38

「ここにいたのか。…家にいないから心配したぞ」

月明かりに照らされながら困ったような笑みを浮かべるガイを、リイは半ば呆然としながら見つめていた。
どうして。なぜ。そんな疑問がぐるぐると回る。何か言おうと小さく唇を開くが、言葉が出ない。
それでも何とか動揺を抑え、乾いた喉からやっとの事で絞り出せたのは、「どうして、ここに…」という掠れた呟きだけだった。

「綱手様からの伝言だ。…手術の準備に目途がついたらしい。施術は…十日後だそうだ」

ガイの言葉に、瞼がピクリと動く。
視線を彷徨わせるリイの肩から手を離し、ガイは口元の笑みを消すと黙ったままのリイを見下ろした。
引き結ばれた唇につられるように、ガイの眉尻が下がる。目の下に皺を寄せながら、やるせない表情を浮かべたガイの視線が己の手足の上を滑っていくのを見つめる事しかできない。

「…本当に、受けるのか」

沈黙の中で、ガイがぽつりと呟く。―――リイが綱手に手術を受ける意志を示した時と、同じ顔。
どんな時だろうと、いつも快活な笑顔を絶やす事のないガイ。そのガイが、自分の選択の所為でこんな表情を浮かべている。
その事実が、今のリイにはたまらなく辛かった。リイはそっと己を見つめるガイから目を逸らし、俯く。
唇が震えそうになるのを必死でこらえ、下唇を軽く食む。しかし、決意は変わらない。ぎゅっと眉根を寄せながら、リイははっきりとした声で「はい」と答えた。

「この手足を治すには、それしか方法がないのです」

手術の成功の確率は二分の一。失敗すれば、死あるのみ。
だがリイは、この手術に賭けるしかなかった。他でもない、医療忍者の最高峰である綱手がそれ以外の方法は無いと断言するのだから、選択肢など有って無いようなものだ。
眉間に皺を寄せたガイは、俯いたリイの旋毛を見つめながら、反射的に口を開きかけた。
しかし何かを言いかけると、躊躇するように唇を閉ざす。

まるで―――それを言葉にする事を恐れるかのように。

「…リイ、お前は、本当に分かっているのか」

ガイは降ろしていた手の指を広げ、ゆっくりと握りしめながら拳を作った。
その手が微かに震えているのを見て、リイの瞳が戸惑うように揺れる。


「死ぬかも…知れないんだぞ」


静寂が落ちる。風が音も立てずに、二人の間をすり抜けていった。

(ああ、もう)

逃げられない。

リイは悟った。これまでずっと避けてきたが、もう限界だった。
顔を上げ、後悔や葛藤に顔を歪ませたガイの視線を正面から受け止める。
―――それはまるで、リイにその選択肢を選ばせてしまった事を後悔するかのような表情だった。

(目を、反らしてはいけない)

ガイにこんな顔をさせたのは、自分だ。
ガイがずっと、リイを暗部に入れてしまった事を気に病んでいた事は知っていた。
師として、忍術が使えないというハンデを負うリイの事を誰より理解していたはずなのに、それを防ぐことができなかった。そして、突きつけられた現実―――。忍としての生を捨てるか、死の危険を伴う手術に賭けるか。
後者を選ぶ決意をしたのは、リイだ。だが、リイの怪我に責任を感じていたガイは、そのリスクを簡単に受け入れる事はできなかった。

顔を合わせれば必ず、ガイは己を止めるだろう。
ずっとガイの事を見つめてきたリイには、それが分かっていた。
すべてが終わるまで。いや、せめて、手術が終わるまでは、顔を合わせたくない。ガイの目を見ると―――決心が、揺らいでしまいそうになるから。
そう思って、これまでずっと、ガイとの接触を避けてきたというのに。

「…懐かしいな、リイ。下忍になった時、お前、ここでなんて言ったか覚えてるか」

忘れる筈がない。
忍術や幻術が使えなくても、立派な忍者になれる事を証明したい―――リーが語った夢と同じ、リイの夢。
それはきっと、リーが抱いていた純粋な想いとは違うものだった。
全ては、幼い頃に見たあの背中を追う為に。リイは、『ロック・リイ』として、ガイの為にその忍道を貫き通す事を、あの時誓ったのだ。

「お前はいつも真っ直ぐだ。どんな時でも、その忍道を貫き通す。オレは、そんなお前を誇りに思っているよ」

体術しか使えないというハンデを負って尚、努力に努力を重ねたリイは、日向家始まって以来の天才と名高いネジと並べても遜色ない実力を持つ。忍術を一つとして使えない身で、暗部に抜擢された程だ。リイはいつでも、己の語った忍道に恥じぬ生き方をしてきた。
その意志は、忍として戦う事が出来ないのなら、リスクを負ってでも手術を受けると即決する程に固い。

「…オレはな、リイよ。忍道を失うような事があれば生きていけない程の馬鹿だ。忍として生きていく事を諦めるか、二分の一の確率の手術に賭けるか…、オレがお前と同じ立場にあったなら、きっとお前と同じ選択をするだろう。だがな」

眉根を寄せたまま、ガイは言葉を続けることを躊躇うようにそっと瞼を降ろす。
僅かな、間。やがて意を決したように再び目を開いたガイは、リイの両肩に手を当てながら、腰を落として目線を合わせた。
ガイの行動に驚いたように目を丸くしたリイは、至近距離からその瞳を覗き込むガイに思わず息を止めた。

「オレは…オレは、お前に、その危険を受け入れてほしくない」

すすんで危険を冒さずとも、リイが忍として生きる道は、ある。

幸いな事に、リイはくのいちだ。
戦忍としては無理でも、その類まれなる美しい容姿があれば、戦えずとも十分に忍としての役割を果たす事ができるだろう。
例えその生き方が、リイの意志に反するものだとしても。

死んでしまえば、それで終わりなのだ。

失敗すれば死ぬ―――それも二分の一の確率で。そんな危険を冒すくらいなら、いっそ手術を受けずにいて欲しい。
リイ。かわいい弟子。大切な仲間。己を無邪気に慕い、己と同じ夢を語るこの少女を、失いたくない。
それが己の勝手な願いだとしても、ガイはそれを口にせずにはいられなかった。

『戦う事のできないロック・リイ(わたし)が私として存在する事など、私が許しません。例えその結果が、死であったとしてもです』

迷いなくそう言い切ったリイの姿が、ガイの脳裏を過ぎる。
それでも。

「逃げてもいいんだ、リイ。例え戦う事ができなくても、お前はもう立派な忍だ。だから…」

その言葉に、リイはぐっと奥歯を噛んだ。
膝に置いていた手を胸に当て、ゆっくりと息をする。
ガイ。尊敬する師。守りたい人。リイの恋い焦がれる唯一。その望みを叶える為ならなんだってできる。
だが。

「…ごめんなさい、ガイ先生」

それだけは、受け入れる事ができない。
リイは首を左右に振りながら、胸に触れる指に力を込める。

胸が、苦しい。

ガイが己の事を思って、迷った末に言葉にしてくれたそれを振り払うのは、リイにとって身を切り裂かれるよりも辛い事だった。

「それでも私は、戦わなければならないのです」

―――すべては、ガイの為。そして己の守りたいもの、大切な仲間の為に。
リーの代わりとして存在するリイは、己の全てを捧げ、彼らの為の盾となり剣となる事を決めた。
例え手足が使えなくなったとしても、死の可能性を突き付けられたとしても、その決意は変わらない。

願う事は、ただ一つ。

目を閉じたリイは意を決し、迷いを捨て去った。
確固とした意志を宿した双眸で、ひたとガイを見据える。


「私は、あなたの誇りでありたい」


それは、逃げてもいいというガイの言葉に対する明確な拒絶だった。ガイは思わず息を飲んで動きを止める。
ガイが白と言えば黒も白に変わる―――それほどまでに盲目的にガイを慕っているリイが、ガイの言葉を否定したのは恐らくこれが初めてだったからだ。

「私は、死にません。先生、約束します。手術は必ず成功しますから。だから、どうか」

リイは肩に置かれているガイの手にそっと触れる。あたたかなその手を上から優しく包み込みながら、リイは口角を上げた。



「私を―――信じてください」



二人の頭上に掛かった、雲の形をした影がゆったりと流れていく。
ガイの手に触れたまま、言葉を無くしたまま立ち尽くすガイをじっと見つめていたリイは、不意に泣きたいような気持になった。

(―――ああ、この人は、どうしてこうも優しいのだろう)

手術を受ける事は最初から決めていた。だが、もしかすれば死ぬかもしれないというその可能性に、恐れを抱かなかった訳ではない。
リーが成功したのだから、きっと己も成功する。そう信じてはいても、万が一、という事もある。

己の中にあったその迷いを―――声に出す事の出来ないその恐怖を、言葉にする事ができないリイの代わりに語ってくれたガイ。
自ら逃げ道を塞いだリイの為に、ガイは別の道を示してくれたのだ。
リイが、それを拒絶する事も分かり切った上で。

「…そうか」

ふと、ガイの表情が緩んだ。リイはそんなガイの様子に、思わず笑みを崩してきょとんとした顔になる。

「お前という奴は、本当に…」

呆れる様な、安堵するかのような、そんな笑みを浮かべながら、ガイはそっとリイの肩を開放した。
にっこりと微笑んで、片手を腰に当てたガイは、「安心しろ」と空いた方の手でリイの頭をポンポンと撫でる。

「他でもないお前が信じているんだ。オレも信じよう。―――手術は必ず成功する。もしも一兆分の一、失敗するような事があったら…」

ガイの手が頭から離れる。リイは瞬きをしてそんなガイの手を目で追った。



「その時は、オレが一緒に死んでやる」

―――だから、恐れるな。



力強い声で「約束だ」と言って、ガイは親指を立てる。
ガイが約束事をする時に必ず取るそのポーズは、『死んでも約束を守る』という誓いであるという事をリイは知っていた。

何処までもまっすぐで、一度口にした約束を絶対に違える事のないガイのその誓いに、リイは思わず笑ってしまう。

「―――それじゃ絶対に、成功しないといけないですね」

不謹慎だとは分かっていても、込み上げてくるその喜びを隠す事はできなかった。
万が一手術が失敗したとしても、本当に一緒に死んで欲しいとは思わない。だが、ガイのその気持ちがリイにとっては何よりも嬉しかった。
唐突に目頭が熱くなり、リイは俯く。

「先生」

「ん?なんだ」

首を傾げるガイに、リイは「抱き付いても、いいですか」と消え入りそうな声で呟いた。
その肩が僅かに震えているのを見て、ガイは「いつでも来い」と腕を広げる。

立ち上がったリイは迷うことなく、勢いを付けてその胸に飛び込んだ。

「先生」

「どうした」

ガイの胸に顔を埋めたリイが、その背中を強く掴む。

「…ギュッとしてください」

何も言わずに、ガイはリイを抱きしめる腕に力を込めた。それに答えるかのように、リイもまた強くガイにしがみつく。

月の光に濡れたように光る黒髪を撫でるガイが浮かべる微笑みは、とても優しいものだった。





*





「もう夜も遅い。家まで送ろう」

リイが泣き止むまでずっとその頭を撫でていたガイは、持っていたハンカチで涙の痕を拭ってやると、そっとリイの体を離した。
あれだけ泣いたのだ。きっと今は化粧が剥がれて、とても酷い顔をしているに違いない。リイはなるべく顔を見られないように俯き、両手で顔を覆う。

「これ以上、先生にご迷惑を掛ける訳には。…一人で帰れます」

腫れた声でそう言ったリイに、ガイは首を振った。

「リイ、あのな、いくら忍とはいえ、そんな恰好で夜で歩くのは感心しないぞ。それに、怪我をしているんだから、無理をするんじゃない」

そう言われて初めて、リイは今自分が普段は着ないような露出の多いワンピースを着ている事を思い出した。

(…あれ…、もしかしてガイ先生、今私の事を意識してくれている…?)

ぱちぱちと、瞬きをする。理解した途端に、頬が熱くなった。
リイは腐っても忍、それもくのいちだ。必要とあらば色の任務に就く事もある。ガイだってそれは知っている筈だ。
少しばかり露出の多いワンピースを着ていた所で、何を今更と思いつつも、しかし、ガイがリイを『女』として扱ってくれたという事に、リイは顔を綻ばせずにはいられない。

(先生私のことちゃんと女だと思っていてくれたんですね…!)

普段まったく相手にされていないが故に、感動もひとしおだった。全快後は普段着ているタイツを改造して露出を増やしてみようか。
そんな事を悶々と考えているリイの内心を知ってか知らずか、背を向けしゃがみ込んだガイは、後ろ向きに両手を差し出す。

(―――あ)

ふとその姿が、記憶の中にある幼い頃に見たガイの背中と重なり、リイは思わず息を飲んだ。

「ホラ、乗れ」

立ち尽くすリイに、ガイが両手を動かして促す。
逡巡は、一瞬だった。

(―――そうだ。この人は)

見知らぬ世界に放り出されて途方に暮れていたリイを受け止めてくれたその背中は、昔と変わらず広くて暖かい。

(…不思議な人。私が孤独な時は、いつだって助けてくれる)

ガイが道を示してくれるから。
この広い背中で、すべてを受け止めてくれるから。

だからリイは、どんなに辛い時だろうと、いつも前を向いていられる。

リイがガイの背に身体を預ければ、ガイは重さを感じさせない動作ですっくと立ち上がった。
太ももの下に回された手に力が籠り、リイはガイの首へと腕を回す。リイがしっかりと自分に掴まったことを確認したガイは、「行くぞ」と言うや否や宙に飛び上がった。

ぐん、と持ち上がった視界。冷たさを孕んだ風が耳元を撫でていく。

「―――先生」

リイが呼びかければ、ガイは前を向いたまま「ん?」と首を傾げた。
とん、と地面を蹴る度に体に伝わる衝撃。一拍置いて、リイは僅かばかりガイの首にしがみつく力を強くし、ガイの耳に唇を寄せる。



「大好きです」



囁くような呟きに、ガイは目を丸くした。肩口に顎を寄せ、俯いたままのリイの表情は見えない。
ガイはそんなリイを横目で見やり、穏やかな笑みを浮かべる。

「ああ。オレも大好きだぞ」

迷いないガイの返答に、リイは俯きながら苦笑した。
分かっている。ガイの『好き』は、リイの抱いている想いとは違う。

―――今は、まだ。

けれどいつかは、自分の事を見てくれると信じているから。

(だから今は、これでいい)

ガイの首を抱き込んだ腕を掴む指に、少しだけ力を込める。
リイは、夜の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、静かに瞳を閉じた。




―――いっそこのまま、時間が止まればいいのに。




ほんの一瞬だけ頭を過ぎったその想いを飲み込んで、リイはガイの広い背中にそっと頬を摺り寄せた。







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