32

地面から飛び出した木が敵の忍の体を貫く。術の隙を狙い、テンゾウ目掛けて飛来したクナイを叩き落としたリイは、そのままの勢いで相対した忍の腹に強烈な回し蹴りを食らわせた。
リイの踵が胴に食い込み、吹っ飛んだ忍が壁にめり込む。その一部始終を見届ける事もないまま、リイは次のターゲットへと拳を叩き込んだ。
目にも止まらぬ速さで周囲の敵を撃破していくリイ。しかしその一方で、敵の数は一向に減らない。リイが幾人目かの体を殴り飛ばしたその横で、木ノ葉の忍が連携した音忍の攻撃によって喉笛を切り裂かれ、足元に倒れ込んだ。短く上がった悲鳴に背を向けて、リイは膝を落として足に力を溜める。

「背後に気を付けろ!!」

(―――言われなくても!)

次なる獲物を求めて斬りかかってきた二人の忍相手に、テンゾウからの鋭い注意が飛んだ。大きくジャンプして身を反転させながら攻撃を避けたリイは、落下の勢いを利用して二人の忍の頭上へと踵を落とす。

「虚刀流―――牡丹!」

回転を掛けた特殊な蹴りによって忍達を薙ぎ払ったリイは、素早く太腿に巻きつけたホルダーの中に指を突っ込み、引き出した手裏剣を振り返りもしないまま後ろに向かって投げた。
的に向かって正確に飛んだ手裏剣は、攻撃によって生まれたリイの隙を狙って飛び掛かろうとした忍の目に突き刺さり、怯んだところをすかさずリイの手刀が切り裂く。噴き出した返り血が仮面に跳ね、リイは不快そうに表情を歪めた。

まったく、息を吐く間もない。

と、その時、リイの背後で金属がぶつかり合う甲高い音が響いた。反射的にクナイを握り、飛び退いたリイの視線の先で、二人の忍が背中を合わせながら戦っている。

「くっ…ちくしょう、火影様が気になるが…」

「上は暗部に任せろ。それに…火影様はそうやすやすとやられる人じゃない…!」

(―――ガイ先生!ご無事で何よりです…!)

襲い来る忍を拳で沈め、頬に返り血をつけながら顔を顰めるガイに、リイは仮面の下でほっとしたように眉を下げる。
しかしそれも束の間の事で、リイはガイと背中を合わせて戦っている人物の顔を見た瞬間、その表情を一気に不機嫌なものへと変えた。ほぼ反射的に、リイは握りこんでいたクナイを目にも留まらぬ速さで放る。

「なんたってあの人は木ノ葉隠れの里の火影…ッ!?」

シュ、と音を立てながらカカシの頬を覆う布スレスレに飛んでいったクナイに、カカシは一瞬動きを止めた。クナイは少し離れた所から二人を狙っていた音忍の喉に突き刺さり、どさりと重い音が響く。

この喉を締め付けられるかのような息苦しい感覚。覚えのある背筋が凍るような殺気に、恐る恐る振り向いたカカシの視線の先には、面を着けた一際小柄な体躯の暗部が佇んでいた。
仮面に覆われている為顔は分からないが、そのシルエットが予選の際に己を睨んでいたガイの教え子のものと重なり、カカシは全てを悟る。


「おっとすみません。あちらの忍を狙ったのですが掠ってしまいましたか」


チッと一つ舌打ちをして、ほぼ棒読みでいけしゃあしゃあと言ってのけたリイの言葉に、カカシは頬を引き攣らせながら「い、いや大丈夫デス」と返事をした。
その背から漂うおどろおどろしいオーラに、『一か月も顔を合わせていない私を放置して何背中合わせに戦うなんて羨ましいポジションについてんだはたけカカシ殺す』というリイの怒りがひしひしと伝わってきて、カカシは思わず口元をひくひくとさせる。八つ当たりもいいところだ、とカカシは思ったが、口応えをしようものならリイは本気で牙を剥いてきそうだ。理不尽すぎる。

「そうですか、それはよかった。まあ仮にも上忍であるあなたが私程度のクナイを避けられない筈もありませんしね」

残念です、と小さく聞こえた言葉は聞こえなかった事にして、カカシは再び体制を直すと周囲の敵の動きを目で追った。一方背中を合わせていたガイは、声を聴いて目の前に佇む暗部がリイだと気付いたのか、目を丸くしながら「リイお前、この会場で任務についていたのか!」と驚きの声を上げる。

「ガ、ガイ先生…!仮面をしていても私と分かるだなんて、こ、これは愛のパワー…!?」

ガイに声を掛けられた瞬間、それまでの不機嫌な態度を一変させ、感極まったような嬌声を上げながら照れたように仮面の上から頬を抑えたリイに、カカシは思わずしょっぱい顔になった。この扱いの差。オレが一体何をした。

「暗部入りしたことは聞いていたが…、リイお前、大丈夫なのか!?」

まさかこんな局面で音・砂との全面的な戦争が始まるとは思っていなかったガイは、予想外の場面で登場したリイに驚きを隠せない様子だ。
しかし、リイにとって最早そんなこどはどうでもよかった。一月ぶりのガイとの会話に浮き足立つリイは、全身から喜びを迸らせながら周囲にハートマークを撒き散らす。

「もうガイ先生ったら、任務中の暗部の名前は呼んだらダメなんですよ?…い、いえ、もちろんガイ先生に名前を呼ばれるのは嬉しいんですけれど…!!でも、でも…っ、きゃー!」

照れながらもじもじとするリイ。が、その可愛らしい言葉とは裏腹に、リイは襲い掛かってきた音忍を強烈な裏拳で吹っ飛ばし、更にもう一人の首を掴んでキュッと絞めていた。そこには勿論容赦などありはしない。
ヤダこの子怖い…絶対逆らわないようにしよう。カカシはリイの姿を見ながら心に誓った。明日は我が身である。

「って茶番をやってる場合か!我愛羅が会場から逃げた。下忍が一人ついてるがあれじゃどうにもならない、早く追うぞ!!」

ガイ達の間に滑り込むようにして現れたテンゾウによって、力強くリイの肩が掴まれ、彼女を取り巻いていたピンク色の空気が一瞬にして霧散した。一月ぶりのガイとの逢瀬を邪魔され、リイは仮面の下で盛大に顔を歪めながら小さく舌打ちをする。もし今が任務中でなければ、テンゾウは今頃確実にリイの六式の餌食になっていた事だろう。恋する乙女の幸せを邪魔する事は何よりも罪深いのだ。
一方で、彼の着けている面に覚えのあるカカシは、唐突に表れたテンゾウに対して「テンゾウか!」と短く叫んだ。カカシの言葉に反応して振り向いたテンゾウは、別段驚いた様子もなく携えた刀に付着した血を払いながら「カカシ先輩、僕らは我愛羅を追う任務についています。あとは頼めますか」とカカシを見据える。

「ああ、任せろ。それと―――オレの部下が我愛羅の後を追ってる」

「サスケ君ですね。分かってます。ですが、僕らは自分の任務が優先になる」

彼を見つけてもその安全を優先させる事はできない、というテンゾウの言葉に、カカシは心得ているとでも言うように頷いた。腐っても元暗部。彼らの置かれている立場は身を以て知っている。

「ああ、分かっている。他の下忍を一小隊、後で向かわせる」

「ええ、そうして下さい」

テンゾウが頷き、踵を返す。その背を守るように、後を追おうとした会場内の忍へ向かってカカシが大量のクナイを放った。「いくよ」と声を掛けられ、リイも慌ててその後を追おうと続く。

「待て、リイ!」

ガイに呼び止められて、リイはほぼ反射的に振り返る。
そして、息を飲んだ。
―――これまで見たこともないような、不安と心配が混ざり合った表情。初めて見るその顔に思わず動きを止めたリイに歩み寄ったガイは、その細い両肩を掴みながら眉間に皺を寄せてリイを見下ろした。

「我愛羅を追うんだな」

「任務ですから…」

戸惑いながらも頷くリイに、ガイは先日病室でリイを殺そうとした時の我愛羅の姿を思い出していた。
禍々しい殺意を以てリイを殺そうとした我愛羅。あれは、本気で彼女を殺そうとしていた。あの場でガイが助けに入るのが一瞬でも遅かったら、ナルト達共々リイも殺されていただろう。
睨み合った我愛羅の目に浮かんでいた感情。殺意と執着心。二度に渡ってリイを殺そうとしたその執念に、ガイの胸に不安が過る。

「…すまない、リイ」

ガイの唐突な謝罪に、リイは首をかしげた。何故ガイが謝るのか。

「暗部入りの件、危険だという事は百も承知していたが、跳ね除ける事ができなかった。だが、まさかお前がこんな任務に就くとは…」

己の不甲斐なさを悔いるようにガイが目を伏せる。リイはようやく、ガイの言わんとしている事を理解した。

リイの暗部入りの件を最初に伝えられたのは、他でもないガイだった。
ガイはリイの師として、リイの長所と短所を誰よりも知り尽くしている。だからこそ初めは、火影に直訴してその話を断った。予選を敗退した後病院のベッドで眠り続けるリイにこれ以上の無理を強いる事はできないと、断固として首を縦に振らなかった。
しかし、ガイも木ノ葉の里の忍だ。里長である火影から再三に渡る要求と説得をされ続ければ、最終的にはリイの暗部入りを承知せざるを得なかったのだろう。

だがまさか、よりにもよってガイが一番リイとの接触を恐れている我愛羅と戦う任務に就く事になろうとは。

「リイ、気を付けろ。恐らく、今度こそあの子は本気でお前を殺そうとしてくるぞ」

リイは顎を反らしてガイを見上げる。
ガイの瞳に映る己の仮面を見つめながら、肩に置かれた手にそっと自分の指を重ねると「分かっています」と静かな声で呟いた。
今の我愛羅がリイに会えば、彼は必ずリイを殺そうとするだろう。しかし、今回は前回と違い、ガイがリイを助けてやる事はできない。
―――そんな事はもう承知の上だった。

そっと指を離し、一歩後ろに下がったリイの肩からガイの手が落ちる。

「心配、してくださってありがとうございます。でも、私は忍で、それに今は暗部ですから。危険は承知の上ですが…任務は、完遂しなければ」

踵を返したリイは、尚も不安そうな眼差しを己へと向けるガイから目を逸らした。
嫌な予感がするのはリイも同じだ。できれば、あんなバケモノとは戦いたくない。しかし木ノ葉の忍として生きていく事を決めた以上、リイは命令に従って戦わなければならなかった。逃げる事は、できない。

「…死ぬなよ、リイ!」

後ろから掛けられた声に振り返ったリイは、「ガイ先生も、ご無事で」と叫ぶと、振り切るようにそのまま勢いよく地面を蹴って会場の屋根の上へと飛び乗り、塀を乗り越えた。





*





「―――目標との距離は?」

「約一キロ…ってところか。動きが止まった。サスケ君が追い付いたようだな」

ここ数日我愛羅の監視をする間にテンゾウが取り付けた木遁による発信機のような術を利用し、二人は待ち伏せる敵を回避しながら、逃げた我愛羅を最短のルートを通って追いかけていた。

「一キロ…近いですね」

このままのスピードで走り続ければ、ぶつかるのはもうすぐだ。リイは動きの邪魔になる外套を脱ぎ、戦闘態勢に入る。
ぴくり、と眉を動かしたテンゾウが感知したチャクラに眉を顰めるのを横目に、脱いだ外套を投げ捨てたリイは「どうしました」と声を掛けた。どうもあまりよくない事が起こっていそうな顔だ。

「この感じ…恐らく覚醒しかかってるね。厄介だ」

リイは会場で感じた禍々しい気配を思い出して、眉間に皺を寄せる。嫌な予感程当たるというが、本当にそう来るとかなり忌々しい。覚醒した守鶴と戦うとなれば、厳しい戦いとなる事を覚悟しなければならなかった。何せ相手は、我愛羅本人よりも厄介なバケモノだ。

「―――っ見えた!」

テンゾウの声に、リイの目が離れた所で異形に変わりつつある我愛羅の姿を捉えた。半身をおぞましい姿へと変貌させ、完全なバケモノへと変わりつつある我愛羅に、リイの背筋を冷たい汗が伝う。

―――流石に、絵で見るのと実際にこの目で見るのとでは訳が違う。

なんだ、あれ。リイは口を引き攣らせながら、その異形の姿に純粋な恐れを抱いた。
口から涎を滴らせながら獣のように四つん這いになり、サスケへ飛び掛かろうとするその姿に、リイは目を細める。

化け物、とはよく言ったものだ。確かにあれは最早、人ではない。

「このままこんな所で尾獣化されたら木ノ葉の里への被害がどうなるか分からない。何が何でも止めるよ!!」

「…ハイ!」

半人半獣と化した我愛羅と正面から向かい合い、そのあまりの異質さに立ちすくむサスケの間に割って入るように、リイは思い切り木の幹を蹴り上げた。
同時にサスケに飛び掛かった我愛羅の頬に、弾丸の如きスピードで飛んだリイの拳が直撃する。目で追えない程一瞬の出来事だった。
構えを取っていなかった我愛羅の体が、その場に生えていた多くの木を巻き込み、薙ぎ倒しながら吹っ飛ぶ。

―――リイの攻撃が間に合わなかったら、サスケは死んでいた。目の前に攻撃が迫っているというのに、動くことすら敵わなかったサスケは、その事実に気付いて愕然とした。

宙を飛んで倒れていない木に着地したリイは、腕を震わせながら呆然とするサスケに「下がれ!」と短く指示を出すと、木を蹴って再び起き上がろうとする我愛羅へと追撃を浴びせる。
相手に攻撃をする隙を与えてはならない。

「うちはサスケ君だね。この場は僕達暗部が引き継ぐ。君は下がっていてもらえないか」

「な…っ」

唐突に表れた暗部の有無を言わせない口調に、思わずサスケの眉間に皺が寄った。
何者か、と問う間もなく、無意識のうちに察知した危険に首筋の産毛が一斉に逆立つ。

「邪魔なんだ」

凄まじい勢いで飛来した弾丸のような砂礫を避ける為、テンゾウはサスケを突き飛ばし、自らもまた枝から飛び退いた。
体制を崩したサスケの襟首を掴んで別の枝へと飛び移り、先程まで足場にしていた太い枝が粉々になって落ちていく様を黙って見つめる。眼下では、リイと半尾獣化した我愛羅が凄まじい攻防戦を繰り広げていた。

「くそ、あの図体で…」

サスケを下がらせたテンゾウが何とか我愛羅を捉えようと木遁の術を発動させるが、激しく動き回る体を捉えることが出来ず、伸びた木が行き場を失って宙で絡まる。
やはり直接攻撃をして隙を作る他には無さそうだ。舌打ちをしたテンゾウは印を結び、リイに向かって飛んできた攻撃を木錠壁の術で防ぎながら、「火影式耳順術を使う!何とか動きを止めてくれ!!」と叫ぶ。

「ッ簡単に言ってくれますね…!!」

涎を垂らしながら暴れまわる我愛羅の腕が周囲の木を薙ぐたびに、轟音を立てながら森が揺れる。
肩で息をして攻撃を避けるリイは、ぐっと歯を食いしばりながら、なんとか攻勢を取る為に体制を立て直そうとした。

「…どけ…!!オレの邪魔をするな…ぁああ!!」

(尾が…!!)

叫んだ我愛羅の背から尾が伸びる。尾獣化が更に進んだのだ。
尾獣化した腕と尾で枝を掴み、加速と方向転換を空中で同時に行う変則的な動きに翻弄され、リイは防戦一方となる。見た目からは想像もつかない程動きが速い。ギリギリで避けた爪先がリイの顔をかすり、仮面に大きな傷が走った。

リイ程の速さを持つ者でなければ、とっくの昔に死んでいる。
二人の動きを目で追うテンゾウは、眉間に皺を寄せながら相手の手強さに奥歯を噛んだ。

このままでは埒が明かない。いや、それどころか時間の経過によって更なる尾獣化を許す事になる。

「この…っ」

リイは小さく呟くと、剃によって空中を移動する我愛羅の真下に回り込んだ。
だらりと垂れた尾を掴み、渾身の力で空に向かって投げ飛ばす。しゅるり、と解いた包帯で相手の体を絡め取り、リイは体を回転させながら地面へと一直線に向かった。


「―――表蓮華!!」


もがく我愛羅の体を高速回転させながら地面に叩き付ける。―――衝撃。
凄まじい轟音と土煙が上がり、リイは咄嗟に掴んでいた我愛羅の体から手を放して飛び退く。
流石の我愛羅も地面にクレーターが出来る程の凄まじい衝撃に一瞬動きが止まり、その隙を逃さず、我愛羅の体をテンゾウの木遁が絡めとった。

これでもう、我愛羅は身動きすら取る事は出来まい。


「フー…」


印を組んでいたテンゾウがゆっくりと指を放す。
額から伝う汗を拭いながらテンゾウが告げた作戦成功の言葉に、リイは思わず詰めていた息を吐き出し、肩を大きく上下させながら膝に手をつく。蓮華の反動から体中に走る痛みに顔をしかめたリイに、テンゾウは「よくやった」と労いの声を掛け、下がらせようとした。

あとは封印術を施し、守鶴を抑え込むだけ―――。






―――――二人のその僅かな油断が、命取りになった。






急激に膨れ上がったチャクラに、テンゾウとリイの背筋に怖気が走る。
二人が振り返る間もなく、我愛羅を覆っていた幾重にも重ねられた堅固な木遁の殻が膨れ上がり、破裂した。暴れ回る尾と、更に巨大化した右腕。その腕に薙ぎ払われ、呆気なく吹っ飛ばされたテンゾウは倒木に強かに首筋を打ち付け、何が起こったのかを把握する事も出来ないまま失神する。

「―――…ッあ…!」

(信じられない…、あの拘束を破るなんて…!!)

同じように薙ぎ払われるも、テンゾウよりも後方に居たお蔭で衝撃が浅く、地面に身体を打ち付けながらもギリギリのところで意識を飛ばさずに済んだリイは、強く打ち付けたお蔭で鈍い痛みを訴える頭と揺れる視界の中、右肩に走った痛みに思わずうめき声を漏らした。
右腕が動かない。肩が外れている。
だが、リイが肩を抑えるよりも先に、身体が宙に持ち上げられた。

「…ッ!!」

守鶴化した右腕の爪が胴に食い込み、ぎりぎりと締め付けられる。内臓が圧迫され、リイの口から苦悶の叫びが迸った。咄嗟に鉄塊で体の強度を増したが、凄まじい圧力だ。肺を強く押され、呼吸をする事もままならない。
霞む視界の向こうで、我愛羅のギラギラとした瞳が己を睨み付けている。

鉄塊の強度にも限界がある。尾獣化が進めば進むだけ力も増す我愛羅相手に、このまま握りつぶされるのも時間の問題だった。リイの攻撃の要とも言える利き腕は使えない上に、頼みの綱のテンゾウは気絶してしまっており、ぐったりと四肢を投げ出している。

もはや、これまでか―――!

歯を食いしばったリイの仮面が、パキリと小さな音を立てる。その微かな音に呼応するように我愛羅の拳に更に力が籠り、リイは唸った。脇から鈍い音が鳴る。肋骨が折れたか。どこか冷静な頭でそんな事を思いながら、リイは顎を反らしてその痛みに耐えようとした。

リイの仮面に大きな罅が走る。
先程我愛羅が攻撃した時についた傷を中心に広がったその罅は、やがて仮面を真っ二つに両断した。

急激に光を増す視界。
ぱきん、と音を立てながら割れた仮面が足元に落ちる。




スローモーションのようなその光景を目で追いながら、リイは我愛羅の目が大きく開かれる様をぼうっと見ていた。






*





「…何故…」

仮面の下から現れたリイの顔を見た我愛羅は、唐突に表れた予想外の存在に目を見開き、思わず右手から力を抜いた。
どさり、と音を立てながら地面に頽れるリイの身体。酸欠と圧迫による骨折から全身に走る痛みに、すぐに立ち上がろうとするも体制を崩してしまう。

「何故お前がここにいる」

掠れるような我愛羅の呟きは、外れた肩と折れた肋骨を庇うように体を片腕で抱きしめ、荒い呼吸を繰り返すリイの耳には届かない。呆然とした表情のままふらふらと歩み寄る我愛羅の影がリイの頭上に差し、リイは生理的な涙の滲む瞳で顔を上げた。
既に体の半分以上を尾獣の姿へと変貌させた我愛羅と、リイの視線が錯綜する。

―――この怪我では、戦う事も、逃げる事も、できやしない。
絶望的なその状況に、リイの喉が引き攣った音を立てる。

(―――こんなところで…!!)

唇を噛みしめるリイの脳裏を、ネジやテンテンの姿が過る。

己を見下ろす我愛羅の姿に死の影を見たリイは、無駄と分かっていながら震える体を叱咤して必死に足を動かし、後退りした。

その姿を見た我愛羅の表情が呆然としていたものから一転、一切の温度を持たない無表情へと変わる。

「…何故オレから逃げる…」

―――怒りを滲ませた声。我愛羅の瞳が憎々しげに歪んだ。
リイから向けられる、恐れに染まった眼差し。それは砂の里の人間達が、我愛羅を見る時にする目と同じものだ。

だが、見慣れたはずのその表情が、何故か酷く、我愛羅の胸を苛立たせた。

「お前が…!」

我愛羅の足元で砂が渦巻く。それは己から離れようとするリイの右手と右足を捉えると、強い力でその動きを抑え込んだ。
圧迫される痛みと、次に行われるであろう行為への恐怖から、リイの口から声にならない叫びが漏れる。

主の危機に瀕し、とうとう命令を待てなくなり飛び出したリスが、呆気なく我愛羅に叩き落とされ、遠くで木に体を打ち付け地面に落ちる様を眺めながら、リイは今度こそ死を覚悟した。


―――殺される。


禍々しい右目と血走った翡翠の瞳に自身の蒼褪めた姿が映り込む。
今にも泣き出してしまいそうな子供のような表情で、我愛羅は左手を振り上げた。






「―――そんな目でオレを見るな!!」






どこか悲痛さを感じさせる叫びと同時に、我愛羅の左手がぐっと握られ、リイの右半身を衝撃が突き抜ける。
骨が砕け、血が飛び散る様は、昔どこかで見たような光景だ。
リイは倒れながら、皮肉げに唇を歪めた。

(…そうか、運命はこういう風に、つじつま合わせをするのか)



結局、逃れる事はできないのだとでも言うように。



『…死ぬなよ、リイ』



ぼんやりとした視界の中、遠くで起き上がったリスが、懸命に己に駆け寄ろうとする姿が見える。
走馬灯のようにガイの言葉が耳元で蘇る中で、リイの意識はぷっつりと途切れた。






*






真っ暗だ。

まるで世界をすべて黒で塗りつぶしたかのような、どこまでも続く深淵の闇。
目を開いたリイは、横たわりながら目の前に広がる光景に暫し放心した。

「ここは…」

数回の瞬きの後、ハッと我を取り戻し、肘をつきながら慌てて上体を起こす。ふと違和感に気付いて右半身を見下ろせば、そこには怪我一つない己の腕と足があった。

(―――…あれ…?…怪我が、無くなってる…?)

リイは己の目が信じられず、右手を眼前で握りしめ、開く行為を繰り返した。手のひらにも、手の甲にも、傷一つついてはいない。あの時、確かに我愛羅に潰された筈なのに。
気を失う程の壮絶な痛みを思い出し、リイの眉間に皺が寄る。
リイはそれを振り払うように頭を振ると、腕を下ろして両手を地面についた。
ゆっくりと腰を持ち上げ、両足を支えに立ち上がる。視界が持ち上がって、視線が下がった。

天を覆う黒。対照的に足元を埋め尽くすのは、立方体に切られた石の群れ。
光源などどこにも存在しないのに、果てまで敷き詰められたその石と、己の姿だけははっきりと浮かび上がって見える。

どこかで見た事のあるその光景にリイは周囲を見渡しながら呆然とした表情になった。


「どうして…」


うちはオビトの時空間忍術によって繋がる世界。現実とは異なる次元にある場所。

―――神威空間。間違いない。

(でも、何故?)

ここは簡単に訪れる事ができるような場所ではない。ならば何故今、自分はこの場所に立っているのか。



―――その時、ふとリイの背後で足音がした。
風もなく、何もかもから遮断されたこの無の空間で、聞こえる筈の無い音。人の気配。
ほぼ反射的に、リイは振り返った。

振り返って―――――目を見開いた。



「―――――え…?」



信じられないものを見たかのように、動きが止まる。―――実際信じられなかった。目の前に居る人物の存在がうまく受け止められず、考える事を止めた頭がまるでリイの時間を止めてしまったかのように錯覚してしまう。
無意識のうちに自然と足が下がりそうになり、それに気づいたリイはそっと踵に力を入れて踏みとどまった。
―――驚愕と恐怖。いや、そんな簡単な言葉では表しきれない。複雑に入り混じった感情が、リイの思考を混沌とさせる。
そう、リイは取り乱しこそしなかったが、混乱していた。自分の理解を越えた事象。この感覚は、あの夏の日、リイが『ロック・リイ』になったあの日のものととてもよく似ている。

リイは、足を踏み出した。
恐る恐る、鏡を覗き込むように、リイは緩慢な動作で背後に立っていた人物と向かい合い、動きを止める。



向き合った彼は、どこか寂しげな表情で微笑みながら一度瞬きをした。躊躇うように視線が下がり、やがて、決意したように拳を握りしめ、リイの瞳を真正面から見据える。
力強い眼差し。静かに唇が揺れる。







「お会いするのは初めてですね。―――リイ…、いいえ、もう一人のボク」






―――決して交わることのないものと思っていた存在。


ロック・リー。


小さく小首を傾げたリーに、リイはただ息を止めて、その姿を見つめる事しかできなかった。







第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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