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(ああ、―――まったく)

朝っぱらから、気に食わないことばかりだ。
歩菜は凍りつきそうな程冷たい雑巾を固く絞ると、舌打ちをしながら道場の床を拭き始めた。
己のなかの苛立ちを床の汚れに叩きつけるように、がしがしと力を込めて床を擦る。

…そもそも、奴とは、出会い頭の印象からして最悪だった。







「俺に会わせたい奴?」

七輪でこんがりと焼いた秋刀魚と、大根の味噌汁。
旬のものがふんだんに使われた夕餉を皆でつつきながら、近藤が「明日、歩菜に会わせたい奴が居るんだが」と切り出した話に、歩菜は口の中のものを飲み下してから首を傾げた。

「ああ。何年か前から、うちの道場に来てる奴だ。門下生というわけじゃあないが、時々ふらりとやってきては、俺達の稽古に混ざって仕合をしてくれる。剣の腕は滅法強いから、期待していいぞ」

そろそろお前も、強い奴と仕合たいと思っていた頃だろう?

笑う近藤に、歩菜は見透かされていたか、と僅かに嘆息した。
この人は、本当によく見ている。
確かに歩菜は近頃、素振りや打ち合いだけの稽古に、物足りなさを感じていた。

―――元々、剣の腕には自信があった。幼い頃から長く続けているということもあるが、ジュニアで参加した大会では、幾度か優勝した事もある。
ここにきてからの稽古は、それまで歩菜が行っていたものとはまるっきり違った。型にはまった道場剣術よりも、もっと自由で、何者にもとらわれない、自分だけにあったスタイル。
それを体得してからの歩菜の剣の腕は、めきめきと上達していった。力を伸ばす方向を見つけた歩菜は、他の門下生をどんどん追い抜き、今や道場の主たる近藤や神童と呼び声高いあの沖田総悟にも引けを取らない技量を誇っていた。

だが―――いつも同じような仕合ばかりしていては、伸びしろにも限界がある。

もっと、強い相手と仕合たい。
自分がどこまでできるのかを、試したい。

現代に居た頃よりもその思いを強く持つようになった歩菜は、いつしかそんな想いを抱くようになっていた。

「近藤さんが強いっていうんなら、相当な腕前なんだろうな」

そう呟いたとき―――歩菜の脳裏に、ふと、一人の男の顔が過ぎった。

「どうしたの、歩菜?」

不思議そうに傍らで首を傾げる晴美に、なんでもないと頭を振って、若干冷めた米を口の中につっこみながら、歩菜はまさかそんな都合のいい展開があるわけがないと自分に言い聞かせる。

まさかその男は、あの土方十四郎ではなかろうか。

ろくに道場に来てもいないくせに、近藤が特別気にかけていて、あのミツバが恋い慕う存在。
弟子として、拾ってもらった恩人として近藤を慕う歩菜にとって、話に聞くだけでもなんとなく気に入らない気分になるその男。






予感は―――的中した。






「―――ああ?なんだこのちんちくりんは」


その一言は短気な歩菜の闘争心を焚きつけるには十分だった。







(そもそも、あいつ最近ここに来すぎじゃないか)

前は、ひと月に二回も顔を見られればいい方だったと、近藤が言っていた。
だとしたら何故、最近になってより足繁くこの道場に通ってくるようになったのか。

「そう怒るなよ、歩菜。あいつも、やっと自分が全力を出して戦える相手を見つけられて嬉しいんだろうよ」

「…俺よりずっと、稽古の時間も少ないくせに、強いのが気に食わない!態度もスカしてるし、何が悲しくてあんな奴に連戦連敗しなきゃならねーんだ!」

出会って以来、土方は道場に来るたび必ず歩菜と仕合をするようになった。
仕合自体は、認めてしまうのは悔しいが、楽しい事に違いはない。他の誰とも違う気迫と、剣さばき。いつもほぼ互角の戦いは、結果として、土方の力押しに歩菜が根負けしてしまう。
今日こそは勝てると思ったのに…、と歩菜が眉を顰めれば、近藤は豪快な笑い声を上げてその頭を撫でた。

「お前たち、息ピッタリじゃないか。楽しいんだろう、あいつとの仕合。そりゃあ、負けた時のお前の顔は見物だが、戦ってる時はいい顔してるぞ、お互いな」

近藤の言葉に、歩菜はぶすくれた顔をした。
朝の稽古で負けた代償として、好物のミツバが作った卵焼きを土方に奪われた歩菜は、くさくさした気分を紛らわせる為に雑巾で床を擦る速度を早めた。

「それに、あいつは見えない所で努力してるからな。お前の努力もすごいが、あいつもあいつで、頑張ってるのさ」

まあ、これが同族嫌悪ってやつか、と笑う近藤に、歩菜は「あんなのと一緒にすんな!!」と思い切り顔を顰める。

「…ああ、そういえば話は変わるが歩菜、今朝の瓦版は見たか?」

「…長州の?それなら、朝あいつが言ってた。今回も善戦したらしいな、大隊規模の大群相手に」

白夜叉や、狂乱の貴公子といった聞き覚えのある名前が土方の口から飛び出したとき、そういえば今は攘夷戦争の真っ只中であったということを歩菜は思い出し、何故だか落ち着かなくなった心臓を静まらせる為に、胸の上に手を置いた。
血腥い話が無いわけではないが、それでもここはあまりに平和すぎて、歩菜はこの国が内乱の真っ最中だということを時々忘れそうになる。

「黒い修羅、ねえ…」

聞けばその戦には、歩菜達とそう年の変わらない少女が参加していたのだという。
そのあまりの強さ故に、修羅と呼ばれるようになったその少女の話を聞きながら、歩菜は胸に過ぎったその可能性を否定する事ができなかった。




(佳乃。お前もこの世界に居るのか)




「まだ正式に決まった訳じゃないんだが、…ここだけの話、この道場に、あの松平片栗虎公から江戸で一旗上げないかと、ある話が来てるんだ」

「…へえ?」

珍しく神妙な顔になった近藤に、思わず歩菜も佇まいを直す。
顔を上げれば真剣な光を宿した双眸がひたと己を見つめていて、歩菜はぐっと拳を握り締めた。

「幕府からの要請でな。この内乱をどうにか収束させる為に、新しい幕府管轄の組織を作ろうという動きがあるらしい」

―――武装警察、真選組の結成。
もう、話はそんな段階まで進んでいたのか。正直歩菜は驚いたが、それを表情には出さず、ただ近藤に話の続きを促した。

「俺はな、歩菜。もし江戸に上京することになったら―――アイツや、お前にも、一緒に来て欲しいと思っている」

近藤の言葉に、歩菜はただ頷いた。歩菜の腕は土方や沖田にも引けをとらない。女だからと切り捨ててしまうにはもったいない戦力だし、歩菜にもその自覚がある。
それに何より、歩菜は自分を拾ってくれた近藤に恩返しをしたかった。自分の力が役に立つというのなら。

「俺にできることがあるなら、全力でさせてもらう。あんたに拾われた命だ、どこまでもついていくよ」

そのとき、何故だか歩菜は、瓦版に書かれた攘夷志士達の活躍を思い出した。内心で苦虫を噛み潰したような顔をしながら、唇を引き結ぶ。

もしも彼女が、自分と同じく、この世界に来ていたとしたら。

(…いや、あいつにかぎって、そんな事は絶対にない)

負けると分かっていて、攘夷志士達に味方するような馬鹿な真似は。
何故なら彼女は、彼女だって、自分と同じで原作を知っているはずなのだから。


(そんな馬鹿な事)


それでも胸の内に過ぎる不安は、一向に拭い去れそうになかった。







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