29

コンコン、というノックの音。窓を吹き抜ける風、揺れるカーテン。
シーツの上で物憂げな表情を浮かべ、白い花弁に触れながら溜め息を吐く少女が一人。

「ロック・リイさん?回診の時間です。入りますよ」

静かなスライド音を立てながら扉が開かれる。まだ年若い青年の医師は、ドアを開けた途端目に飛び込んできたその一枚の絵画のような光景に思わず立ち止まり、抱えていたカルテを床に落とした。
バインダーがリノリウムの床に跳ね、がしゃん、という大きな音が病室内に響く。
金属と床のぶつかる激しい音にハッと我に返り、肩を揺らしたリイは、壁に掛けてある時計へちらりと目を向け、それから慌てた様子で足元のバインダーを拾っている医師を振り返った。
どうやら、考え事をしている間にいつのまにか回診の時間になっていたらしい。

「…すみません、つい、ボーっとしていました」

いじっていた花をそっと一輪挿しに戻したリイは、手櫛で風によって少し乱れていた髪を梳き、佇まいを直す。改めて医師の方へと向かい合いったリイは、今日は天気がいいですね、と世間話をしながらベッドの横の簡易椅子に腰かけた医師に相槌を打った。
バインダーを広げ、紙をめくる静かな音。暫く黙ったままで昨日までの経過をチェックした医師が、カチン、とボールペンをノックしながら顔を上げる。

「チャクラはもう殆ど回復しているようですね。どうですか、体の方の調子は」

「ええ。看護師の方も軽い運動くらいなら問題ないという事でしたので、今朝は中庭で少し散歩を。しばらく寝ていたおかげかまだ本調子という訳にはいきませんが、特に問題は感じませんでした」

流石木ノ葉の医療技術は一流ですね、とリイが笑えば、医師は少し照れたようにはにかんだ。
抱えていたバインダーとボールペンを膝に置いた医師の、腕を出してください、という指示に従い、リイは点滴の針が刺さっていない方の腕を差し出す。医師は入院着の袖をまくると、肘や手首の部分を時折押しながら指の曲げ伸ばしを確認した。入院当初は筋肉断絶が酷かった腕も、木ノ葉の医療忍術にかかればこの通りだ。
問題なく動く腕に満足げな表情を浮かべ、頷いた医者は、触診を終えた腕をそっとベッドの上に戻し、首にかけていた聴診器のイヤーピースを耳に押し込んだ。入院着の上から胸の部分へと金属が押し当てられ、リイは反射的に顎を反らす。
深呼吸を繰り返す間に数か所からの音を聴き、異常がない事を確認した医師は、耳から外した聴診器を首にかけなおした。

「…経過は順調なようです。他に、どこか不自由を感じる点はありますか?」

何か悩みがあるような様子でしたが、とカルテにボールペンを走らせながら医師が発した言葉に、リイは少し考え込むような動作をする。
確かに、身体の調子に問題はない。あるとすれば…。

「先生、私…」

少しだけ睫毛を伏せたリイが、真剣な表情で医師に向き直った。
その大きな瞳に正面から見つめられ、まだ若い青年である医師の心臓は思わず高鳴る。頬に差した赤みを誤魔化すようにバインダーを掴む手に力を込めた医師は、努めて平静を装い、「どうしましたか」と尋ね返した。
胸元で手を握りしめたリイは、意を決したように医師に向かって唇を開く。



「私、実は―――…ガイ先生に会えなすぎて死にそうなんです…っ!」



―――はっ?

眉根を寄せ、心底辛い、といった表情でそう言ったリイに、医師はぽかんとした顔で瞬きをした。こんな真剣な表情して、今なんて言ったこの子?
困惑する医師の様子もそのままに、リイはまくしたてるように話を進める。

「聞いて下さいよ。ガイ先生、折角任務から帰ってきてからすぐに私の見舞いに来て下さったというのに、生憎私が寝ていた時の事だったそうで、そのまま帰ってしまったんだそうです。信じられますか。しかもそのあとすぐにSランクの長期任務が入ったっていうじゃないですか。ありえない。さっきこの事を笑顔で教えに来てくれた同じ入院仲間のナルト君に思わずダイナミックエントリーかましてしまうところでしたよ。というか、心の中でかましました。なんでも彼はガイ先生がこちらに来て下さった際に会ったそうで。許せませんよねまったく。こっちは眠っていた時間も含めれば約半月以上もガイ先生のお顔を見ていないというのに…」

怒涛の勢いで不満をぶちまけたリイの拳が、あまりスプリングの効いていないベッドのマットを殴りつけた。ボフ、という気の抜けた音が響く。
しかしリイは、それだけでは止まらなかった。

「ナルト君から聞いたんですけど、なんでもここに砂の我愛羅君が私を暗殺しに来ていたらしいじゃないですか。人が寝てる間に何しようとしてくれてるんですかね彼。まあ、それは置いといて、間一髪の所でガイ先生が助けに入ってくれたと。ああ、信じられない!なぜ私は寝ていたんでしょう。ピンチを好きな人が助けてくれる…というのは恋する乙女なら誰でも憧れるシチュエーション。是非とも、是非ともこの目でガイ先生の勇姿を見たかった…!正直『あの時のガイ先生、マジでカッコよかったってばよ!』と嬉しそうに語るナルト君には表蓮華の一つでも食らわせてやりたかったですね。私を差し置いて…!ああ、ガイ先生…!私は、私はあなたに会えないと苦しみでこの身を裂かれそうです…っ!」

自分の体を抱きしめながら、ハア、と大きな溜息をつくリイ。この場にナルトかシカマルが居たならば、「最初に助けに入ったオレ達の事は眼中に無しかよ!?」と抗議をした事だろう。ナルトが如何に自分たちが素晴らしいタイミングでリイのピンチを救ったのかを語って聞かせた所で、ガイのくだり以外リイの耳には入っていなかった(もちろんちゃんと礼は言ったが)。…不憫な男達である。

「先生、私…どうしたらいいんでしょうか…!」

胸に両の掌を重ね、医師に向き直ったリイが絞り出すような声で苦しみを訴える。そんな美少女の可憐な姿に何も感じない訳ではなかったが、我に返った医師は呆れたような顔になった。

「病院行ったらどうですかね」

「先生、ここ病院です」

うち恋の病は専門外なので、と肩を竦めた医師に、医者も匙を投げるとはこの事か、と大げさに嘆くリイ。
放っておいても問題ないな、これは。苦笑いを浮かべながらそう判断した医師は、持っていたバインダーを再び開き、ボールペンを持ち直した。

「はぁ…。ガイ先生…、会いたいです…!」

「それだけ嘆く元気があれば大丈夫そうですね。あと二、三回検査して問題がなければすぐに退院できますよ。まあ、三日もかからないでしょう」

ベッドに突っ伏して悶えるリイを軽くスルーした医師は、うんうんと頷くとカルテに何かを書き込み、席を立つ。
素面に戻ったリイが「あ、そうですか。ありがとうございました」と頭を下げると、医師はあとで看護師が点滴を替えに来ますから、とだけ告げ、病室を出ていった。
すうっとドアが閉まり、病室の中に再び静寂が満ちる。リイはしばらく医師が出ていった後のドアを見つめていたが、やがて意を決したようにゆっくりと、視線を上へ動かした。




「―――それで?あなた方はいつまで私の病室の天井裏に居座るつもりなんでしょうか」




リイが天井を睨み、声を掛けると同時に、音もなく現れる二つの影。
動物の面に、揃いの衣服。こうして間近で見るのは初めてだが、リイはその姿をよく知っていた。―――木ノ葉の里の、暗部達だ。

「…砂側には火影様じきじきに警告文を出したと聞きました。そもそも私を殺そうとしたというのは、我愛羅君の独断だったんでしょう。最早この病院に、暗部をつける必要はないはず。現に、院内にはこの病室以外に暗部はいない。一介の下忍である私に警護をつける必要性も考えられませんし…。忍とはいえ、一応プライバシーはあると思うんですよ。ずっと天井裏に張り付かれていると、落ち着かないのですが」

さっきの医師に相談しようかと一瞬迷いましたよ、とリイは暗部を睨む目に力を込める。どうやら医師は暗部の存在には気付いていないようだったので、聞いたところで無駄だと判断したが、一体全体どういう目的で暗部が己を監視しているのか。
暗部の二人は顔を見合わせ、何事かを合図しあうと、ややあって片方がリイの前に歩み出た。

「流石だね。下忍になってまだ一年と少しだと聞いたけど、ボク達暗部の気配に気付くとは」

肩を竦めながら「今回の中忍試験のダークホースとされていただけの事はあるね」と呟いた暗部の男は、表情を険しくさせたリイを正面から見つめた。仮面越しに除く闇のような黒い瞳に、リイの目が細められる。この飄々とした態度。まるでどこかのコピー忍者にソックリだ。
フン、と鼻を鳴らしたリイが「ワザと気付くように仕向けたのはあなた方でしょう。事実、私はナルト君がこの部屋に来るまで、気付きませんでしたしね」と吐き捨てる。

「それでも、あれだけの気配で気付ければ上等だよ。実際、一緒に居たナルト君はボク達の事に気付きもしなかった」

リイは内心であの意外性ナンバーワン忍者のナルトと比べられても困る…と思ったが、口には出さなかった。監視が目的なら、何故わざわざ自分達の存在をバラす様な事をしてきたのか。表情の分からない仮面越しでは、真意も読みづらい。リイの訝しむような視線に、暗部の男は「まあ、とりあえず合格ってところかな」と呟くと、後ろに控えていたもう一人の暗部に向けて掌を差し出した。
先程から沈黙を貫いていたもう一人の暗部は、懐から一枚の紙を取り出すと、それをリイの前に立つ男に手渡す。

「これを」

すっと眼前に差し出されたそれを、リイはしぶしぶながら受け取った。暗部からの書状?いったい何だというのだ、と折り畳まれていたそれを開き、文面に目を通したリイは、次第に表情を硬くさせ、その内容に驚愕を露わにする。

「…これは…!」

紙を握る手に力が籠る。三代目火影の名が直筆で記された書面。刻まれた己の名。
それは―――任命書だった。

なぜこんなものが自分のところに、と困惑を隠す事もなく顔を上げたリイに、男が向き合う。


「退院し次第、すぐに火影様の元へ行ってもらうよ。そこで、君の正式な『暗部入り』が決定する」


男の淡々とした言葉に、リイは思い切り顔を顰めた。
ちょっと待ってください、と男の言葉を否定しようと身を乗り出した途端に、不気味な仮面が視界いっぱいに広がる。光の無い目に顔を覗き込まれ、リイは思わず口を噤んだ。

「先に言っておくけれど、君に拒否権は無い。君も忍なら分かってるだろう。火影様(うえ)の命令は絶対だ」

伸し掛かる威圧感。男はそれ以上のリイの発言を許さなかった。…いや、というよりも、リイ自身がその言葉に口を閉ざさざるを得なかったというのが正しい。
『ロック・リイ』として生きる事を決めたその瞬間から、忍としての生き方をその身に叩き込んできた。男の言葉は、誰よりもリイ自身が、身に染みて理解している。

火影の命令は絶対だ。―――逆らえる筈がない。

予想していなかった展開に、リイは震える手の中の紙をぐしゃりと握りつぶした。

「じゃあ、また三日後に」

役目は果たした、といわんばかりに後ろに下がった暗部が、サッと印を組んで瞬く間に姿を消す。
リイはしばらく睫毛を伏せ、俯いたままだったが、カチン、と時計の長針が動く音に顔を上げた。くしゃくしゃになった紙を睨み付け、小さく舌を打つ。

(こんな未来は知らない)

リイは我愛羅と戦い、その結末を変えた。まさかこれが―――その代償だとでも言うのだろうか。
歪められた物語の車輪はレールから外れ、闇の中を進んでゆく。可能性を考えていなかった訳ではない。『避けたい部分だけを避ける事ができる』などという都合のいい展開はそうそう無いのだ。
まったく、人生というものは中々思い通りにはならない。
リイは唇を噛んで、苛立ち紛れに握りつぶした紙を壁に向かって投げつける。

音の無い病室の中で、壁にぶつかって床の上に落ちる紙の微かな音がやけに耳についた。







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