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天気は快晴。薄い金と青の間のような色に染まった空に浮かぶ朝日が、木ノ葉の里を柔らかく照らしている。
実にすがすがしい朝だ。
頭上を飛び交う鳥たちの囀る声を聞きながら、リイは朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。

とうとう、この日が来たのだ。

「…で?こんな朝っぱらから、一体何に付き合えというんだ、お前は」

背後から聞こえてきた不満そうな声に振り向けば、そこには腕を組んだネジが立っていた。

「おはようございます、ネジ」

はにかみながらあいさつをするリイに、ネジはふんと鼻を鳴らす。だがリイはそんなネジの態度を気にする様子もなく、身体ごとネジの方を向いた。
そのままそっと顎に手を当て、佇むネジの姿を上から下まで眺める。

事前に任務に行くつもりで準備をしてから来い、と伝えておいたおかげか、ざっと見た所、特に不足はなさそうだ。

「準備は万端ですね。体調の方も万全のようですし、何よりです」

リイはうんうん、と満足そうに頷くと、ネジの肩をポンと叩く。

「今日は、ネジに頼みたいことがありまして」

「…厄介事ならお断りだぞ」

これまでの経験上、リイの『頼みごと』にろくな事があった試しはない。ネジが眉間に皺を寄せれば、リイは「今回は私の、というよりは、ナルト君やシカマル君に関係する事です」と肩を竦める。

「まあとりあえず、先にチョウジ君の家まで行きましょう。事情は道すがら説明します」

トン、と松葉杖を地面に突き、リイは歩き出す。
慌ててその後を追うネジに、リイはまるで今日の天気の話でもするかのような調子で「実はですねえ、昨夜、サスケ君が里抜けしたらしくて」と口にした。

「は、…はぁ!?」

思わず声を上げたネジに、リイはシィ、と唇に指を当てる。
リイは「まだ朝も早いんだから、近所迷惑ですよ」とすっとぼけた顔をするが、そんな事を気にしている余裕はない。
ネジは表情を険しくしながら、「どういう事だ」とリイに詰め寄った。

「詳しい事は五代目火影様からシカマル君が説明を受けていると思いますので、そちらから聞いて下さい。それで私が今日、ネジを呼んだ理由ですけれど」

筋を曲がったところで、リイは足を止めた。
古くから木ノ葉の里に住まう忍達は、大体同じ一族同士、同一区画に集まって住居を構えている。ずらりと並んだ『秋道』の表札を数えながら、リイは周囲を見回した。

(ええと…そろそろだと思ったんだけど)

と、そこでリイの目がド派手な金髪と黒髪のポニーテールを捉えた。よく見ればチョウジの他に、キバと赤丸も一緒に居る。
いたいた、と内心で唇を舐めながら、リイは再び歩き出した。

「私、実はこのあと手術が控えてまして。ネジには、私の代わりに彼らの力になってあげて欲しいんですよ」

ある程度まで近づけば、気配を感じたシカマルが背後を振り向く。
つられて振り向いたナルト達と共に、驚いたような表情を浮かべた彼らを見据えながら、リイは軽く手を振った。

「ネジも知ってのとおり、私は入院中、あの二人に助けてもらった借りがあるんですよ。でも今の私は見てのとおり、このザマですから」

リイは彼らの声が聞こえる範囲まで歩み寄ると、ナルト達に向かってにっこりと微笑みかけた。
道行く人十人が十人振り返るキラースマイル。朝日の中できらめくような美少女の笑みに、忍としてそれが作られたものだと分かっていてもなお、まだまだ未熟な子供であるが故にあまり耐性のない彼らは思わず頬を赤く染めてしまう。
―――もしかして、一昔前までは自分もああだったのだろうか。まったく、無知とは恐ろしいものだ。
その光景を後ろから眺めていたネジ(無駄に耐性のついてしまった人代表)は、心の中で頭を抱えた。


「おはようございます、ナルト君、シカマル君。―――いつかの借りを、返しに来ましたよ」


リイは笑みを浮かべたまま、手を上げると、そのまま後ろに控えるネジを掌で指す。
全員の視線がネジへと突き刺さり、ネジは自分でも知らず知らずのうちに、深いため息を零していた。

「…毎度言ってる事だと思うが、リイ。頼むからせめて、事前の説明くらいはちゃんとしてくれ」

それはネジに対して唐突な無茶振りの多いリイに対する、切実な願いだった。




*




それから約二十分後。

サスケ奪還の為に組まれた下忍による五人小隊が門の外へと踏み出していったのを、涙を流したまま見送るサクラの隣に佇みながら、リイはポケットに手を差し込む。
ユリの花が刺繍うされたハンカチをそっとサクラの手に握らせれば、サクラは涙の筋もそのままにリイを振り返った。

「泣かないで下さい、…と言う資格は、私には無いんでしょうね」

困ったように眉尻を下げながらそう言ったリイに、サクラは唇を噛みながら俯く。
サクラの手の中で、握りしめられたハンカチがくしゃりと潰れた。

「…やっぱり、リイさんは知ってたんですか。サスケ君が…里抜けする事…」

か細く、震えた声がサクラの唇から洩れる。
瞼に浮かぶ、昨夜の三日月。背を向けたサスケ。追いすがる自分の手が、暗闇に飲み込まれる瞬間。

『三日月に気を付けて』

まるで―――知っていたような、リイの口振り。

「否定はしません。彼が里抜けを選択する事も、それが今この時期であるという事も、私には分かっていた」

「なら、どうして…っ」

サクラは怒りを隠さない表情でリイに掴みかかり、その襟元にすがりついたままリイを糾弾した。
分かっていたなら何故止めてくれなかったのか。どうして。

リイはそんなサクラを振り払う事もせず、ただただ、首を横に振る。

「チームメイトであるあなたの言葉すら―――あなた方の担当上忍ですら、彼を止める事はできなかったというのに、彼から見れば同じ木ノ葉の里の忍であるという事以外、殆ど何の接点もない私に、それが出来たと思いますか?」

―――正論だった。
サクラはリイの言葉にそれ以上何も言う事が出来なくなり、力なく項垂れる。

八つ当たりだ。分かっている。

本来、彼の里抜けを止めるべきだったのは同じチームメイトであるサクラであり、ナルトであり、上忍であるカカシだ。
サスケと特別絆の深い彼らですら、その里抜けを阻止する事はできなかったのだから、サスケにとっては殆ど関わり合いの無い他人でしかないリイに、一体何ができるというのだろう。

「じゃあ…私はどうすればよかったんです。私じゃ、サスケ君を止める事は出来なかった。また…、私はまた、二人の背中を見てることしかできない。強くなりたくて、…私が、サスケ君を、ナルトを、守りたいって、そう決めたのに、私は!!」

門の先に、もうナルトの背中は見えない。ナルトはサスケを追った。
サスケを止めることができなかったサクラの代わりに、自分がサスケを連れて帰ってきてみせると、笑顔で『約束』してみせたナルト。
『一生の約束』―――。それは決して、泣いていたサクラを慰める為の気休めの言葉ではない。

サクラは自分の肩を抱きながら、膝から崩れ落ちた。

「私は…卑怯ですね。自分じゃ何もできない。何も変えられない。だから、私は分かってて、ナルトを…」

ナルトは、いつだって正直だ。自分の気持ちを隠さず、まっすぐにそれをサクラにぶつけてくる。―――痛いほどに。
いつもサクラの気持ちを分かっていて、その上で自分を助けてくれる。
彼の好意は本物だ。
だから、サクラがサスケに恋心を抱いている事もすべて承知の上で、ナルトは笑って見せた。サクラを安心させるように。自分の想いは、二の次にして。

笑顔の裏に隠された、重い覚悟。『自分の言葉は曲げない』、それが彼の忍道である限り、ナルトはどんな事があっても必ず約束を果たそうとするだろう。

今、サスケを追えば、間違いなく大蛇丸の手の者と戦う事になる。きっと生半可な相手ではない。
くらべてこちらの戦力は実戦経験の少ない下忍のみ。リーダーのシカマルは中忍だが、昇格したばかりでリーダーとしての経験が浅い彼も殆ど下忍と言っていいただろう。だからといって彼らが弱いという訳ではないが、戦闘になれば間違いなく不利なのはこちらだ。

最悪の事態だって想定できる。

それなのに。

「…私は、ナルトの気持ちを、利用してる…」

サクラは約束という言葉でナルトを縛り付けた。彼の逃げ道を塞いで、死地に送り出したのだ。
…なんて、卑怯な女だろう。かつてサスケにナルトについて聞かれた時の自分の言葉を思い出して、サクラは唇を噛みしめる。

『ナルトは私のことなんて何一つ分かってない。―――うざいだけよ』

―――一体どの面を下げて。

自分はナルトに頼み事ができるような立場じゃない。そんなの分かってる。だがそれ以外に、どうすればよかったのだろう。
自己嫌悪で一杯になりながら、サクラは自分の腕にギッと爪を立てた。

(―――ああ。私は弱い)

こんなザマで、誰かを守りたいだなんて、笑わせる。

リイは地面に座り込んだまま、俯いて肩を震わせるサクラに静かに歩み寄ると、音もなく傍らに膝をついた。
まるで壊れ物にでも触れるかのような繊細な動作でその肩に触れ、優しく背中を叩いてやる。

「ナルト君は、イイ男ですね。惚れた女の為なら、って奴ですか。私、見直しちゃいましたよ」

リイの言葉に、サクラは驚いたように顔を上げた。―――今、リイは何と言った?
『ナルト君は、イイ男ですね』―――聞き間違いでなければ、そう言わなかったか?

あの(・・)リイが。

老若男女を虜にする美貌の持ち主でありながら、ガイ以外の異性には一切の興味を持たず、彼以外の男は視界に入っていても風景と同じ程度にしか思っていない程筋金入りのガイ馬鹿であるリイが。

短い付き合いではあるが、その短い期間で嫌と言う程にリイのガイ至上主義っぷりを見せつけられていたサクラは、驚愕のあまりそれまで流していた涙を引っ込めてしまった。

あのロック・リイが、マイト・ガイ以外の男についての賛辞を述べるだなんて!!

まるで信じられないものを見たかのように固まったサクラに、リイは悪戯な笑みを浮かべて小首を傾げた。どうやら彼女の動揺には一切気が付いていないらしい。

「ナルト君はきっと、必死になってあなたとの約束を果たそうとするんでしょうね。どんな時も猪突猛進、まっすぐな人ですから」

フフ、と笑ってリイは座り込んだままのサクラの手を握る。
サクラはきょとんとした顔で重ねられた手を見つめた。

「卑怯ですって?上等じゃないですか。あんなイイ男を惚れさせて手玉にとってみせたんです。誇りましょう。サクラさんは同期の中でも群を抜いて魅力的で優秀なくのいちだって」

リイはそのままサクラの手を引き、二人一緒に立ち上がった。
握りしめられていたハンカチで、サクラの頬を拭ってやりながら、リイは軽くサクラの髪を撫でる。

「そんな顔をしていては、イイ女が台無しですよ」

だから、泣くのはもうおしまいにしましょう。

頬に張り付いていた髪を払い、そのまま乱れた髪を整えてやったリイは、慈愛に満ちた表情を浮かべながらサクラと視線を合わせた。

「私はもう行かないといけません。でも、一つだけ」

ちょん、とサクラの鼻先を指でつつく。
目を白黒させたまま瞬きを繰り返すサクラの翡翠色の瞳を間近で覗き込みながら、リイはそっと瞼を伏せた。

「あなたは決して弱くありません。どんなにつらい思いをしても、立ち上がる勇気がある。どんな事があっても、ただ一人を想い続ける事ができる。―――それは、強さです。恋をしている女の子だけが持っている、特別な力」

卑怯も卑劣も上等だ。すべてを飲み込み、利用する。
恋愛は惚れた方が負け、とよく言うが、それは違う、とリイは思う。

恋愛は、惚れた方が勝ちだ。

ただ一人の誰かを想う喜び。悲しみ。想う人が居るというだけで、世界はぐっと色味を増す。
誰かの為に―――強くなれる。

「サクラさんにとってサスケ君は、一度や二度袖にされた程度で諦められる人なんですか?―――違うでしょう。…だったら、諦めるのはまだ早い」

届くまで言葉を紡ぎ続ける。喉が枯れても叫ぶのを止めてはいけない。それでも駄目なら実力行使だ。
力尽くでもいい。追いかけて、追いかけて、みっともなく縋りついてでも、振り向かせて、その視線を釘付けにしてしまえ。
目を反らせないように。背を向ける事ができなくなるくらい。追いすがる手を、振り払えなくなるくらい。

恋する乙女の、全力を以って。

「泣いてる暇なんてありませんよ。止められないのなら、止まらせればいいのです。だから、まずは追いつくまで走って。あなたが足を止めたらそこで終わってしまう。―――最後まで、諦めてはいけない」

―――だから、今はその為に。



「私はできる事をします。やるだけやって、それでも駄目ならそれはその時考えればいいのです。だから、あなたも」



リイはそう呟いて空を見上げる。
太陽が随分高い位置に居る。そろそろ約束の時間だ。

「…説教じみた事をしてしまいすみませんでした。同じ、恋に身を焦がす女からのアドバイスだとでも思ってください。こう見えても、あなたより片思い歴は長いんです」

ポカンとしたまま立ち尽くすサクラに、パチン、と茶目っ気たっぷりのウインクを一つ。
「…もう行かなくては」そう呟いて、背を軽く叩いてやってから、リイはそっとサクラから一歩下がった。
くるりと踵を返し、足を踏み出そうとすれば、「―――待って!」とようやく我に返ったサクラが慌ててその腕を掴む。

「私、一体何をすれば」

焦燥と、不安に揺れる声。
縋るような視線を受け止めながら、リイはサクラを宥めるように優しく目を細める。

「―――それは、私に聞くべき事ではありません。答えはすべて、あなたの中にある筈ですから」

リイは掴まれていない方の腕をおもむろに上げると、五本の指で自分の胸をそっと抑えた。

「ね?」

サクラはその指先をじっと見つめながら、リイの言葉を胸の中で反芻する。

(私に、できること?)

握りしめた拳に、思わず力が籠る。

駄目だ、考えても分からない。一体自分に何ができる?サスケの為に、ナルトの為に、自分ができる事とは一体。


(私に、できることなんて―――…)



―――馬鹿ね。そんなの決まってるじゃない。自分が何のために強くなりたいと思ったのか、忘れたの?



唐突に響いた、内なる己の声。サクラはハッと目を見開く。

手から力が抜け、リイの腕がするりと落ちた。リイは急変したサクラの様子に驚いたかのように目を瞬かせる。
顔を上げ、空を睨み付けたサクラの瞳に宿る一条の光。

シカマルは言った。お前の出番はもう終わっている。あとはオレ達が力尽くで説得をするしかない、と。
だが、それでいいのか?本当に?
説得は、確かに失敗した。でもそれは、言葉を紡ぐ事を止めてもいいという理由にはならない。

そうだ。諦めてしまえばそこですべてが終わる。それは、自らこの想いを手放す事と同義だ。

そんな事、出来るはずがない。
それが出来ないからこそ、今こんなにも苦しい思いをしているというのに。

結局は他人任せにしてしまう事を嘆いて、こんな所で立ち止まっている暇があるのなら、もっと他に出来ることがあるのではないか?

(…結局私は、逃げていただけ)

サスケを止める事ができるのはナルトだけ?
―――そんな訳がない。自分にだって、まだ出来る事がある筈なのに。

もしも、全力を出してぶつかっていっても尚、サスケを止めることが出来なかったら。もうどうしようもない所まで行ってしまったら、サクラは木ノ葉の忍として、最後の手段に出なくてはいけなくなる。

その覚悟が、己にはあるのか?
サスケを殺す、覚悟が。

そこまで考えて、サクラはギュッと瞳を閉じ頭を振った。

そう、その覚悟が無いから、サクラはナルトに後を託した。サスケを止められるのはナルトしか居ない。そんな都合のいい言葉で、己の責任を投げ出したのだ。

(最低。そう、今の私は最低よ)

まだ何も、行動してすらいないのに、そんな事ばかり考えて。
出番はもう終わっている?そんな筈はない。

―――だってまだ、舞台に立ってすらいないのだから。


(そうよ―――…まだ、終わっていない!)


サクラはそっと目を開くと、そのまま視線をリイへと戻した。
唇を引き締め、拳を強く握る。

翡翠の瞳の奥で強い輝きを放つ、決意。

覚悟は、決まった。
あとは、やるべきことをやるだけだ。

サクラはリイに向かって思い切り頭を下げた。


「―――リイさん。ありがとう。私、もう少しで、立ち止まってしまう所だった」


リイが頷いたのを見て、サクラは踵を返して走り出す。
その背を押すように吹き付けた風が、頭上を流れる雲を青空の向こうへ押し出していく。

あっという間に小さくなっていくサクラの背を見つめていたリイは、ふと足元を過った影に空を見上げた。
太陽を背に、伝書を括り付けられた鷹が、西の空へと羽ばたいていく。一瞬の後に黒点となったその影を見送って、リイもまた歩き出した。



動き出す。
誰もが、望むものを手に入れるために。



望む未来を、手に入れるために。







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