36

松葉杖を握る手に、じっとりとした汗が浮かぶ。

一刻も早く病室から遠ざかりたい一心で足を動かしていたリイは、汗の滲んだ手のひらに気付くと静かに足を止めた。
脇に挟んだ松葉杖から指を離し、そっと手を開く。外気に触れた事で、しっとりと湿り気を帯びた手のひらから、籠っていた熱が逃げていく。
小さく震える指先をじっと見つめながら、リイは眉間に皺を寄せた。

―――死をも肯定したリイの言葉に、硬直したガイの顔が忘れられない。

(…先生は、優しいから)

医者に匙を投げられたリイの手足の事を、誰よりも心配していたガイ。
己がリイの暗部入りを強く反対してさえいればこんな事にはならなかったのではと、責任を感じていた面もあったのだろう。

成功の確率は良くて二分の一―――。失敗すれば、死あるのみ。
最後の希望であった綱手の口から告げられたその言葉を、ガイはどんな気持ちで受け止めたのか。

「…あんな顔を、させたい訳じゃなかったのに」

動揺と、不安と、困惑がないまぜになったような顔で動きを止めたガイを思い出して、リイは軽く目を伏せる。
胸の中で燻る複雑な感情。いつも笑っていて欲しいと願う人に、あんな顔をさせてしまったという罪悪感と、自分を心配してくれているという事に対する些か歪んだ喜び。

(怒るだろうなあ、先生…)

これから、自分がしようとしている事を知ったら。

リイは無理矢理に唇を引き結び、顔を上げた。
今のリイには、迷う事も、立ち止まる事も許されてはいない。

―――例えそれが、己を心配してくれるガイに背くことになるとしても。

手の汗を拭ったリイは、松葉杖を握り直し、再び足を踏み出そうとした。


「―――あれ、リイさん?」


リイは、聞き覚えのある声に呼び止められて上げかけた足を止めた。
ほぼ反射的に振り返れば、見慣れた桃色の髪の毛が視界の端で揺れる。

―――春野サクラ。

中忍試験の時にバッサリと切り落とした髪を揺らしながら、こちらへ向かって小走りに駆け寄って来る彼女に、リイは僅かに驚いたような表情を浮かべた。
何故彼女が病院に―――、とそこまで考えて、リイは今この病院に彼女の班員であるサスケやカカシが入院しているという事を思い出す。
見舞いの際はいつも必ず花なり果物なりを携えている彼女の手に何も握られていないのを見る限り、その帰りといった所だろうか。

「サクラさんではないですか。お久しぶりです」

リイは口元に柔らかな笑みを浮かべ、サクラに向けて小さく手を振った。ぱっと顔を明るくさせたサクラが、リイの前で足を止める。リイはその表情を眺めながら、ふと何かを思い出したかのように目を瞬かせると、すっと佇まいを直してサクラに表面から向き直った。

「ああ、そういえば入院中、お見舞いに来て下さったそうですね。すみません、御礼を言うのが遅くなってしまいました。―――水仙の花、とても嬉しかったです。ありがとうございました」

リイが軽く頭を下げれば、サクラは首を振りながら「いえ、こちらこそ、試験の時は助けていただいて、本当にありがとうございました」と笑う。

「…リイさんは、リハビリですか?その…、木ノ葉崩しの時に、手足を怪我したって聞いて…」

サクラはリイの手足にチラリと目を向け、僅かに俯いた。
稀代の美少女である事に加え、下忍の中でもトップクラスの実力を持つくのいちであるリイは、木ノ葉の忍の間では良くも悪くも有名だ。そのリイが、忍生命を絶たれるほどの大怪我を負ったとなれば、当然噂も広まる。勿論それはサクラ達も例外ではなく、同期の忍の中でリイの怪我の事を知らない者は、誰一人として居なかった。

「ええ…、まったく、暗部として足止めを任されておきながら、不甲斐ない話です。あの後、サクラさんやナルト君達とも戦闘になったと聞いています。私の力が及ばぬばかりに…ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」

「そんな!…私だって、砂の我愛羅相手に、手も足も出なくて…。サスケ君を、助けたくて、でも…何も、出来なかった。結局、また、ナルトに助けてもらったんです、私」

自嘲気味な笑みを浮かべたサクラが、ぎゅっと拳を握りしめる。
眉間に皺を寄せ、翡翠色の瞳を歪ませたサクラは、絞り出すような声で「―――悔しい」と呟いた。

「強くなるって、大切な人たちを、今度は私が守るって、決めたはずなのに」

結局はまた、彼らの背に守られてしまった。
そして、今なお、傷ついたサスケを、どんどん強くなっていくナルトを、ただ見ている事しかできない、そんな自分が嫌で嫌でたまらない。
サクラは軽く唇を噛むと、リイに向き直って震える拳を解いた。
そっと胸に手を当て、静かに唇を開く。

「リイさんは、真っ直ぐで、強くて、綺麗で―――。…同じ女として、くのいちとして、あの凛とした背中に憧れて、私―――リイさんみたいに、強くなろうって、そう思って、だけど」

イタチに返り討ちにされて眠っているサスケの傍らで、何もできず、ただ己の無力だけを噛みしめた。
好きな人が、大切な仲間が傷つき、苦しんでいるというのに、自分は何もしてやれない。ナルトが綱手を連れて帰って来なければ、サスケの目が覚めるかどうかすら不確かなままだったのだ。

―――綱手から、じきに目が覚めるという言葉を聞いて心の底から安堵した反面、サクラはとても複雑な心境だった。

だからこそ、見かけたリイに声を掛けずにはいられなかった。サクラが強くなるための決心をした、その切っ掛けを作ったリイに。

「私、ナルトに助けられてばっかりで」

俯いたサクラの肩に、リイはそっと手を置く。
リイには、サクラの気持ちが痛い程に理解できた。彼女もまた同じ木ノ葉の忍で、恋をする女の一人なのだ。

好きな人の―――大切な仲間の力になりたい。

その気持ちが向けられる相手こそ違えど、二人が持つ想いは同じだ。だからサクラのその言葉は、リイにとってかつてのリイ自身を髣髴とさせるものとなる。
あの背中に恋をしたその日から、リイはガイの隣に立つために死に物狂いの努力をしてきた。だが、それができたのはリイの精神が既に大人のものであったことと、彼らの為に自分が出来る事を考える為の予備知識があったからだ。
見かけこそ細く、華奢ではあるものの、その外見からは想像もつかない程鍛え抜かれたリイの肉体と違い、掴んだサクラの肩はまだ子供らしい柔らかさを残しており、脆い。
忍としての教育を受け、戦っているといっても、彼女はまだ十三の子供なのだ。
まだ、自分に何が出来るのか、その身体に眠る才能の一端にすらも気付けていない、未熟な忍。
だというのに、道を示すべき師はサスケとナルトに掛かりきりで、サクラに進むべき道を、取るべき手を示唆してやることすら出来ていない。
逸る気持ちだけが、行き場を無くして宙ぶらりんのまま、その心を揺らし続ける。

「嫌なんです。何もできないのが嫌で、だから私は、私が―――この手で、サスケ君を、ナルトを、助けたいのに」

「分かりますよ、その気持ち。―――痛いほどに」

そう言って、リイはサクラの短い髪を撫でる。彼女が覚悟の証としてその髪を切る所は、リイも見ていた。
―――苦しいのだろう。大切な人々の為に、何かをしたい。それなのに、見ている事しか出来ない現状が、歯がゆくてたまらないのだろう。
動かない手足を忌々しく思うリイと同じように。

「…ごめんなさい。リイさんも大変なのに、突然、こんな愚痴みたいな事…」

だが、この気持ちを言葉にせずにはいられなかったのだと、サクラは呟く。

「誰かに…、いえ、他でもないリイさんに、聞いてほしかったんです。私、どうしたらいいか分からなくて」

『―――あなたは強く、美しい忍になりますよ。必ずね』

そのリイの言葉は、今でもサクラの胸の中で、サクラの支えとなっている。
―――リイならば。強く、美しく、常に前に進み続けるリイならば、この現状を打破するための方法を、知っているのではないかと思ったのだ。

「強く、なりたいんです」

リイは、サクラの言葉に少しだけ動きを止め、そして微笑んだ。
まるで微笑ましいものを見たかのような―――成長する子供を眺めるかのような、慈愛を込めた微笑みを浮かべて、俯くサクラの顔を覗き込む。

リイだって人間だ。
思い、悩み、迷い、そして己を慕って縋る人間を見て、無情に切り捨てる程冷酷ではない。

―――力になりたい。

自分と同じ想いを抱き、もがくサクラのその姿を見て、リイはただ純粋にそう思った。

「なんだか今のあなたを見ていたら、昔の自分を思い出してしまいました」

瞼に焼き付いた、あの背中を追いかける為に、ただ強くなろうと我武者羅にもがいていたあの頃を。

「いいでしょう。春野サクラさん、私はあなたの師となる事はできませんが、木ノ葉に生きる忍として、先輩として―――あなたが今後進むべき道を照らす篝火となることを、約束します」

リイはサクラの手を握り、胸元まで持ち上げた。目を瞬かせたサクラにウインクを一つして、両手でその手を包み込む。

「あなたに、覚悟があるのなら」

サクラは僅かに目を見開き―――そしてすぐに、その瞳に光を宿らせた。
綺麗な翡翠色の瞳が、決意を込めた笑みに縁どられる。包み込んだ手がリイの手を力強く握り返し、サクラは顔を上げた。

凛と咲く花のような―――そんな表情(かお)で。


「―――はい!」


頷いたサクラに、リイの口角が上がった。




*




人には得手、不得手というものがある。
そもそも忍術を使う事のできないリイはバリバリの肉弾戦タイプであり、今後緻密なチャクラコントロールを武器とした医療忍者として成長していくのであろうサクラに、忍として教えられることなど実は殆どない。
ならば何を持って、彼女の手助けをするというのか。

「サクラさんはチャクラコントロールが得意だそうですね」

「え…あ、はい。あ、でも性質変化系の忍術とか、そういうのは全然使えなくて」

サクラは眉尻を下げるが、リイは構わず言葉を続けた。

「アカデミーでの成績もトップクラスだったと聞いています。勉学も苦手ではないのでしょう?」

「暗記とか、そういうの、得意なんです。でも、知識だけあったって、実戦では殆ど役に立たない事ばかりですけど…」

リイは顎に手を当てると、サクラの爪先から頭のてっぺんまでに視線を滑らせた。
自他ともに認める体術のスペシャリストであるリイは、幼い頃から効率よく身体を使うために筋肉や運動の研究に余念がない。特に筋肉の働きについては、そんじょそこらの医療忍者よりも詳しい自信がある。それ故にリイは他人の観察眼にも長けており、相手の身体つきを見ればその人間の運動能力―――そして伸びしろのおおよその見当をつけることが出来るようになっていた。
見た所―――サクラはテンテンと同じか、それよりも下といったところか。
訓練をすればある程度は伸びるが、リイやガイのような体術使いには到底及ばない。テンテンはその欠点を補うために武器口寄せをメインとした戦闘スタイルをとっている訳だが、サクラの場合はそうもいかないだろう。
だが、それはあくまで『体術』をメインとした場合の話だ。彼女には他にない強み―――即ち、特出したチャクラコントロールの才能がある。
それに加えて、サクラは勤勉であり、頭も悪くない。

「あなたは恐らく、繊細なチャクラコントロールと、膨大な人体への知識を要求される医療忍者に向いています」

「えっ…、医療忍者、ですか?私が?」

ええ、とリイは頷いた。
サクラは自分が医療忍者に向いているなどと考えた事もなかったのか、驚いたように瞬きを繰り返す。

「でも私、サスケ君やナルトみたいに、強く…彼らを守って戦えるようになりたいんです」

リイはサクラの言葉に緩く首を振った。

「性質変化系の忍術は大量のチャクラを必要とする技が多い。ですが、あなたの場合は総チャクラ量もそう多くはない。そうですね?」

螺旋丸や千鳥といった技は、ナルトやサスケといった莫大なチャクラを持つ忍が使って初めて術として発動する技だ。サクラが彼らと肩を並べて戦うために、ああいった技を覚えたいという気持ちは分かるが、彼女はそういう忍術には向いていない。
その代わりに、とリイは目を細めて自分の掌を見つめる。

「ご存知の通り、私はチャクラを殆ど使えません。残念ながら、あなたに医療忍術を教える事はできませんが…、チャクラの効率的な使い方なら教える事ができる」

リイはぐっと握りしめた手を降ろすと、サクラに向き直った。

「覚えていますか、予選の時に私が使った技―――瞬閧を」

そう言われて、サクラは中忍試験の三次予選を思い返す。
八門遁甲を開いたリイと我愛羅が繰り広げた激しい戦闘―――、会場が壊滅する程凄まじかったあの戦いの一部始終を、その場に居たサクラは見ていた。
まさか、あれを覚えろとでもいうつもりなのだろうか。身構えたサクラに、リイは不敵な表情を浮かべた。

「瞬閧―――あれは八門遁甲の門を開いた状態で無理矢理に引き出した私のチャクラを圧縮させ、それを拳から対象に叩き込む事で爆発的な攻撃力を生み出す為の技です。あの状態の私の前では、岩など紙切れ同然…。流石にそこまでとは言いませんが、あなたの場合そのチャクラコントロールを使えば、通常時の私と同程度…」

言葉を切ったリイは、左手の指をすっと一本立てる。

「たとえばこのように」

一歩後ろに下がり、横を向いたリイは、次の瞬間勢いよくその腕を地面に向けて振り下ろした。

刹那、響き渡った轟音。

地面を真っ二つにするように入った罅に、サクラの目が点になる。
そのまま何事もなかったかのようにすっと上体を起こし、飛び跳ねた土と砂を払い落としながら、リイは涼しい顔で「指一本で地面を割れるようにもなります」とのたまった。

サクラは裂けた地面とリイの指を交互に見比べて、やがて僅かに口元を引き攣らせる。

「そ…それはいくらなんでも無理じゃあ…」

「あなたならできます」

断言したリイは、絶句したサクラの方を向くと、にっこりとした笑みを浮かべた。
視線の先にある木を指さして、「さあ」とサクラに詰め寄り、その肩を叩く。


「まずは初歩の初歩からしましょう。いきなり指先は難しいでしょうから、拳にチャクラを集めて―――あれを折りなさい」


「チャクラの有り無しという違いこそあれど、私もした修行法です」と有無を言わさぬ笑みのまま、リイはサクラの身体を反転させ、その背を押す。

「こんなの無理…」

「無理かどうかは、限界までやってから言いなさい」

リイはサクラの弱音をぴしゃりと跳ね除けて、腕を組んだ。
後にも引けず、引き攣った顔で木を見据えたサクラは、仕方なく拳を結ぶ。
いくらチャクラコントロールをした上でする事とはいえ、普通生身の拳で固い木など殴れば拳の方がイカれる。リイやガイのような体術使いの忍のように、肉体を重点的に鍛えていなければ尚更だ。
そんなサクラの不安を見透かすかのように、リイはふっと顔から力を抜いて、サクラを安心させるように微笑んだ。

「―――大丈夫。自分を信じて」

握った拳にそっと触れて、リイは「あなたならできる」と先程と同じ言葉を繰り返す。
サクラは優秀な医療忍者になる。やがては綱手すらも凌駕する、チャクラコントロールのエキスパートとなるだろう。それを知っているからこそ、リイはこの修行をサクラに課すのだ。
この修行によって身に付くはずのチャクラコントロールが、彼女が今後強くなるための手助けになると、そう信じて。

「知らないのなら教えてあげましょうか。―――恋をしている女の子は、とても強いんですよ」

リイはくすくすと笑いを漏らすと、悪戯っぽく微笑みながら、サクラの拳をほどき、その手を強く握った。
まるで、握手をするかのように。




「一緒に頑張りましょう。―――命短し、恋せよ乙女、ってね」




繋がれた手が、陽の光の中で微かに揺れた。







「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -