27
昼下がりの本堂は稽古に励む男達の汗くさい熱気に満ちていて、年頃の佳乃には少し足を運びづらい場所になっている。
これまではあまり近づかないようにしていたその場所に、差し入れの握り飯と急須、人数分の湯飲みを持って行くのが、ここ最近の佳乃の日課だ。
大分涼しくなったとはいえ、日中はまだ日差しの厳しい所を、こうしてわざわざ仕事の合間を縫って佳乃が訪れるのには、もちろん理由がある。
「―――来い、桜」
木刀を握り、隙なく構えをとった高杉の身体から、重い気迫が滲み出る。威圧感に似たそれに、刀を向けられていないにも関わらず、佳乃の身体に緊張が走った。
向かい合う桜は、こちらも真剣な表情を浮かべながら木刀を構えると、ぎらり、と目つきを変えた。
普段の優しげな眼差しとは違う、戦場での
表情。漂ってくるのは、気迫というよりも殺気に近い。
その瞬間、桜が木刀を振り上げた。
―――佳乃は、二人の打ち合いに魅入った。
桜の猛攻を、しなやかな受け流しでいなし、攻撃によって生まれた隙を的確に衝く高杉。その動作は型にはまった道場剣術のように完成されているが、しかし戦場での実践的な荒々しい太刀筋でもあった。
(―――すごい)
これが、剣。
それは、学校で見たことのある剣道とはまったく違う、佳乃にとって未知の世界だった。
高杉の左足が力強く床板を踏む。上体を捻り、大きく後ろに引いた右腕に、桜が慌てて身体を引こうとした。―――しかし、遅い。
次の瞬間には、桜の身体が宙を舞っていた。繰り出された鋭い突きを、避けきる事が出来なかったのだ。
「動きが鈍ってるな。肩の怪我はまだ治らねェか」
木刀を下ろし、転がる桜を眺める高杉の目が、桜の左肩で止まる。
その言葉に、のっそりと上半身を起こした桜が、「やっぱり、分かりますか」と左肩を押さえ、苦笑いを浮かべた。
桜の肩の怪我は急所を外し、切り口もそんなに深くはなかった為、今では殆ど塞がっていたが、やはりまだ痛みが残っている。更には怪我の療養の為にここ数日は剣を振るっていなかった為、動きが鈍るのは当然の事と言えた。
しかし、今は戦の真っ直中。
いつまた敵の襲撃があるか分からない今、そんな甘えた事は言っていられない。
「さっさと本調子に戻れ。でねェと…死ぬぜ」
戦場では、弱った者から死ぬ。彼らは誰より、その事を知っていた。
桜は木刀を掴むと、おもむろに立ち上がった。
「もう一本お願いします」
高杉の唇が、にい、と動く。それにつられるように、桜も口端を動かした。不敵な笑み。
―――この二人は、どこか似ている。佳乃は再び木刀を構え直す二人を見ながら、そんな事を思った。
*
「高杉さんの剣は―――なんていうか、太刀筋がとても綺麗だね」
握り飯を片手にすっかり冷めた茶を啜る桜に、手ぬぐいを差し出しながら佳乃が呟けば、桜はああ、と笑みを浮かべながら佳乃の言葉に頷いた。
どこか冷たく、ぶっきらぼうな印象のある高杉が、その実とても仲間思いである事はつい最近知ったばかりだ。
なんといってもその鋭い目つきや言葉遣いのせいで、どこか柄の悪く感じる高杉は、佳乃にとっては苦手な人物だったが、その見た目とは裏腹に風流をこよなく愛し、『粋』である事を大切にしている文化人である。その動作ひとつ、太刀筋一つが、常に優美で流れるような所作であるため、こうして傍から彼を眺めていると、そのギャップに驚かされる事が常だった。
「あの人、もとは良いところの出だからなあ。太刀筋にはその人間の生き様って言うか、その人の地が出るんだよな。例えば桂さんの剣なんて、教本に載ってるお手本みたいな剣だ。真面目っていうか、まっすぐっていうか」
確かに桂の剣は、その生真面目さが影響してか、教科書に載っていてもおかしくないほど完璧な構えと真っ直ぐな太刀筋を持つ。その型が高杉のものと寸分違わないのは、その剣を教えた師が同じであるからだろうが、同じ流派でありながら使い手が違えばここまで印象の違うものとなるのだがら、剣というのは本当に奥が深い。
「…桜」
ふと、佳乃が桜の方を向きながら、真剣な眼差しで桜の目を見つめた。佳乃から滲むどこか切迫した雰囲気に、桜はそっと湯飲みを置き、身体ごと佳乃の方に向き直った。
「なんだ?」
「あのね…」
佳乃は桜の目を見つめながら、一瞬それを口にするのを躊躇ったが、やがて、意を決したように拳を握りしめ、口を開いた。
「…私、剣を握りたい。戦えるようになりたいの」
覚悟を決めた瞳。その言葉に込められた真摯なまでの思いに、桜は佳乃が冗談や軽い気持ちでそれを口にしたのではないと悟った。
そして、彼女がそんな事を言い出した原因は、他でもない、己のこの肩の怪我にあるのであろう事も。
「…本気なんだな?」
桜の言葉に、佳乃は目を剃らすことなく、首を上下させた。「分かった」桜は短くそう応えると、静かに立ち上がり、踵を返した。
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