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「百四十三、百四十四、百四十五!」

やや西に傾いた太陽の、午後の日差しが格子状の窓から差し込んでいる。
隅々まできっちりと清掃の行き届いた道場は、普段であれば賑わう門下生で騒がしい空間となっているが、今は歩菜一人しか居なかった。
腹からの呼吸、そして掛け声と共に、手に持った木刀を振り下ろす。持ち上げる。力を込めて、風を切る。
その繰り返し。

それは、ここに来る前からずっと続けていた、歩菜の日課だ。

「百七十七、百七十八、百七十九!!」

―――あの日。
佳乃と共に―――いや、佳乃よりも数瞬後に屋上から落ちた歩菜と晴美、麗美の三人は、何の因果か佳乃が落ちた世界と同じ銀魂の世界の、それもかの近藤勲の住まう道場で目を覚ました。
そう―――彼が若き日を過ごしたのであろう、武州の田舎の道場に、歩菜逹は落ちてきたのだ。

(何もない空間から突然現れた―――…か)

あの時、三人の身に何が起こったのかは、結局今も分からないままだ。確かなのは、屋上から落ちたというのにまったくの無傷だという事と、この世界が自分逹のよく知る異世界だという事、ただそれだけ。
どうしてこんな事になったのか。
混乱する歩菜達をまずは落ち着かせ、事情を聞き、この道場で面倒を見ると言ってくれた近藤の存在がなければ、今頃歩菜逹は己の身に何が起こったのかを理解する事もないまま野たれ死んでいた事だろう。
なにせ、今は内乱の真っ最中だ。この武州の田舎とて、血腥い話はそう珍しいものではない。

(ホント、あの二人がいなけりゃ、今頃どうなってたか)

唐突に現れた歩菜達を、身寄りがないならウチで面倒を見ようと、暖かく迎え入れてくれた近藤やミツバ。この二人には、本当に感謝している。
ミツバの弟の沖田総悟は歩菜逹と歳が同じという事もあり、二人はまるで家族のように接してくれていた。

その恩を返す為と言ってはなんだが、歩菜や晴美、麗美の三人はこの道場で日々、雑用をこなしたり鍛錬をする事で、道場の繁栄に微力ながらも尽力していた。

このご時世だ。廃刀令の煽りを受けて、門下生は次々と姿を消していく。田舎の道場であればなおさらだ。
それでもこの道場が活気を失わないのは、その大部分が近藤の人柄によるものだろう。あの人には人を惹きつける何かがある。
漫画ではストーカーだのゴリラだの罵られ放題罵られていたキャラクターだったが、この数か月を経て、歩菜の中の近藤の人物像は漫画を読んでいた時のそれとはまったく違うものになっていた。
自分たちを救ってくれた恩を返したい。あの人についていきたい。
この思いは、晴美や麗美も同じだろう。


「二百九十八、二百九十九、三百!!」


丁度歩菜が三百回目の素振りを終えたその時、道場の入り口に小さな影が差した。
構えていた木刀を降ろし、入口の方へと視線を向ければ、そこには髪を二つに結った晴美が、竹箒を抱えながら困り顔でこちらを見ている。

「歩菜、掃除手伝ってー!一人じゃ終わりそうにないのー」

眉をハの字に寄せた晴美が、両手を合わせながら頼りない声音で歩菜を呼ぶ。
歩菜はそんな晴美に呆れたような表情を作りながら、小さくため息を吐いた。

「麗美か総悟に言えよ」

「二人とも、今ミツバさんと一緒に市に出かけてるの」

ったくしかたねぇな、と歩菜は悪態を吐きながら置いてあった手ぬぐいで汗を拭き、木刀を置いた。
歩菜が言った通り、晴美が普段頼るのは麗美か沖田である場合がほとんどで、こうして歩菜を頼るのは滅多にない(こう見えて晴美は責任感が強いので、こういった雑用の手伝いを頼んでくる事は珍しいのだ)。それに、掃除の手伝いを頼んでくる時は、決まって歩菜に何かを相談したい事がある時だ。
困り顔で頼み事をしてくる友人を無下にする程、歩菜は冷たい奴ではない。歩菜が木刀を置いた途端嬉しそうな顔になった晴美に苦笑しながら庭に出れば、さっそく箒片手に木の葉と悪戦苦闘し始める晴美の姿があった。
その姿に思わずくすり、と笑いが漏れる。そんな歩菜の様子に気付いたのか、こちらを振り返りながら若干不機嫌そうな顔をした晴美を横目に歩菜は箒を取り、木の葉を一カ所に集め始めた。

「それにしても、綺麗な秋空だな」

「そうだねえ。冬も近いから肌寒くなってきたけど」

ひゅう、と吹く少し冷たい風。
集めた木の葉がカサカサという音を立てながら舞い、踏んだ木の葉はクシャリと潰れた。
外の世界は戦争の真っ直中だというのに、ここは、とても平和だ。

晴れ渡った青空に、フラッシュバックする、あの光景。

無意識に目を細め、空を睨み付ける。

「…佳乃、どうしてるかな」

ふと隣を見れば、晴美も同じような表情を浮かべながら空を見ていた。
どうやら歩菜と同じで、この空を見て、あの日の事を思い出していたらしい。

「…さあな。俺達みたいにこの世界に来てるのか、それとも屋上から落ちた時に死んだのか」

風が吹き抜け、木の葉が舞う。青空に影をばらまくように。
その光景に、思わずあの時空中に舞ったプリクラを思い出して、歩菜は掌を握りしめた。



『…助けて…!!』



…届かなかった。

伸ばした手は、すり抜けて。
伸ばされた手は、触れる事もなく落ちていった。



「なぁ、佳乃」



見開いたあの瞳には、何が映っていたのか。
驚愕に歪んだ歩菜の顔か、憎たらしい青空か、飛び散ったプリクラか。

あと、数センチだったのに。

今、瞳に映る空は、あの日と同じように澄み切った青色だ。


「俺があの時伸ばされた手を掴んでいたら」


何かが、変わっていただろうか?




その小さな呟きは、誰に聞かれることもなく秋空に消えた。







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