41
―――夜が明けた。
消毒液の匂いが鼻を突く薄暗い部屋の中、リイはパチリと目を開くと、傍に綱手の気配が無いことを確認してベッドから起き上がる。見下ろした腕からは物々しい包帯が消え、白くつるりとした肌が暗闇の中に浮かび上がっていた。
リイは無言のまま右手を目の高さまで持ち上げ、握りしめる。
ヒュ、と空気を切って突き出される拳。
続いて開いた拳で手刀を作り、スッと横薙ぎに空気を切れば、その先にあった病室の重たいカーテンがトサリと音を立てて床に落ちた。
窓から差し込むぼんやりとした光が、皺の寄ったシーツを青く照らす。
リイはしばらくの間じっとその光景を見つめていたが、おもむろにシーツを跳ね上げると、そっと床に両足を降ろした。
ひんやりとした床を、裸足の足が踏みしめる。リイはベッドに手をつき、スプリングを軋ませながら軽快な動作で立ち上がった。
軽く伸びをし、ぺたぺたと音を立てながら、その場で数度飛び跳ねる。
(身体が軽い)
昨日まで鉛を引き摺っているかの如く重かった右手が、右足が、嘘のように軽い。
リイは手足を遊ばせながら、サイドテーブルに二つ並んだビンに目を止めた。片方は薬、もう片方は綱手が置いていった酒のビンだろう。まったく、薬の入ったビンと同じビンに酒を入れるなんて(しかもあまつさえ眠っている患者の横で飲んだくれるなどと)とんだ医者もいたものだ、と半ば呆れながら、リイは二つのビンを手に取る。そして、そっとそのビンに頬を当てた。
ひんやりとした感触。リイは軽く目を閉じて、言葉に出来ない感謝をビンの持ち主へと送る。
(―――綱手様。あなたのおかげで、ようやく私は、“私”に戻れる)
二つのビンを静かに懐に仕舞ったリイは、踵を返して病室の窓枠に手を掛けた。
締め切られていた窓を開け放つと、しっとりとした朝の風が病室内に吹き込んでくる。リイは深く息を吸い、腹に力を入れた。
裸足のまま窓枠に飛び乗ったところで、リイはふと、病室を振り返った。あと数時間もしないうちにガイは任務から帰還するだろう。その時もぬけの殻のベッドを見て、彼は何を思うのだろうか。
そこまで考えて、リイは軽く頭を振った。
今はそんな事を考えている場合じゃない。時間が無い。太陽が昇る前に里を出なければ、きっと間に合わない。
リイは窓枠を蹴って、一番近くにあった電柱の上に飛び移った。
一瞬の浮遊感。
とん、と着地した拍子に僅かに揺れた電線から、雀達が一斉に飛び立っていく。その後を追うように、リイは宙を蹴り、空を一気に駆け上がった。
風が頬を撫でる。
足元には、小さくなった木ノ葉の里。薄い朝日に照らされたそれを見下ろした途端、リイの背筋にぞくぞくとした高揚感が迸った。
(―――ああ)
衝動に身を任せ、宙を一回転。視界の端で、黒髪が靡く。空を蹴って、高く、高く、飛び上る。
どこまでも自由に、風に舞う一片の花弁の如く、艶やかに。
縦横無尽に、リイは宙を舞う。思い通りに動く手が、足が、その体を高みまで連れてゆく。
(そう、これが、これこそが私のあるべき姿)
術でもなんでもなく、その身体能力だけで何の足場もない空中を走るという芸当が出来るのは、この木ノ葉においてロック・リイただ一人だけ。
リイは歓喜しながら、空の上でクルクルと踊る。
―――帰ってきた。手足が。自由が。美しく、気高く、そして誰より強い“ロック・リイ”が。
宙返りをしながら、見据えた先に輝く朝日。
遮るものもなく、全身に降り注ぐ金色の光はまるでリイを祝福しているかのようだ。
(さあ、行こう。未来の為に、戦おう)
―――全てはうまく行く。
確証など無いというのに、リイは確信していた。
(だって、そうでしょう。リー)
「あなたと私が信じているから、“ロック・リイ”は負けない」
朝焼けの空に包まれ、眩い光を抱締めながら、リイは静かに微笑んだ。
*
サクラは走っていた。
木々の間をすり抜けて、時折避け損ねた枝が肌を弾くのを腕で庇いながら、道なき道を直走っていた。
走り続けて、もう何時間経っただろうか。
里でも屈指のスピードを誇る忍相手についていくのは容易ではないと頭では分かっていたつもりだったが、まさかこんなに早く引きはがされることになるとは。
里を出て早々に見失った追跡対象の影を探しながら、サクラは周囲を見回す。
―――あった。
木の幹に刻まれた簡素な矢印。樹皮の状態から、比較的新しいものであるという事が分かる。
彼女も、これを追っている。きっとこの先に居るのが―――。
足を止めないまま、矢印の指す方向へぐるりと首を回したサクラは、枝を強く蹴ってやや強引な方向転換をした。
―――追いつかなければ。
ただ、その思いだけが、サクラを駆り立てる。
大蛇丸の誘いに応じ、里を出ていったサスケと、それを追うナルト。
そして。
「リイさん。私はもう、逃げない。立ち止まらない。だから」
サクラは握りしめた拳に力を込める。
己に出来る事。それは最善を尽くすことだ。大切な人を守り、助けるために。
「戦うのよ。今度こそ。―――私も、一緒に!」
蹴り上げた木の幹が大きく撓む。舞い上がった木の葉の擦れる音の向こうに待つものが何なのかは、まだ分からない。
けれど、もう足を止めないと決めたから。
サクラは、走る。
―――たとえ、その先に何が待ち受けていたとしても、もう、恐れない。
*
―――サスケが行ってしまう!!
背を向けたまま走り出したサスケに向かって、ナルトは叫び、手を伸ばす。
チョウジを、ネジを、キバを、シカマルを置いて―――やっとたどり着いた。数多の犠牲を払い、やっと追いついたというのに!
木々の向こうに消えていく背中に、ナルトが脚を踏み出そうとした、その瞬間。
「無駄だ」
離れた場所に佇んでいたはずの君麻呂の声が、不意に耳元に響いた。
振り返る暇すらない。先に動いた眼球だけが、肉薄する鋭利な骨の刃を捉える。背後から薙ぐように振られた刃が、硬直したナルトの首筋に迫る。避けられない―――。
ナルトが息を飲んだ、その時だった。
一陣の風が傍らを通り抜け、鈍い音と共に喉元から刃が掻き消える。
視界を埋め尽くす、白。
鼻先を掠めた白いマフラーがゆっくりと落ち、その先に立っていた人物に、ナルトは目を見開いた。
濃い碧と艶やかな黒。ややあってナルトを振り返った白いかんばせの、赤く色づいた唇が柔らかな弧を描く。
ロック・リイ。
呆然としたナルトが「何でここに」という疑問をぶつける前に、目でそれを制したリイはただ一言「行きなさい」と呟いた。
再び前を向いたリイの視線の先では、リイの強烈な蹴りによって吹っ飛ばされた君麻呂がやや緩慢な動作で身体を起こそうとしている。
「彼を見失う前に。ここは私が引き受けます」
口を大きく開けて立ち尽くすナルトは、リイの言葉に我に返る。聞きたいことはたくさんあった。しかし驚きや戸惑いが邪魔をして、なかなか言葉が出てこない。
「…でもお前、身体は…?」
「あなたがあの綱手様を連れ帰って下さったおかげで、この通りですよ」
リイは軽く笑い、眉間に皺を寄せるナルトの顔の前で右の拳をぐっと握ってみせた。
「それより、早く。あなた、サクラさんとの約束を違えるつもりですか?」
その言葉に、ナルトはハッと目を見開く。
そうだ。今はリイと問答をしている場合ではない。
サスケを追わなければ。ここでサスケを見失ってしまっては、足止めを引き受けた皆の決意が無駄になる。サクラとの約束も―――。
「…ダメですよ。ナイスガイなポーズでした約束は、必ず果たさなくては。女の子との約束であれば、なおさらです」
倒れていた君麻呂がゆらりと起き上がる。
リイは君麻呂から目を放さないまま、ピッと親指を立てると、その指でサスケが消えていった方向を指した。
「さあ行きなさい。―――大丈夫。この程度、今の私の敵ではありません」
「言ってくれるね」
顔を上げた君麻呂が、握った骨の刃をクルクルと回し、切っ先をこちらに向けた所でピタリと止める。
それに答えるように、リイはスウッと構えを取った。
ピン、と空気が張り詰める。
「早く!」
リイに叱咤され、びくりと肩を揺らしたナルトは、やがて意を決したように力強く頷くと、踵を返して走り出した。
見る間に遠ざかる気配に、リイは満足げに笑う。
さて、邪魔者は居なくなった。
「行かせると思っているのかい?」
刃を構えた君麻呂が走り出す。リイはザッと草を踏みつけると、勢いよく地面を蹴った。
振り下ろされた刃が、リイの残像を斬る。剃で即座に君麻呂の背後に回り込んだリイは、空中で一回転すると、体重を乗せた踵落としを君麻呂の脳天に叩き込む。
岩よりも硬い感触。
君麻呂の両足が地面を軋ませ、沈み込む。その衝撃に、君麻呂の双眸が不快そうに歪められた。
―――成程、血継限界『屍骨脈』を持つだけの事はある。
リイはクッと口角を上げると、宙を蹴って後方へと飛び退いた。
二、三度空中をクルクルと回りながら、すとんと着地したリイは、再び構えを取りながら君麻呂と向かい合う。
「―――なかなかやるね」
君麻呂は眉を寄せ、目を細めながら目の前のリイを睨み付けた。
予想していなかった敵の出現だった。
自分と同じ接近戦タイプ。それも、純粋な体術の技量なら―――恐らく己を上回る使い手の。
蹴りを受け止めた頭蓋骨に走った鈍い痛み。骨芽細胞や破骨細胞、果てはカルシウム濃度すらも自在に操り、骨を形成する能力を持つ君麻呂にとって、罅の一つや二つ、入れられた所でどうという事もない。だが、鉄と同等、いや、それ以上の強度を持つ己の骨に、蹴り一つでダメージを入れられる人間が、まさかこの世に居ようとは思わなかった。
普通の人間の頭蓋骨であれば、今頃粉々に砕けている所だ。
「あなたこそ。…実は私はこう見えて病み上がりでしてね。この後もっと大変な戦いも待っているものですから、リハビリが必要だと思っていたところだったんですよ」
君麻呂の眉がピクリと動く。リイは君麻呂をじっと見つめながら、挑発的な笑みを浮かべた。
「なかなか
骨のある方のようで、安心しました。肩慣らしには丁度いいといった所でしょうか」
「…殺す」
静かに呟いた君麻呂は、上半身の着物を脱ぎ棄てると、翳した腕から何本もの骨を露出させた。
一つ一つが鋭利に尖った、変幻自在の刃。
「僕の最高密度の骨は、鋼の如く硬い」
地を蹴り、肉薄した君麻呂の腕が、リイの身体に迫る。
いくらその拳が常人離れした力を秘めていようとも、身体はただの肉に過ぎない。変則的に動く刃に包まれたこの身体を、止める術などありはしないのだ。
リイが再び高速移動で、己の背後へ回り込もうとする。その気配を感じながら、君麻呂はすっと目を閉じた。
残念ながら、全身を武器と化すことのできる自分に死角はない。
―――さあ、串刺しになれ!
「唐松の舞!」
君麻呂は全身から無数の骨を露出し、落ちてくるリイの身体を串刺しに―――。
「虚刀流―――落花狼藉!!」
振り下ろされた踵は、君麻呂の予想に反して硬く、その衝撃はまるで鉄の塊を上から落とされたかのようだった。背から飛び出した胸郭の骨の刃をものともせず、リイの踵は君麻呂の身体を地面へと押し付ける。
予想していなかった事態に、君麻呂は思わず目を見開いた。咄嗟に身体を捻り、背後のリイに向かって骨の刃を投擲する。それをサッと首をのけ反らせる事によってやり過ごしたリイは、追撃とばかりに相手の鳩尾に拳を叩きこんでその体を後方へと吹き飛ばした。
「…何故」
呆然としたような君麻呂の声。リイは足元に転がる骨の刃を拾い上げると、不敵に笑う。
「鋼になれるのは、あなたの専売ではないのですよ」
―――鉄塊。
肉体の高度を鉄に匹敵する程に高めるこの防御技は、体術との合わせ方次第では強力な攻撃手段ともなる。
リイは手刀で摘み上げた君麻呂の骨の刀を真っ二つにした。
あっけなく地面に転がった己の骨の欠片に、君麻呂は忌々しげに舌打ちをする。
「さて、あなたの骨の刃と、私の肉の刃。軍配が上がるのはどちらでしょうか?」
己の肉体を一振りの刃と化し、戦う無刀の剣法・虚刀流の使い手と、自らの骨を刃として戦う血継限界・屍骨脈を持つかぐや一族の末裔。
抜き放たれた二つの刃は互いを睨み合い、牽制する。
君麻呂は踵を返してリイから距離を取ると、指先の肉をメリメリと割いて露出させた骨を勢いよく投げ飛ばした。
「―――十指穿弾!」
「嵐脚!!」
リイが飛ばした鎌風が、飛んできた骨の弾丸を受け止め、相殺する。
君麻呂は朱く縁取った眦をきゅっと細めて「…成程…」と呟いた。
「実力は同等。このままやりあっても、決着はつかないと言う訳か」
鋼の骨と、鋼の肉体。
どちらも優れた防御力と攻撃力を誇る盾と矛だが、このままだと君麻呂の方が不利になるのは目に見えている。
それもそうだ。リイのそれは純粋な体術だが、君麻呂はその骨の強度を保つために膨大なチャクラを消費しなければならない。血継限界の力は強力だが、その分燃費が悪いのだ。
出し惜しみなどしている場合ではない。一刻も早くリイを倒さなければ。君麻呂は左手の指で胸元の地の呪印をなぞった。
残された時間は少ない。
己が命の尽きる前に、大蛇丸の悲願を何としても叶える必要がある。
君麻呂は据わった目で眼前に佇むリイを見据えた。胸の呪印が禍々しい光を帯び、血管のように浮き上がった紋様が瞬く間に全身へと広がってゆく。
―――状態、2。
変色した肌。飛び出した凶悪な骨。長く伸びた尾。
辛うじて人の形を保っている化け物が、そこには居た。
リイは何の感情も浮かばない目で、その姿をただ見つめる。
(憐れな)
身体の全てを武器にして、ただ一人、信じる者の為だけに、命を削り戦い続ける。
自分と似て非なる存在。
その姿に、リイは憐憫すら感じながら拳を震う。
君麻呂の姿が視界から掻き消えた。見るからに重そうな尾を引き摺っているというのに俊敏な動きだ。
リイは宙を駆けながら、飛んできた攻撃を順々に交わしていく。
「嵐脚、―――白雷!」
上空から落とされた稲妻にも等しい蹴りの衝撃が、君麻呂の硬い表皮に傷をつけながら滑っていく。
巻き上がった砂埃の間からはお返しとばかりに次々と骨の弾丸が打ち出されるが、リイはそれを一つ残らず紙絵を使ってひらりひらりと躱してみせた。
―――不思議な気分だった。
君麻呂は強い。流石は元音の五人衆のリーダーだっただけの事はある。
あの大筒木かぐやを始祖に持つ戦闘民族、かぐや一族の末裔にして最後の生き残りその名は多分、伊達じゃない。
でも。
「椿の舞…!」
高速で繰り出される骨の刃を、リイの手刀が受け止める。
とても骨と肉がぶつかり合う音とは思えない、鋼が擦れるような音を立てながら、目にも留まらぬ速さで繰り広げられる斬撃の応酬。
力に押され僅かに後方に下がったリイは、足払いを掛けるように踵で君麻呂の足を薙いだ。
キィン、と一等甲高い音を出しながら弾かれる身体。
咄嗟に後ろに飛びのいた君麻呂は、チッと舌打ちをして抜き出した骨をリイに向かって投擲した。
ドドドッと連続した音を立てて足元に突き刺さる骨の刃。
リイはその骨を踏みつけるようにして地面を蹴り、草の葉を散らしながら剃で君麻呂の背後に回り込んだ。
「虚刀流、桜桃!」
君麻呂の背を直撃する手刀。同時に振り上げられた君麻呂の尾が、リイの身体に迫る。
鈍い打撃音。
咄嗟に鉄塊でガードして骨折は免れたが、やはり重い。
ずしんと体に響くような鈍痛を歯を食いしばる事でやり過ごしながら、リイは己の腕を打った君麻呂の尾をガシリと掴んだ。
「ハァアアアアア!」
腹の底に力を込めて叫びながら、リイは全身全霊の力を持って君麻呂の身体を天高くへと投げ上げる。
君麻呂はリイの見た目からは予想もできない怪力に目を見開き、ハッと息を飲んだ。
「―――もう、遅い!」
声が響く。視界を反転させた君麻呂の眼下で、美しい黒髪が靡く。
リイは地面を強く蹴り、空に向かって高く飛び上がった。
片方の拳を腰元に構えると、上半身を捻り、迫る君麻呂の身体に向かって勢いよく拳を繰り出す。
君麻呂は皮膚の下に強固な骨の膜を張ることで、全身に鎧を纏ったかのような状態になっている。生半可な刃ではダメージは通らない。
しかし、鎧にはある弱点がある。硬質な鎧は、地面と接することによって初めて受けた衝撃を外に逃がす事が出来るのだ。つまり、宙に浮いた状態の君麻呂は、ダメージを受けてもそれを発散させる事ができない。
(私と似て非なる人。かわいそうに。あなたの悲願は叶わない)
リイの拳が君麻呂の身体を打ち抜く。
「虚刀流―――奥義、柳緑花紅!!」
君麻呂の纏う鎧を突き抜けた衝撃。狙ったのは心臓だ。
リイはその勢いを利用して、君麻呂をさらに高くへと弾き飛ばす。息を詰まらせて血を吐きながら呻く君麻呂に対して、慈愛すら感じられるほどの笑みを浮かべながら、リイは呟いた。
「ごめんなさい」
君麻呂はこの戦いで死ぬ。それが彼の運命だからだ。
リイがリーの持っていた運命を避ける事ができなかったように、彼もまた定めからは逃れられない。
逃がす気もない。
(あなたを殺して、私は先に進む。その先にある戦いで―――私は、この世界の運命を壊してみせる)
だから。
「さようなら。定められた運命の中で死ぬ、最後の人。せめて、安らかに」
ふと、リイの脳裏に、月光ハヤテや三代目火影の姿が過った。
己の知る『物語』の中で散っていった人々。リイは、彼らの死の運命を知っていた。
どうにもならないと諦めて、我が身可愛さに目を反らした命達。
間違ったことをしたとは思わない。あの時点ではあの選択が、己にとっては最善のものだった。
もっと早くにリーと会えていたら。
もっと早くに、己に与えられたその使命を、受け入れていたら。
―――彼らの結末は、違っていたのだろうか?
考えても栓ない事だと分かってはいる。だから、これを最後にするのだ。
繰り出された拳が、手刀が、とめどなく君麻呂に襲い掛かる。
防ぐ術など、ありはしない。
言葉とは裏腹に、無慈悲に、冷酷に。
的確に急所を突いていくリイは、骨の鎧を貫通して噴き出た君麻呂の血を頬に受け止めながら、その体をガシリと掴んだ。
腕から解けた包帯が君麻呂の身体を絡めとる。リイはその背中を強く抱きしめた。
この先に待つ、己の知らない未来を受け入れる覚悟はとうにできている。
リイの掌の中の小さな世界。リーの愛した人々。
彼らを守れるのならば、すべてを甘んじて受け入れよう。
(
私の、願いの為に)
「―――死んでください!」リイの、手加減なしの全力を込めた蓮華。君麻呂の身体は受け身も取れないまま、勢いよく地面に叩き付けられた。
衝撃が大地を割り、その余波は広い草原の果てに群生する木々をなぎ倒す。
むき出しになった地面からは土埃が舞い上がり、視界を埋め尽くした。離れた所に着地したリイは痛みを訴えかける四肢に手を添えながらその向こうをじっと睨み付ける。
あれだけのダメージを負って尚、彼が再び立ち上がることができるとは思えない。
しかし、油断をするわけにはいかなかった。命が尽きるその瞬間まで戦い続けた君麻呂の姿を思い出しながら、リイは静かに構えを取る。
一方で、リイの予想した通り、君麻呂の身体は限界を迎えつつあった。
リイによって体中の骨という骨を砕かれ、その硬質な切っ先が内側から君麻呂の内臓を突き破り、口元からはとめどない血が流れ出る。骨は再生できても、損傷した臓器までは再生できないのが君麻呂の弱点だ。まさか己を守る盾となる筈の骨に、とどめを刺されることになろうとは。
君麻呂は土埃の向こうの空を仰ぎながら憎々し気に顔を歪めた。
「大した奴だ」
数多の大蛇丸の器候補の中でも、ずば抜けた実力を持っていた君麻呂。
それが、なんと惨めな姿だろう。尽きようとする命の灯を感じながら、君麻呂は歯噛みする。
己の唯一の理解者であった大蛇丸。敬愛する彼の為なら、命すら惜しくはない。だが。
「…このままでは、死ねない…」
リイは強い。だから、病を言い訳にはしない。
最後の力を振り絞って、君麻呂はチャクラを練り上げる。
「…僕は…たとえ死そうとも、大蛇丸様の心の中に留まる…!」
かすれた声で呟いた君麻呂は、大きく咳き込んで大量の血を吐き出した。
霞む視界の中で、君麻呂は印を結ぶ。
「…舞え…」
地響き。
ひび割れた地面に沈み込む君麻呂の身体から針の筵のように大量の骨が突き出し、草原を覆い尽くしていく。
「早蕨の舞」
凄まじい勢いで、空を白が埋め尽くす。
足元から突き出す骨の刃から逃れるように、リイは宙へと駆け上がった。
そんなリイを追いかけるように、骨の刃は凄まじい勢いで成長する。
うなじを焼く殺気。振り返ったリイの背後に、骨の刃から上半身を露出させた君麻呂が出現する。振り上げられた凶刃。殆どゼロ距離で放たれるその刃が、リイの背中を切り裂こうとした、その瞬間。
渦巻くように空を駆けた砂が、盾となって刃を受け止めながらリイの身体を包み込んだ。
硬いものを穿つような音が響き、リイは目を見開いて視界を覆う砂を凝視する。
数秒の間。
刃が突き刺さった場所からひび割れるようにして崩れ去った砂の向こうに、絶命した君麻呂の姿がある。
ぽたり、とその口元から滴った血の滴を目で追う先には、赤い髪の少年が佇んでいた。
焦りの色を隠せない翡翠色の瞳と、リイの視線が交錯する。宙に手を翳したまま立ち尽くすその姿に驚いて、思わず空を蹴る足を止めたリイを、周囲を漂っていた砂が優しく受け止めた。
「…無事か…!?」
地面が間近に迫った所で、リイの足元の砂はサラサラと散っていく。
草を踏みしめる微かな音を立てながら地面に降りたリイは、駆け寄ってきた少年を見つめながらポツリと呟いた。
「砂瀑の我愛羅…」
忘れようもない、身の丈ほどの瓢箪と、額に刻まれた愛の文字。
リイの手足を砕き、危うく忍としての生命すら奪いかけたその張本人が、そこに居た。
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