25

視界に飛び込んできた異形の姿に、佳乃は全身の血が凍り付いた。―――天人。
叫び声を上げる間もなく、負傷して転がっていた志士の数人が、天人が担いだ大鉈になぎ払われ、血飛沫を撒き散らしながら肉塊へと姿を変える。逃げ出す間などなかった。

「天人!!」

「逃げろ!!」

すぐに動ける者は刀を取り、応戦の体勢に入る。佳乃は恐怖心から硬直し、包帯を手に握ったまま瞬きすら出来ない状態で固まっていたが、一緒に治療に当たっていた志士の一人から強く背中を叩かれ、やっと我を取り戻した。

(―――大きい。二メートル以上はある)

周囲の人間をなぎ払い、此方へと標的を定めた天人が突進の構えを取った。角の生えた牛のような頭を持つその天人は、とにかく体躯が大きく、手に握った鉈は佳乃の身の丈ほどもありそうなものだ。あんなものが当たったら―――佳乃のやわい身体など、一瞬で真っ二つになるだろう。

しかし運の悪いことに、この塹壕は銃撃戦用の浅いものではなく、それを身を隠すための場所として更に広く深く掘り下げたものだった為、そう簡単には逃げ場所が無い。更に言うなら、この塹壕は塹壕陣に近く一直線に掘られている為に、横に逃げるという選択肢は無いに等しかった。
背水の陣ならぬ、背壁の陣とでも言うべきか。

―――逃げられない。

佳乃はそろりと土壁に手を這わせた。ふらつきかけた身体を支える為だ。
湿った土が、佳乃の爪が当たっていくらか削れた。土が零れるぱらぱらと言う音は、他から上がった悲鳴でかき消された。

(こんな所で―――…!)



「――――――ァァアアア!!」



その時、ビリビリと空気が震えるような雄叫びが耳に届いた。続いて固い金属の鎧ごと肉を切り裂くザシュ、という斬撃の音が、塹壕の中に響き渡る。鮮血が飛び散り、牛の巨体が口から泡を吹きながらドタリと倒れ伏すと同時に、鈍い光を放つ大鉈が重い金属音を上げながら地面に放り出された。

「―――佳乃、無事か!!」

そこに居たのは、他でもない、桜だった。頬に付いた血を拳で拭いながら、桜は刀にこびり付いた血を振り払う。着物や羽織の所々は煤けてほつれ、返り血と泥で黒くなっていた。薄く差し込む日の光に反射する髪が、被った血の色と共に赤い光を反射する。
ぎらりと闘志に満ちたその瞳に見据えられて、佳乃は彼が戦場に置いて赤い鬼と呼ばれるその所以を悟った。

「桜…!!」

―――彼は、必ず守ると言った、その約束を違えなかった。

桜は佳乃が大きな怪我をしていないことをみとめて、僅かに表情を崩す。どうやら、ほっとしたようだ。
佳乃は慌てて桜に駆け寄ろうとして、転びかけた。先程まで硬直していたせいで、足がうまく動かなかったのだ。思わずあっと声を上げかけた桜が、佳乃に向かって左手を伸ばす。その瞬間に、佳乃の頸筋の毛が逆立った。

「―――桜ッ!!」

桜が、佳乃の事に気をとられた、そのほんの一瞬の出来事だった。
桜の背後でゆらりと動いた影に、佳乃の顔から血の気が引いた。―――先程桜が斬った天人には、まだ息があった!!

間髪入れずに、巨大な大鉈が桜の頭上へと振り下ろされる。怪我を負っているせいか、その動きは緩慢なものだったが、しかし、油断していた桜はその一撃を避けきる事ができなかった。

大鉈の鋒が桜の左の肩をかする。ぱっと鮮血が散るのが目に入ったその時、佳乃の頭の中は真っ白になった。


佳乃は殆ど無意識に、側に転がっていた塹壕を掘る為の円匙(シャベル)を掴むと、叫びながら息も絶え絶えの天人へと飛びかかった。







桜に肩を掴まれてやっと我に返ったとき、佳乃の服にはどす黒い血がべっとりとこびり付いていた。
何度も何度も重い鉄で頭部を殴りつけられた天人はとっくに絶命していて、その頭蓋骨は度重なる殴打で変形し、陥没している。桜を助けるため、とにかく必死で無我夢中になっていた為、死んでいる事に気が付かなかった。佳乃はシャベルを地面に放ると、震える手で桜にしがみついた。
幸い桜の傷は浅かったようで、急所も避けているようだ。桜は佳乃に心配をかけないよう、こんな傷何でもないとでもいうように佳乃に薄く笑い掛けたが、それは何の気休めにもならず、着物に滲んだ血の色に佳乃は泣きたくなった。

「無事で良かった」

桜が佳乃を安心させるように、片腕だけをその背に回して軽く叩く。
先程の天人による被害は甚大で、周囲にはいくつもの死体が転がっており、被害を受けなかった人間は生きている人間の確認の為に忙しなく動き回っていた。あの瞬間、あと一秒桜が天人の攻撃に気付くのが遅れていれば、桜もまた転がる死体のうちの一つとなっていただろう。
その事実に、佳乃はぞっとした。

これが戦場。これが戦争。

(―――私は、守られている)

そしてその結果、桜に傷を負わせた。
佳乃は桜の傷の応急処置をしながら、唇を噛みしめた。

―――自分は、なんて無力なんだろう。

守る力が欲しいと思った。
己の居場所を守る為に。己を守ると言ってくれた人を、大切な人を守る為に。





(強くなりたい)





握りしめた拳に、そっと桜の手が重なった。







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