は一度だけ、今吉の練習を見に行ったことがあった。まぁ何もわざわざ見に行った訳じゃなくて、体育館に用事があったからそこでたまたま見かけただけなんだけど。
いち友人である私が、部活を見に行くなんて出過ぎたまねをしてはいけない、なんて考えが心のどこかにあったのだろう。その一度きりで、私が今吉の部活風景を見る事はなくなった。
今吉の部活風景に目を奪われて立ち尽くしたあの瞬間を、今でも忘れられない。
あれから何度も忘れようと、奥に奥にしまいこもうとしたけれど、無理だった。
ただ一瞬時が止まったように魅入った。あぁ美しい、なんて、馬鹿げたことを考えた。
「おーい、みょうじ?」
「あ、ごめんぼーっとしてた」
覗き込む今吉と目が合う。いけないいけない。
「駅んとこまででえぇの?」
「あ、うん」
そう答えると、霞の奥にぼんやりと駅が見えて来た。人通りも多少は多くなる。
私と今吉の二人の世界が、段々と開けてきた。
「じゃあ、このへんで」
そう言って駅の入口の側に寄り、今吉は傘を畳む。
そして私に傘を差し出した。
「?」
「駅から家までの間使っとき。自分女の子なんやから濡れたらあかんやろ」
「でも」
「ワシは家近いし気にせんでえぇから」
『女の子なんだから』なんて、今吉に言われるとは思わなかった。またも驚いて、ただ今吉を見つめる。
今もまだ雨は降り続いていて、弱まることを知らない。綺麗に咲いたあじさいと、降り続くそれを背景にした今吉は、何だかとても絵になっていて。
私はまたあの時のように魅入ってしまった。
美しい、だなんて、今吉が聞いたら笑うだろうな。
「ほら、電車行ってまうで」
私の手に傘を握らせる今吉。
雨で冷えた手が、熱くなる。
ばかみたいだ。三年間友達としてやってきたのに。今吉に魅入られたあの日から、ずっと気づかないふりをして押し込めてきたのに。
ごくりと息を飲み、口を開く。
「…今吉」
「その傘、自分にやるわ。朝携帯で天気予報見て急いで買ったヤツやから、別にいらへんし。家にビニール傘増えすぎて困ってん」
何かを悟ったように今吉が私に被せて言った。本当に、ひどい。ずるい。
また今吉に会いに行く口実さえくれない。
私はそんな口実がなければ、会いに行くことすら出来やしないんだから。
「じゃあ、お言葉に甘えるね。ありがとう」
傘を受け取った。
少し俯いて、唇を噛む。
今吉はどうせ気付いてる。
「気をつけてな」
そう言って今吉は手を振る。そんな姿まで美しくて、何も言えなくなった。
雨で霞むその後ろ姿と、満面の笑みを浮かべるあじさいを眺め立ち竦んでいた。
どんよりと重い空から、土砂降りの雨。
あぁ、なんだかなぁ。
ふらりと姿をくらましたあの男のことを考えながら、泣きたいような幸せなような、ぐちゃぐちゃした気持ちになった。
そうやって中途半端に優しくするから、忘れられやしないんだ。
それも全部、あいつは分かっているんだろうけど。
(あなたは美しいが冷淡だ)