35

(―――強く)

遥か下に居る人影が豆粒大に見える程の高度にある断崖絶壁の、申し訳程度に突き出た岩の上。
片腕片足が使えないまま、崖上りの業を終えたリイは、その絶壁の今にも崩れ落ちてしまいそうな場所に片足だけで危なげなくバランスを取りながら、時に吹く突風にも体を揺らす事なく目を瞑り、静かに佇んでいた。

(―――もっと強く)

太陽の光が雲で僅かに翳る。研ぎ澄ませた感覚の中で何かが動く。
頬を撫でる風、その音の中に僅かに混じった鋭い鳴き声を拾い上げたリイは、ゆっくりと目を開いた。

来る。

荒々しい羽音。握りしめた左手の指の間に三本の苦無を挟み、リイは腕を右の肩の後ろへと回す。
陽光を背に黒い影を落とすそれは、鋭い嘴と爪を剥き出しにしながら、猛スピードで一直線に刃を構えるリイへと向かって降下して来た。
―――この峡谷の主。通常の鷲の何倍もの体躯を持ち、大きさだけで軽くリイの三倍はあるそれを相手に、リイは軽く唇を引き結ぶと、左足で岩を蹴り上げて宙を舞った。
同時に、弾丸のような速度で苦無が放たれる。

(私は、私達は―――もっと強く)

鷲は難なくその三本の軌跡を避けると、リイを軽く覆い隠せてしまう程の大きな翼を一つ羽搏かせて強い突風を生み出した。いや、突風などと言う生易しいものではない。これは衝撃だ。
足場のない空中でそれを正面から受けたリイは、左腕を前に突き出して身体への直撃を避け、岩場へぶつかる寸前に体制を変えると、右足に負担を掛けないよう注意しながら壁面に着地した。
この程度のチャクラ吸着ならば片足でも難なく行える。だが、両足が自由に動く状態であればこの程度の空中戦などものの数秒もかからずに制してしまえるリイにとって、今の状況は屈辱以外の何物でもなかった。
月歩―――いや、せめて剃が使えれば。
リイは一本の苦無を指に引っ掛け、ホルスターから引き抜くと、それをくるくると指で回し、刃が小指側に来るように持ち直しながら柄をぐっと握り込む。
足に力を入れれば、足裏が岩肌に音を立てながらめり込み、削れた砂粒がパラパラと飛び散った。
鷲が頭上を旋回し、もう一度勢いを付けながら突っ込んで来ようと風切羽を翻す。
ガラスを引っ掻いたかのような鳴き声が鼓膜を打ち付け、目を細めたリイは力一杯壁面を蹴って空へと飛び出した。

二つの影が正面からぶつかる。

振り上げられる苦無。チッと音を立てながら腕をかすった嘴がリイの肌に朱線を走らせる。
しかしリイはその痛みに怯む事もなく、握りこんだ苦無を鷲の背へ叩き込んだ。
悲鳴と、一拍遅れて流れ出る血。ぐり、と刃を押し込むように突き立てながら、リイは暴れる鷲の背へ素早く飛び乗ると、その首に手刀を落とすかの如く指を揃えた左手を振り上げた。

その、一瞬。

ぴくり、と眉を動かしたリイは、左手を振り下ろす事もなく、そのまま鷲の背を蹴って再び宙へと躍り出た。
次の瞬間鈍い音が響き渡り、暴れていた鷲が硬直したかのように動きを止める。
その様を横目に、空中で体を何度か回転させながら崖の上へと着地したリイは、すっと立ち上がると、振り返りざま左手を頭上に翳しながら眩しそうに空を見上げた。


「―――お見事」


顎下と胸に、黒く穿たれた穴。
急所を撃ち抜かれ、絶命した鷲がその大きな体を重力に従わせながら落下してくる。

ドサッと重い音が響くと同時に、軽い足音を立てながら着地したその人物に向かって、リイは満足げな表情で笑いかけた。


「この短期間で鉄塊だけでなく、剃と指銃まで習得してしまうなんて。流石は私のライバル、天才と呼ばれるだけの事はありますね―――ネジ」

「…フン、このくらい、出来て当然だ」


羽を投げ出して血溜まりの中に倒れ伏す鷲を一瞥し、澄ました顔で腕を組むネジに、リイは苦笑しながらそっと自分の右腕を抑える。

「羨ましいですよ、本当に。それに比べて私は、たかが手足が使えないくらいで、この程度の獣に手こずるなんて…」

「…何だ、お前がネガティブな事を言うのは珍しいな。この程度、とは言っても、任務のランクはCだぞ。下忍向けの討伐任務として見るなら十分な難易度の筈だが」

訝し気な表情を浮かべるネジが、遠くで待機していたテンテンに手を上げて手招きをする。
預けていたリイの松葉杖を持って駆け寄って来るテンテンの姿を眺めながら、リイは小さく肩を落とした。ゆるく首を振ると近くに転がっていた手頃な岩にそっと腰かける。

火の国の国境に近いこの場所で、人を食う鷲が出るという噂が出たのは、つい最近の話だったか。
木ノ葉崩しの一件以来、改めて同盟を組みなおした木ノ葉の里と砂の里は、再び同じような過ちを犯す事のないよう、以前にも増して両国の結びつきを強めようという動きがある。
そのうちの一つとして、長きに渡って続いた戦争、そして地理と地形の関係上、これまで容易に行き来する事の敵わなかった二国の流通をより容易なものとする為に新しく街道を整備する事になった訳だが、これがなかなか難しく、警備や通行時の安全の確保の面でさまざまな問題が浮上していた。
火の国と風の国を結ぶ道は一つではない。二国の間には多くの小国、隠れ里があり、どの国を経由してくるかはその時々の情勢にもよる。少し前までは川の国を通して木ノ葉に入るのが最も安全なルートであるとされていたが、ここの所どうにも雨隠れの里がきな臭い。その為、なるべくそちらを避けた道はないものかという火・風両国の指示を受けて、川の国と隣接しない位置にある国境沿いから火の国に入る為の道を作る事になったのだ。
今リイ達が居るこの場所は、川の国を南下した崖沿いに細く続く道で、戦争以前は人の往来があった面影を残しているが、長らく放置された事により険しい道がさらに険しくなってしまっている。
それに加えてこの人食い鷲騒ぎ。突然変異か口寄せ動物が野生化したのか知らないが、いつの間にかこの崖に住み着いていた巨大な鷲が偶々道の調査に来た人間を襲い、手に負えないと判断した人々から木ノ葉に討伐の依頼が来たという訳だ。
たかが鷲、されど鷲。
大きな図体の割に動きが素早く、獰猛で、且つそこそこ知恵が回る。
巨大なだけ筋肉も発達しているのか、並大抵の弓では射落とす事もできなかった為、空を飛ぶ事は勿論崖登りも容易ではない人々にはこの獣をどうにかする事も出来ず、その鋭い爪と嘴の餌食になってしまった人間の数は決して少なくなかった。
とはいえ、訓練を受け、ある程度の力を持つ忍から見ればそんなに手強い敵ではない。担当上忍が不在とはいえ、そこそこの実力を持つ下忍であるネジとテンテンにその任務が言い渡されたのは昨日の話だ。
名目上、怪我の完治していないリイを除いたツーマンセルでの任務となっているが、この折角のチャンスを逃すリイではない。
容体も安定した為退院し、自宅療養を言い渡されていたリイは、ネジに鉄塊の修行をつけながら自身もリハビリと称した片手片足の状態での鍛練に勤しんでいた。基礎的な動きにはある程度の目途が付き、そろそろ難易度を上げた修行をしなければと思っていた所に舞い込んできたこの任務は、リイにとってはとても好都合なものだった為、渋るネジとテンテンを説得して無理矢理ついて来たのだ。
崖上りの業は一見単純に見えて、とても難しい。片手片足を封じた状態で絶壁の崖を上るのは、文字通り命懸けの修行だ。こちらもリハビリの一環とはいえ、あのはたけカカシでさえ苦戦する業をチャクラなしでやりきったリイは、そのままの状態での己の力がどこまで通用するものなのかを測る為、あえて空中で鷲と戦う事を選び、挑んだのである。
その結果が、これだ。

「せめて月歩が使えたら、と思わずにはいられませんよ」

その脚力を以てして空気を足場にする事ができるリイにとって、空中は自らの武器である素早さを遺憾なく発揮することができる場だった。あの程度の鷲など、蹴りの一撃で倒してしまえる自信がある。
それが、右足が使えなくなった途端この有様だ。蹴りは支える足と蹴る足の二本があって初めて成立するのだから、現時点でリイは得意の剃・月歩・嵐脚、そして足技の殆どを封じられた状態にある。
半減どころの話ではない。

「…情けない。己の不甲斐なさに反吐が出そうです」

“ロック・リイ”は強いからこそ美しい。
確かに鏡の中で微笑む少女は溜息が出そうになるほど整った顔立ちをしているが、ただそれだけでは何処にでもいる女とさほど変わりはない。リイにとって己の存在価値とは、その強さにこそ意味があるのだ。
“ロック・リイ”は誰よりも美しく、そして強く在らねばならない。
そうでなければ弱い自分に―――たかが手足が使えないくらいで獣一匹満足に仕留める事の出来ない“ロック・リイ”に、大切な人を守る事など―――未来を変える事などできるものか。

不満げに眉間に皺を寄せるリイに、鷲の死体を討伐の証として巻物に封じたテンテンが呆れたような顔をしながら溜息をついた。

「そりゃまあ、前と比べれば色々不自由はあるだろうけど、でもその体でそれだけ動けるなら十分じゃないの?木ノ葉崩しで里がしっちゃかめっちゃかになったとはいえ、砂との同盟のお蔭で今はとりあえず平和なんだし」

手渡された松葉杖を受け取りながら、リイは浮かない顔を俯かせる。

「…いいえ。いいえ。ダメです。私はもっと、強くならなくてはならない。これじゃダメなんです。今のままでは…」

時間がない。

呟いたリイは焦りを滲ませた顔で首を振り、髪をくしゃりと掻き上げる。その様子を見ながらネジとテンテンは顔を見合わせると、小さく肩を竦めた。
どことなく居心地の悪い雰囲気の中、テンテンはそんな空気を吹き飛ばそうと明るい話題を振る事にした。

「あ、そういえば任務に出る前、噂で聞いたんだけどね、近々あの三忍の綱手様が木ノ葉の里に帰って来るらしいのよ!し・か・も、ここだけの話、次の火影はその綱手様って話よ…!」

「オレもその話は聞いた。何でもあのナルトと自来也様が帰還の為に尽力したらしいな」

腕を組んで頷くネジに、テンテンは満面の笑みを浮かべる。
木ノ葉の里のくのいちとして、幼い頃から伝説の名を持つ綱手に傾倒するテンテンにとって、その知らせは何よりも嬉しい知らせだった。
それに、綱手は医療忍者の頂点に立つ人物といっても過言ではない。医師たちが口をそろえて「綱手様程の腕がなければどうしようもない」と言ったリイの怪我だって、治せるかもしれないのだ。これを喜ばずにいられようか。

「その就任式に合わせて、里外に任務に出てる忍も殆どは帰って来るって話だったから、そろそろガイ先生にも会えるかもしれないわ。良かったわねリイ」

にっこりと笑うテンテンに、リイは曖昧な笑みを浮かべる。

「そうですか、綱手様が…」

俯きながら小さく零れた呟きに、テンテンは首を傾げて不思議そうな顔をした。

「…?リイは、嬉しくないの?綱手様はすごい医療忍者だから、その怪我も治してもらえるかもしれないし、あんたの大好きなガイ先生にも会えるのよ?」

「…ええ。一時はどうなる事かと思いましたが、無事に五代目が決まったのなら、木ノ葉の里も安泰ですね」

「や、それもそうだけど、そうじゃなくて…」

うーんと困った顔をするテンテンを横目に、松葉杖を腕の間に挟み込みながら立ち上がったリイは、その肩を軽く叩いてから歩き出した。
綱手が里に帰って来る。それはリイにとって、物語が再び動き出すという意味を持っていた。
この手足を治し、そして。

ふと足を止め、地面を見つめる。よく見れば、そこら中に鷲が食い散らかした動物の骨や残骸が転がっていた。
胴を寸断され、干からびた蛇の死骸を勢いよく踏みつけたリイは、そっと空を見上げる。灰色の影を落とす雲がゆっくりと流れていく様を見つめながら、リイは杖を握る手に力を込めた。



「―――もっと強く。リー、あなた(わたし)の願いをかなえる為に」



全てを飲み込もうとする蛇も、その蛇を食らう鷲も越えて、その先へ。

気高く強い―――木ノ葉の美しき碧い野獣の名に恥じぬ己で在る為に。


リイは、その一歩を踏み出した。




*




伝説の三忍の一人であり、医療忍術のスペシャリストでもある綱手帰還の知らせを聞いたガイは、任務報告もそこそこに綱手の元へと駆けつけた。
重なるように連日続いた過酷な任務の疲れから、ガイ自身顔色の悪い病人のような有様だったが、そんな事に構ってはいられない。
可愛い教え子の、完治は難しいと診断された手足を治す為の最後の希望。それが目の前に現れたとなれば、縋らずにはいられなかった。

「綱手様、どうか我が弟子リイの怪我を見てやって下さい…!医師からは完治は難しいと診断されましたが、綱手様程の腕があればまだ希望はあると…」

「ガイか。…ああ、ナルトから話は聞いている。砂の人柱力と戦って手足を潰されたそうだな。他にもうちはのガキとカカシの小僧も診るように頼まれているから、順番にはなるが、それでもいいか?」

頷く綱手に、ガイは表情を明るくさせて勢いよく頭を下げた。
五代目火影を継ぐ為の就任式を控える綱手が時間を取る事は中々難しい。だが綱手は、前提に己の信頼するナルトの口添えがある事も大きかったが、ガイの必死の頼みを了承した。

「はい!…はい!どうか、よろしくお願いします…!」

「と。そうと決まればそのリイという奴をさっさと病院に連れてこい。あいつらの診察は午後からだ。最後にはなるが、なるべく早い方がいいんだろう?」

綱手の言葉に大きく頷いたガイは、礼を言うと同時に飛び出すようにして部屋を出ていった。
その後姿を見送りながら、綱手はどこか微笑ましいものを見たような気持ちで小さく嘆息する。長く里を離れていた為、すっかり様変わりした里の様子にはまだ馴染めない部分があったが、子供の時から変わらない、一度決めると脇目も振らず突っ走っていくガイの姿に、少々ほっとしたのだ。

―――しかしあの若造共が、教え子を持つような時代になったのか。

綱手の現役時代―――前大戦の折、天才と持て囃されるも綱手から見ればまだ生意気なクソガキだとしか思っていなかったカカシが、今はナルトの師であると聞いた時、綱手は大層驚いたものだ。
身体の衰えを感じないよう、術で若さを保つ綱手にとって、月日が経つ感覚と言うのは他の人間に比べてとても遅い。

「…変わっていくな、何もかも」

血を見ても震える事の無くなった両手。五代目火影の肩書き。
うずまきナルトという少年との出会いが、これまでの綱手の全てを覆した。

『そのリイって奴ってば、ものすっげー美少女で、でもガイ先生の事が大好きっていう変わった奴なんだってばよ!見た目からは想像できねー程強ェし、うん、ちょっと綱手のバアちゃんに似てるかもしれねーってば。あ、でも我愛羅と戦った時に大怪我したらしくて、ネジの奴もガイ先生もすげえ心配してたんだ…。…なあバアちゃん、帰ったらカカシ先生とサスケの奴もだけど、アイツの事も診てやって欲しいってばよ』

「…あのナルトに変わっていると言わせるだなんて、一体どんな曲者なんだろうねえ…」

面白がるように目を細めた綱手は、背に賭の字を刻んだ半纏を翻すと、ガイの出ていった扉へと向かって歩き出す。
やるべき事、やらなければいけない事は山積みだ。縄樹とダンの死以降、止まっていた綱手の時計は再び時を刻みはじめた。
立ち止まっている時間などない。


「さて、気合を入れて、いっちょやるか」


―――彼女の物語もまた、動き出したのだから。





*





「リイよ、喜べ!あの綱手様が、お前の怪我を診て下さるそうだ!!」

よほど急いで走ってきたのだろうか、珍しく息を切らせながら演習場に飛び込んできたガイの姿に、リイは驚きながらネジとの修行の手を止めた。
近々帰って来る、とは聞いていたが、まさかこんなに急に帰って来るとは思っていなかった。
予期せぬ師の帰還に数秒ポカンとした表情を浮かべたリイは、慌てて頭を振ると困惑した表情のまま素っ頓狂な声を上げる。

「…えっ、あ、ガ、ガイ先生!?いつ帰っていらっしゃったんですか!?」

「ついさっきな!…と、こんな事をしている場合ではない!さあ行くぞ!!」

キラン、と歯を光らせたガイが、有無を言わさずさっとリイの身体を持ち上げた。
膝の裏と背中に回るがっしりとした腕。持ち上げられると同時に近づいたガイの顔に、リイの動きが思わず止まる。

(…こっ、ここっ、こっ、これはっ、いわゆるお姫様抱っこー!?)

唐突なガイの行動にすぐさま反応できず、硬直していたリイだったが、ややあって今の自分の状態を理解し、瞬時に耳まで真っ赤に染めあげる。
慌てて口元を覆いながらあわあわと足をばたつかせるが、その程度の抵抗ではガイの腕はびくともしない。

「ああああああのせっ、先生!?」

リイは背に感じるガイの体温に動揺を隠せず、うろうろと視線を彷徨わせた。
―――久々に会っていきなりお姫様抱っこだなんて!
あまりにも恋する乙女の心臓に悪すぎる行為を平然とやってのけるガイに、リイは今にも叫び出したい気持ちになった。

「ネジよ、リイは病院に連れていくぞ。テンテンにも伝えておいてくれ」

「あ、ああ分かった。いやでもちょっと待て、その前に、リイお前大丈夫か?涙目になってるぞ」

踵を返そうとしたガイを止めたネジが、ガイの腕の中でぷるぷると震えているリイを心配して声を掛ける。何故リイがそんな事になっているのかネジには大まかな検討が付いたが、それにしたってこの様子は尋常じゃない。つついたら爆発しそうだ。

色々な意味で限界を迎えかけているリイを「何ぃ!?リイよ、怪我が痛むのか!?よし、すぐに綱手様に診てもらおう!!」と見当違いな方向に勘違いしたガイは、リイを抱える腕に力を込めると来た道を急いで引き返し始める。


このままでは綱手に診てもらう前に死んでしまいそうだ。ときめきで。


ガイの腕にしっかりと抱きしめられながら、ときめきがキャパシティオーバーしたリイは、ガイの凛々しい顔(※リイビジョン)を見つめながら、そのまま意識をフッと彼方へ飛ばした。





*





リイの意識がやっと現実に戻ってきた時、目の前にはそれはそれは見事な巨乳がででんと置かれていた。うわでっけえ、と不躾な感想を持ってしまった事は許してほしい。もしガイが巨乳好きだったらリイに勝ち目はない、そう思わせる程にインパクトのある実に大きな胸だ。そしてこんな豊満な胸の持ち主は、リイの記憶にある限り一人しか居ない。

「あんたがロック・リイだね。知ってるかもしれないが、私は綱手、次の火影だ」

どうやらリイがガイへのときめきで意識を飛ばしている間に診察の順番が回ってきたらしい。我に返ってまじまじと綱手の顔を見つめたリイは、思わず吐きそうになった溜息を寸前で飲み込んだ。目の前で色っぽい笑みを浮かべる美女は、どこからどう見たって五十代には見えない。
忍術とは便利且つ神秘的、そして反則そのものだ。既に諦めはついているものの、こうして見せつけられると己の忍術を使う事が出来ないという事実が憎らしくなってくる。
リイに出来るのは、せめてガイの好みがこういう年齢不詳の巨乳美女ではありませんように、と願う事くらいだ。ここにネジかテンテンが居てリイの心情を聞いたならば「そこかよ」とツッコミを入れただろうが、生憎この場に二人は居なかった。
だが、よく考えなくても綱手の方がガイを相手にする可能性は限りなくゼロに近い。余計な心配は無用だろうと、頭を占めていた考えを振り払うようにふるふると首を振ったリイは、「ロック・リイです。よろしくお願い致します」と小さく頭を下げた。

「ああ。じゃあ、さっそく診察を始めるとしよう」

リイの顔を正面から覗き込み、頷いた綱手は、リイの後ろで待機しているガイへと視線を移すと、「外で待ってな」とドアを指す。
綱手の言葉に一瞬きょとん、とした表情になったガイに、綱手は気が利かないね、と眉を顰めると「触診するから服を脱ぐんだ。さあ出た出た」とガイを追い払う仕草をした。

「あの綱手様、私は別に気にしませんが」

「私が気にする。女があまり簡単に肌を見せるような真似をするんじゃないよ」

胸部全開のあなたに言われてもあまり説得力無いんですけど、とリイは思ったが、口には出さなかった。
ガイが診察室から出ていったのを確認して、綱手はリイが着ていたやや袖のゆったりした袍を脱がせる。触診の邪魔になるので下着を取るように指示し、白い上半身をさらけ出したリイの腕にそっと触れた綱手は、ものの数秒もしないうちに眉間に深い皺を刻んだ。
腕や指の曲げ伸ばしを要求され、言われるがままに手足を動かせば、綱手の表情はどんどん厳しいものになっていく。

「やはり右手足のダメージが特に深いな。骨折自体は何とか直してあるみたいだが、神経の損傷までは治せなかったか」

「リハビリは欠かさずしているのですが、以前のように動かす事は難しいと、医師にも言われました」

「…ちょっとじっとしていろ」

綱手に腕を抑えられ、リイはそのままの体制で動きを止める。次の瞬間、綱手が手を当てている箇所からなんともいえない感触が広がり、リイは僅かに肩を震わせた。どうやら綱手は、チャクラを通してリイの怪我の深部を診ているらしい。目を閉じたまま難しい顔で指を滑らせていく綱手に、リイはくすぐったいですとも言えずむっつりと黙り込む。

「…やはりな。これは…」

腕を解放され、「もういい、服を着ろ」と声を掛けられたリイは、くすぐったかった箇所を摩りつつ、綱手の様子を伺いながら黙々と下着を付けなおし、袍のボタンを掛けた。
リイの衣服が整った所で、診断結果を下す為に外で待機していたガイが再び診察室の中に通される。落ち着かない様子でそわそわしながら診察室に入ったガイは、診察を終えた綱手に早速「綱手様、どうなんです?」と詰め寄った。

ガイの問いにしばらく押し黙ったままだった綱手は、何かを堪えるように奥歯を噛みしめると、やがて意を決したように口を開く。



「―――悪いことは言わない。もう、忍はやめたほうがいい」



綱手の静かな言葉が、ガイの動きを止めた。
リイは微動だにせず、そんな綱手の宣告をただ受け止める。室内に沈黙が満ちる中、我に返ったガイは咄嗟に苦し紛れの笑みを浮かべながら綱手を振り返った。

「つ、綱手様、そんな冗談は…」

「重要な神経系の周辺に多数の骨破片が深く潜り込んでる。この子が今まで手足を引き摺る程度で済んでいるという事の方が私には驚きだ。普通ならとてもじゃないが、忍としての任務をこなしていけるような状態じゃない。例え手術をしたとしても…」

ガイは、綱手がすべてを言い切る前に、大声を上げてその言葉を遮った。

「リイ!聞くな、こいつはきっと綱手様の偽物だ!ええい変化の術で化けたんだな!この性悪め、お前は一体何者だぁあ!!」

医療忍術のスペシャリストである綱手が治せないというのなら、リイの怪我を治せる人物などこの世には居ない。―――そんな残酷な現実が、あってたまるものか。ガイは背を向けたままのリイを見て表情を歪ませた。
気持ちは痛い程分かるが、それにしたって突拍子もない事を言い出すガイを呆れたような顔で振り返った綱手に、室内には再び重苦しい沈黙が落ちる。

「可能性は」

ふと、今までずっと黙り込んでいたリイが口を開いた。
綱手とガイはハッと顔を上げ、リイの背中へと視線を向ける。

「可能性は、無いのですか」

―――たった今、残酷な宣告を下されたにも関わらず、焦りも恐れも感じられない、静かで落ち着いた声だった。
椅子を回して二人を振り返ったリイは、真正面から綱手の瞳をじっと見つめる。湖面のような静けさを湛えた瞳。全てを受け入れたかのような、けれど諦めの色を見つけられないその眼差しに、綱手は面食らった顔をした。
予想していなかった反応だ。僅かに目を細めた綱手は、視線を落としながら小さく呟く。

「私以外には無理な手術の上、時間がかかり過ぎる。…それに、大きなリスクを伴う」

「…リスク…?」

首を傾げたガイを一瞥して、綱手は唇を引き結んだ。この事実は、彼らにはあまりにも辛い現実かもしれない。
だが、医師として、言わない訳にはいかなかった。曖昧に誤魔化して希望を持たせたところで、それは問題の先延ばしにしかならない。どうせいずれは分かる事なのだ。

「…手術が成功する確率は、良くて50パーセント」

言葉を切った綱手は、ぐっと拳を握りしめて、リイの目をまっすぐ見つめ返す。



…失敗すれば死ぬ!!もし成功したとしても、長いリハビリ生活になるだろう…」



―――リイは、その言葉を聞いても尚、表情を崩す事は無かった。

目を見開き、言葉を失ったガイの姿をちらりと横目に見て、リイは再び綱手へと視線を戻す。
小さく睫毛を伏せて、リイは一つ深呼吸をした。

「綱手様」

意を決して―――なんて事はしない。
リイにとって、答えなど最初から決まっていた。今更悩むまでもない。
ごく自然に、まるでそれが当然の事だとでも言うように、リイは淡々と言葉を紡ぐ。


「私は手術を受けます」


息を飲んだ音を響かせたのは、綱手か、ガイか、それともその両方か。

「…分かっているのか?失敗すれば死ぬんだぞ?」

「ええ、分かっています。それでも私は、その手術に賭ける」

一点の曇りもない眼差しが綱手を見据える。綱手の言うリスクを理解していない訳ではない。死の可能性への恐れが無い訳ではないのだ。
だが、これはもう最初から決めていた事だった。



「戦う事のできないロック・リイ(わたし)が私として存在する事など、私が許しません。例えその結果が、死であったとしてもです」



言うや否や、リイは立てかけてあった松葉杖を掴み、立ち上がった。
立ちすくむ綱手に頭を下げ、硬直したままのガイの横を通り過ぎたリイは、そのまま診察室の扉を開けて部屋を出ていく。残された二人は、その背をただ黙って見送る事しかできない。


―――扉が閉じられた後には、重い沈黙だけが残った。







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