39

『第二資料室』の文字が刻まれたプレートが貼り付けられた扉を、サクラは何の迷いもなく開く。周囲に人影はない。滑り込むように部屋の中に入り、音も立てずに扉を閉める。
薄暗い部屋の中―――扉を背にしたサクラの眼前にいくつも並ぶ棚の中は、巻物上にしてまとめられた古今東西のあらゆる毒に関する情報がぎっちりと詰まっていた。
サクラは素早く左右に目を走らせ、右側の棚の奥から三番目に視線を固定する。多少埃っぽいその棚は、丁度サクラ達の世代が生まれた頃に研究されていた毒に関する巻物が纏められていた。
棚をざっと見回したサクラは、数ある巻物のうち、己の知りたい情報の載っていそうなものを何本か抜き出すと、そのうちの一本を紐を解いて、殆ど流し読むように紙面に目を滑らせた。

(違う)

巻物を巻きなおし、紐で縛りなおして元に戻す。これはどうだろうか、と次の巻物を手に取り、再び紐を解く。

(これも違う)

そしてまたその次の巻物を開き―――閉じては戻すという作業を四度程繰り返した所で、サクラは巻物を開く手をぴたりと止めた。

(あった…)

細かく綴られた文字を、殆ど瞬きもしないままじっと見つめ、脳に刻み込む。医療忍術の講義内容と違って、これはメモを許されない情報だ。門外不出のこれを文字媒体として持ち歩くのは、いくらなんでも危険すぎる。
暗記に自信のあるサクラでも、専門用語が多く、馴染みのないそれらの単語を一言一句間違えずに記憶するのは中々骨が折れる行為ではあったが、泣き言は言っていられなかった。

(それにしても調べれば調べる程、大蛇丸ってとんでもない奴だわ…)

大蛇丸に関する情報で、木ノ葉に残っているものは今読んでいるこの巻物で最後の筈だ。この巻物が記された時期と同じ頃に大蛇丸は里を抜け、その後暁に入ったと聞く。
サクラは巻物を暗記し終えると、やや緩慢な動作でそれを元の状態に戻した。

(伝説の三忍、かあ…)

―――調べれば調べる程、大蛇丸という忍の凄まじさを思い知らされる。

十年以上も前にこれだけのものを作っていた人間が、里を抜けて枷を無くしたらどうなるかなんて―――考えたくもない。

(逆立ちしたって勝てる筈がない。でも―――)

大蛇丸が里に居た頃、秘密裏に行われていた非人道的な研究の数々―――。流石にそれらの資料に目を通した時は、一日何も食べる気が起きなかった。忍として精神訓練を受けているだけあってすぐに立ち直ったが、サクラの脳内で被験者は皆サスケの顔をしていて、このままいけば大蛇丸に執着されているサスケがそのイメージ通りの未来を辿ることになるのは想像に難くない。

(私が、サスケ君を守らなくちゃ…)

全ての巻物を棚に戻し終えたサクラが立ち上がる。
大蛇丸に関する情報で、サクラが知り得たものはすべてリイにも伝える約束になっている。
午前中、診察のついでと言いながら差し入れを持って病院に顔を出したリイに、実技は夕方までには終わる予定だと伝えてあるから、今頃いつもの演習場の岩にでも腰掛けながら、自分が来るのを待っているだろう。
そこまで考えて、サクラはふと踏み出そうとした足を止めた。

そう言えば、リイはなぜ、大蛇丸の情報を求めているのだろう。

訳あって理由を話す事はできないと語っていたリイを思い出し、サクラは唇に指を当てる。

(―――暗部の任務の関係?でも、今は怪我をしているからとても任務に就ける状態じゃないだろうし…)

サクラは首を捻り、数秒考え込んだが、結局答えを出す事はできず、瞬きをしてからその疑問を振り払った。

リイが大蛇丸の情報を求める理由を己が考えても仕方がない。彼女には彼女の事情があるのだろう。
大蛇丸に関する情報が欲しいという点に置いて、サクラとリイの利害は一致している。本来なら下忍であるサクラには閲覧を許されないこの情報を得る為に奔走したのはリイだ。講義中はきりっとした表情を保っているが、講義が終われば鼻の下を伸ばしてリイの予定を尋ねてくる青年医師の顔を思い浮かべ、サクラはため息をついた。
リイから差し入れられた餅菓子を受け取った時のあのデレデレとした表情といったら!

(…いや、あれはあの人がロリコンなんじゃなくて、リイさんが美少女すぎるのが悪いんだ。先生としては普通にいい先生だし)

貴重な時間を削って自分の為に分かりやすい講義をしてくれる青年に、軽蔑の眼差しを送る訳にはいかない。悪いのは傾国の美少女たるリイのあの美しすぎる外見だ。決して先生がロリコンであるせいではない。そう思う事にしておこう。

無理矢理に自分を納得させたサクラは、うん、と強く頷くと、ポケットに入れていた手帳を取り出し、今し方頭に叩き込んだ毒の情報と、講義で学んだ毒の成分や薬効を書き記してあるメモを照らし合わせる。
視線を手帳に向けたまま、サクラは今度こそ資料室の扉に手を掛けた。





*





「あれぇ、サクラじゃない。ここで何してんの?」

一心不乱に握りしめた手帳のメモを脳内で復唱していたサクラは、唐突に聞きなれた声に呼び止められ、弾かれるようにして顔を上げた。
汚れ一つない白で埋め尽くされた空間に溶け込むような白色の制服で統一された医療忍者達と違い、輪郭を浮き上がらせるような紫色の忍服。不思議そうな表情を浮かべて首を傾げる彼女の、高い位置で結われた短いポニーテールが揺れる。

「…いの?え、あんたこそ、なんでこんな所に居るのよ」

驚きのあまり、僅かに上擦った声が廊下の白い壁に反響した。
病院に併設するこの研究機関は、扱う情報の重要性から、今サクラが首から下げているような許可証がなければ出入りできないような、少し特殊な場所だ。
そんな所に何故いのが居るのか。
サクラが戸惑いを隠さずにいのを見つめれば、いのもまた同じような表情を浮かべていた。どうやらお互い、同じ疑問を抱いているらしい。

「そういえば、あんたは知らなかったんだっけ。ほら、私の家花屋じゃない?ここで作ってる薬とか毒の原料になる植物も扱ってるから、時々納品に来るのよ」

シカマルとチョウジの家も薬の材料を扱ってるから、タイミングが合えば一緒に来ることもあるけど、といのが付け足せば、サクラはようやく合点がいったというように軽く頷く。

「そういえば、いのの所は木ノ葉でも有数の品揃えで有名だったわね…」

綺麗な色合いの可愛らしい花に囲まれるイメージで、幼女が憧れる職業の中でもトップ3に食い込むであろう花屋だが、忍里の花屋ともなるとやはり一味違う。
いのの実家である花屋の店頭には、供え物や贈り物に使う色鮮やかで煌びやかな花が所狭しと並んでいる。だが、店内にはそれと同じくらいの―――いや、それ以上の量の、様々な毒草や薬草が取り揃えてある事で有名だ。五大国中、最も気候が安定しており、緑の豊富な火の国の代表的な隠れ里である木ノ葉の里で一番の品揃えを誇るのだから、いのの店で手に入らない植物は殆ど無いに等しいと言ってもいい。
加えて、山中一族は薬分野に飛びぬけた知識を持つ奈良一族や秋道一族とも深い繋がりを持っており、この三つの一族が揃っているが故に、木ノ葉の医療は技術分野以外でも最高峰のレベルを誇っている。
…お蔭で大蛇丸や薬師カブトなど、高度な薬学の知識を持つ厄介な抜け忍がゴロゴロ居る訳でもあるのだが。

「でも、なんでまたサクラがここに居るワケ?ここって一般の下忍が気軽に来れるような場所じゃなかったと思うんだけど…」

「あ、私、この間からここで医療忍術の指導してもらってて…ほら、コレ」

サクラは手に持っていた手帳をポケットにしまうと、胸元にぶら下げている許可証の紐を指で掬い取り、内容をいのに見えるように傾けた。
そこには確かにこの研究所に勤める医師の名前とサクラの名前が記されており、サクラが正当な手順を踏んでこの場に出入りしている事を証明している。いのはそれをしげしげと眺め、やがて驚いたように目を見開いた。

「医療忍術の研修!?あんた、医療忍者目指してんの?」

素っ頓狂な声を上げたいのに、サクラは半ば憮然とした表情で頷いた。
医療忍術はとにかく難しい事で有名で、医療忍者を名乗る事が出来るレベルで術を習得できる者は、木ノ葉の中でもほんの一握りだ。
数千に及ぶ薬の効能を把握し、人体構造に関する正確な知識をもって、緻密なチャクラコントロールを維持しながら治療を行う―――。血継限界に縛られる事こそないが、それなりのセンスを求められるこの分野に進む忍は、その道の険しさ故にあまり多くない。サクラのようなアカデミーを卒業したばかりの下忍であれば尚更だ。

「私もちょっと前までは考えたこともなかったんだけどね。中忍試験のごたごたで、私も何か皆の力になれるような力が欲しかったっていうか…」

ぽりぽりと照れくさそうに頭を掻くサクラに、いのは感心しながら顎に手を当て、数度頷く。

「まあ、あんた昔から頭だけは良かったもんね。チャクラコントロールもアカデミーの頃からズバ抜けてたし」

「今日の実技で、イイ線行ってるって褒められたわ。そのうちあんたが“サクラさん治療をお願いします”なんて頭を下げなくちゃならないような凄腕の医療忍者になっちゃうかもね〜」

サクラが茶化すような笑みを浮かべれば、眉を吊り上げたいのが「なんですってぇ!?言っとくけど、薬に関する知識だったらあんたなんかあたしの足元にも及ばないんだからね!」と張り合ってくる。
この所気分が沈むような出来事ばかり続いていたサクラは、いつもと変わらないいのとのやり取りに自然と口元が緩ませながら「薬の知識だってすぐに追いついて見せるわ」と口を開きかけ、そしてはた、と何かに思い当たったかのように表情を変えた。

そうだ。いのは同世代のくのいちの誰よりも、薬に対する造詣が深い。
薬草や毒草の知識に関してはもちろん、奈良一族や秋道一族との長きに渡る一族ぐるみでの親交のお蔭で、薬に関する知識も人一倍持っている筈だ。

「…ねえいの。ものは相談なんだけど―――」





*





サクラは素手のまま、拳にチャクラを溜めると、低く腰を落として思い切り地面を殴りつけた。
轟音が響き渡り、拳が埋まった個所から雷に似た亀裂が放射状に伸びる。
しばらくそのまま動きを止めていたサクラは、やがてゆっくりと肘を動かし、ずぼ、と土の中から腕を抜いた。

「随分サマになってきましたねえ」

岩に腰かけ、頬杖をつきながらその様子を眺めていたリイは、呑気な声でそう笑う。
顔を上げ、ふう、と短く息を吐いたサクラは、血の滲んだ拳を見つめながら「まだ硬化が不十分みたいです」と首を振った。

「まあ、素手ですからね。私ぐらい長年使い込んでいればそうそう傷もつきませんが、サクラさんはまだ修行を始めて日が浅いですし。骨に影響がなければ上出来なくらいです。できれば、丈夫な材質の手袋を着けるといいですよ」

「そうですね。明日にでも、見繕ってきます」

呟きながら、サクラはリイの傍に歩み寄ると、その隣に静かに腰を下ろした。
血のにじんだ拳を膝の上に置き、その上に左手を翳して、ぐっと眉根を寄せる。指先に、淡い緑の燐光が灯った。

「もう左手でも出来るようになったんですか?」

リイが僅かに驚いたような表情を浮かべる。
無言のままサクラが血の滲んだ箇所に緑色の燐光を重ねれば、じわじわと傷口がふさがっていった。
数秒の沈黙の後、サクラが詰めていた息を一気に吐き出す。
おもむろに血のこびり付いた拳をそっと拭えば、そこには傷一つない白い肌があった。

「っはぁ…。やっぱり、片手で、それも利き腕じゃない方でとなると、ちょっと加減が難しいです。両手でやれば、もうちょっと早く治せるんですけど」

「…いやあ、驚きました。流石、あの彼が『教えがいがある』と言うだけはありますね」

リイはぱちぱちと小さく手を叩きながら、サクラの医療忍者としての底知れない資質に嘆息する。
これが才能という奴なのだろう。チャクラコントロールに関して、サクラは異常な程飲み込みが早い。まるで水を得た魚のように、日々進歩するその術の精度に、リイはただ感心することしかできなかった。

(…まあ、それもそうか。二年後にはほぼ綱手を越えたと言ってもいい程の医療忍者に成長する訳だし)

うむうむ、と腕を組みながら頷いたリイは、サクラを労うようにそっと水筒を差し出す。
サクラは受け取った水筒に口を付け、喉を鳴らして水を飲みながら「でも、流石にもうスタミナ切れです。午後はずっと、この治癒術の訓練してましたから、もうすっからかん」と肩を落とした。

「サクラさん、ナルト君やサスケ君を比較対象にしてはいけませんよ。あれらはもう別格です。ナルト君に至っては考えるだけ無駄ですから。よほどの事がない限り無尽蔵ですからね彼」

「それはそうなんですけど…」

溜息を吐くサクラに、リイは「こればっかりは鍛えようも無いですしねえ」と苦笑を浮かべる。
術の精度や威力は修行によって鍛える事が出来ても、根本となるチャクラの総量だけは修行でどうこうする事はできない。例えるなら、身長と同じと言った所か。身体が成長するのに比例して扱える量は増えていくが、伸び止まりというものがある。だからより大きな力を求める者は、大蛇丸のようなものに縋り、禁術に手を伸ばすのだ。

強い力には、それ相応の代償を伴う。

ナルトの持つ強大なチャクラが、彼が人柱力であるが故の恩恵であるように。
リイの力が、リーの存在という犠牲の上に成り立っているように。

(―――摂理に逆らった存在であるという点では、私もまた、彼らと同じだ)

ふと、リイの脳裏にリーの姿が過った。
運命を変えるため、己の存在を犠牲にして、リイという存在をこの世に生み出したリー。
そしてリイは、運命を変えるための力という摂理に逆らった力を与えられ、この場に立っている。

そう、己は力を与えられた側の存在だ。
―――ならば。

リイの中で、今まで考えもしなかった疑問が頭をもたげる。

(私が支払うべき代償は、一体―――?)

黙り込んだリイを不思議に思ったのか、サクラが首を傾げながらリイの顔を覗き込む。
ハッと意識を戻したリイは、若干沈んだ空気を払拭するように、パン、と手を鳴らすと、何でもないという顔をしながらサクラに向き直った。

「そういえば、例の件はどうでしたか」

唐突なリイの問いに、サクラは「あっ、そうでした」とポケットの中に手を突っ込んだ。
取り出した手帳を慌ただしく捲り、該当するページに行き当たった所で書き込まれた文に指を沿わせる。

「ええと…残っていた最後の資料ですが、過去に大蛇丸が使用した毒についての記述がありました。傾向としてはヘビ毒を元にした出血毒が多かったです。そこから過去数年分の記録を追ってみましたが、こちらは系統があまり枝分かれしていなかったので、恐らく大蛇丸は口寄せする蛇のものを共通して使っているんでしょう」

血清に関するデータも残っていました、とサクラが数種類の抗毒血清の名称をつつく。

「ただ、厄介なのはそれ以外の毒ですね。調合の比率は毎回変わっているようなので、今現在どういった効能の毒を使っているのかが読みづらいです。多く使われている傾向のものからある程度有効だと思われるものはピックアップしてみましたが、扱いの難しい薬草が多いので、解毒薬を用意するのは少し難しいかもしれません」

そう言いつつサクラが提示した薬草を用いた解毒薬は、扱いの難しさもさることながら、どれも希少価値が高く、一介の下忍には入手が困難なものばかりだった。
リイは顎に手を当てながら俯く。

「成程…」

思案するリイを横目に、サクラはそっと開いていた手帳を閉じた。
―――聞くべきか、聞かざるべきか。
サクラは睫毛を伏せながら、胸の中で渦巻いたままの疑問を反芻する。

リイが大蛇丸の情報を求める理由。

考えないようにしようとしても、やはり気になる。
サクラのように身内の命が掛かっているような切羽詰まった事情がある訳でもなく、暗部としての活動も休止している今、彼女が大蛇丸の情報を躍起になって求めているのは何故なのか。

―――聞くなら、今しかない。

今を逃せばもう機会はないと、サクラは何故か直感的にそう感じた。

ぎゅっと手を握りしめ、俯いたままのリイに正面から向き合う。

「あの」

意を決して声をかけたサクラに、思考の海に沈んでいたリイは瞬きをしながら顔を上げると「なんでしょう?」と首を傾げる。

「もし、薬が必要なのであれば、私、心当たりがあります」

口にしつつ、サクラの脳裏に浮かんでいたのはいのの顔だった。

常に多忙である医療忍者に弟子入りするには、本人の了承か、更に上の立場にある忍からの推薦が必要だ。
駆け出しの下忍であり、そういったコネも持たないサクラが、ああ見えて上級医療忍者である青年に師事する事ができたのは、ひとえにリイの口利き(という名の色仕掛けによる懐柔)があったからに過ぎない。その後は本人の適正次第ではあったが、幸いな事にサクラには才能があり、今に至るという訳だ。

故に、サクラは自らが得た知識と経験を引き換えにする事を条件に、いのに協力を求めた。
二人は因縁を持つライバル同士ではあるが、同時に互いを掛け替えのない親友として認めている。
サクラが得た医療忍術の知識や、師事する事によって得たコツなどを教える代わりに、いのにできる範囲で構わないので薬と薬の知識を融通してほしい。常とは違った様子でそれを申し出たサクラに、並々ならぬ事情を感じ取ったいのは、その頼みを了承した。

「…その代わり、教えて欲しいんです。リイさん、あなたはどうして大蛇丸の事を調べているんですか?」

何か訳があって事情が言えない、というのは分かる。だが、重要な機密をも含むこれらの情報を、何の為に求め、何に対して利用しようとしているのか。
リイが得た情報を使って木ノ葉に仇なすような事をするとは考えられないが、それでも、サクラはリイの共犯者として、その目的を聞いておく必要があった。

細められたリイの目を見つめるサクラの掌にじんわりと汗が浮かぶ。
踏み込んだ事を聞いているという自覚はあった。
だが、引くことはできない。

「お願いです。リイさん…、教えてください。あなたは何故、何に対して、そんなに焦っているんです」

サクラの言葉に、リイの目が僅かに見開かれた。
ここ数日―――いや、もっと前からか。少なくとも、サクラがリイと手を組んだあの日からずっと、リイは何かに対して、ひどく焦っているような様子だった。
本当はもっと前からの事だったのかもしれない。付き合いの短いサクラでさえそう感じているのだから、サクラよりもずっと長い時間リイと行動を共にしてきたチームメイト達の違和感は相当のものだろう。

木ノ葉崩しの一件で手足に深い傷を負い、眠りから目を覚まして以降の、まるで人が変わったかのようなリイの振る舞いに、周囲の人間たちは皆一様に困惑していた。

あまり自分から進んで他者と関わろうとはしないタイプだったリイが、自らサクラの指導を請け負い、かと思えばいつもべったりとくっついていたガイからは意図して距離を置くようになった。

忍を続けていく事は難しい、と医師に宣告される程の怪我が、彼女を変えたのだろうか?
―――いや、違う。これは治る見込みの薄い怪我に対する絶望から来る行動ではない。彼女には何かきっと…別の理由があるのだろう。

それが何なのかまでは分からない。
負傷した手足を引き摺ってまで、彼女がしなければならない事とは、一体―――。

じっと固唾を飲んで己を見つめるサクラに、リイはそっと瞼を伏せた。

―――サクラに、己の目的を話すべきか否か。

互いの目的の為とはいえ、ここまで働いてもらったのだ。リイには、サクラに集めさせた情報の使い道を説明する義務がある。
…だが、本当の目的を告げた所で、サクラをいたずらに困惑させてしまうだけだろう。それに、サスケの為ならばこれだけの行動力を見せる彼女の事だ。万が一、巻き込む事にでもなったりしたら。

唇を引き結んで黙り込むリイからそっと視線を外し、サクラは俯いた。

「…やっぱり、言えませんか」

呟きながら、サクラは膝の上に置いた手をきゅっと握る。

「分かってるんです。リイさんにはリイさんの事情がある。そしてそれは、たぶん私が口を出して良いようなことじゃない」

本当は。
本当は、気づいているのかもしれない。リイが、何をしようとしているのか。
ただ、それはあまりにも荒唐無稽すぎて―――。
サクラはゆるく頭を振ると、顔を上げて困ったような表情を浮かべたリイを仰ぎ見た。

「リイさんは以前、今の私が昔の自分に似てるって、言ってくれましたよね」

強くなりたい。大切な人を、守るために。

そう語ったサクラに、リイは言った。その姿は、かつての自分に似ている、と。
ならば、今は?
強くなり、力を手にしたリイ。―――それを、己の姿と重ねれば。

もし今、力があったなら。

「…だから、何となく分かるんです。私にも。きっと、大切な人を守るためなら、どんな戦いだって受け入れる」

例えそれが―――己よりずっと強大な力を持った敵であろうとも。




「―――…戦うつもりなんですね、リイさん。大蛇丸と」




サクラの強い瞳がリイを射抜く。思わず息を飲んで固まったリイに、サクラはそのまま言葉をつづけた。

「確証はありません。リイさんが大蛇丸と戦わなくちゃいけない理由なんて、考えても分からない。でも、これだけは確信を持って言えるんです。リイさん、あなたは」


あなたは、一人で大蛇丸と戦うつもりなんでしょう。


サクラはリイの負傷した方の手にそっと触れる。
リイの身体がピクリと揺れるが、それには気付かないふりをして、サクラはその手を優しく握った。

「言った所で誰も信じないでしょうね。いくらリイさんが凄腕の体術使いだからって、こんな身体で―――いえ、例え怪我がない状態の時だったとしても、大蛇丸と一人で戦うなんて、あまりにも無謀すぎる。三代目火影様ですら、命懸けで戦っても相打ちにすらならなかった。そんな相手に」

リイは優秀な忍だ。忍術を使うことができないというハンデを負いながら、暗部入りを果たすほどの。
そんなリイが、自分と相手の実力の差を見誤るとは考えにくい。

ならば。

「―――勝算が、あるんですか」

あの大蛇丸相手に、一人で戦っても勝てると踏む、何かが。

真剣な表情で己の手を握るサクラを、リイは瞬きを繰り返しながら見つめた。
やがてリイはふ、と口元を緩めると、諦めたように額に指を当てながら肩を落とす。

「…、驚きました。どうやら私は、少々あなたの事を見縊っていたようです。あなたは、本当に優秀な忍だ」

リイは諦めたように笑い、その視線を空へと向けた。
既に日は落ちかけ、辺りは薄暗くなっている。リイは空を仰いだまま、静かに目を閉じた。

―――自分でも、無謀な事を考えているという自覚はある。
だが、予感がするのだ。

戦わなければならない。―――運命を、変えるために。

それは、とても勝算と呼べるようなものではない。
だがそれでも、リイに与えられた『運命を変える力』は、リイを戦場へと駆り立てる。

今、この時を、この絶好のチャンスを逃してはならない。

早く。

―――早く!

物語を終焉へと導く歯車を壊せと、本能が叫ぶのだ。

リイは瞼を開くと、己の腕に触れているサクラの手をやんわりと退け、立ち上がった。


「月が、随分と痩せましたねえ」


唐突なリイの言葉に、サクラはぱちくりと瞬きをする。
つられるように見上げた頭上には半分になった月が、ぼんやりとした光を放ちながら夜の訪れを告げていた。

「あれが三日月になるまで、あとほんの数日しかない…」

リイは呟くようにそう言うと、サクラを振り返った。
吹き抜けた風が木々を騒めかせ、二人の髪を静かに宙に躍らせる。運ばれてきた静寂と夜の匂いが、黙したまま佇む二人を包んだ。
ふと、リイは腕を伸ばして、サクラの頬に触れる。指先が輪郭をなぞり、目の下を優しく撫でた。
指先に付着する、白い粉。
リイは困ったような笑みを浮かべると、サクラの頬から手を放した。

「任務でもなしに、女の子が夜中に出歩くというのは、あまり感心できる事ではありませんが…」

ハッとした表情になったサクラに、リイは笑みを深める。

「どうして…」

サクラが今一番恐れている事。―――それはサスケの里抜けだ。
ナルトとの病院での一件以来、以前にも増してサスケは思いつめた顔をすることが多くなった。
もしかしたら、彼は力を得る為にこのまま里を捨て、大蛇丸を追うつもりなのかもしれない。

サスケが自分の知らぬ間にいなくなったりしたら。サクラは唇を噛んで拳を握りしめる。

―――そんなの、耐えられる筈がない。

もしもサスケが里を抜けようとするならば、止めなければならない。
そう考えたサクラは、見張りが手薄になる夜半を警戒して―――毎日里の門の付近に張り込むようになっていた。

―――でも、なぜリイが、それを知っている?

知らず知らずのうちに眉間に寄った皺にも気付かずに、サクラはリイから一歩後退る。
リイはそんなサクラを見つめながら「忠告、と言えるほどのものでもありませんが」と肩を竦めた。


「三日月に気を付けて」


そう言って、リイはサクラに背を向けて歩き出す。サクラはその場に立ちすくんだまま、リイを追おうとはしなかった。

―――三日月の夜。彼ら三人にとって、因縁の始まりとなるその夜は、もうすぐ訪れる。

ふと、リイは足を止めて立ち止まった。

(…ああ。私はなんて、ひどい女なんだろう)

サクラがどんなにサスケの事を想っているのか、知っているくせに。
リイはサスケを止めない。彼があと数日もすれば、里抜けをする事を知っていても、それを止めることはしないのだ。

それが、リイの言葉を信じ、慕ってくれるサクラに対する裏切り以外の何物でもないと分かっていて尚。

―――全ては、己の目的の為に。

「…ごめんなさい、サクラさん。でも、必ず」

例え、あなたを傷つけることになろうとも。



「必ず…責任は、果たして見せます」



半分に割れた月だけが、リイの独白を聞いていた。







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