21

―――自身を襲ったあの男は、街の薬師によって目の治療を受けた後、賭場で博打を打っていた所に現れた桂の手によって手討ちにされたらしい。
目が覚めてからしばらくして桜から告げられたその男の末路に、佳乃は半ば呆然とした。
あの暗闇の中で、懐の刀を握りしめた時―――佳乃は直感的に、桂がこの懐剣を己に託した本当の意味を悟った。
これは、佳乃が自身を守る為の刃ではない。いざという時に、自身を害せるように渡されたものなのだと。当然、武家の人間でも、ましてこの時代―――この世界の人間ですらない佳乃が、その意図に沿う訳もなかったのだが。それでも。

「誰も、惜しんでくれない命だと思ったの」

佳乃がどんなに生きたいと願っても、どれだけ必死になって生きようとしても―――空が、現実が、嗤いながら、あの屋上から何度でも佳乃を突き落とす。助けを求めて伸ばした手を、振り払う。
手を差し伸べてくれた人ですら、心のどこかでは邪魔になる佳乃の死を願っていたのだ。きっとそれは、本意ではないとしても。

「―――ならいっそ、もう、諦めちゃった方が楽になれるのかもしれないって」

あの暗闇で、一人、孤独の恐怖に震えていた佳乃は、握った刃を己に突き刺し、すべてを終わらせる事ができたらどんなに楽だろうかと思った。
自分がこのまま生にしがみついて、生きながらえたところで―――何になるというのだ。佳乃は震える手で、握った刃を己の胸へと突きつける。
いっそ死んでしまえば、誰にも迷惑をかけない。そうすればせめて、手を差し伸べてくれた銀時や桂、桜にこれ以上迷惑をかけなくてすむ。
彼らは優しいから。
―――例え、佳乃の事を心のどこかでは邪魔に思っていたとしても、見捨てる事も、見て見ぬ振りをする事も、出来ないだろう。

自分の存在は、彼らにとってマイナスにしかならない。目的は殆ど同じとはいえ、いくつもの思想を持った人間が集まって出来ているこの寄せ集めの軍が、どれだけ危うい均衡の上に成り立っているか、佳乃は知っている。
些細なことが、争い事や不信、不和の火種になりかねないのだ。そしてバランスが崩れてしまえば―――あとは言うまでもないだろう。

佳乃の脳裏に、今頃戦地で刀を振るっているのであろう桜や銀時、桂の姿が過ぎる。
彼らの為を思うなら。

佳乃はそう思って、刀を握る手に力を込めた。
―――だが、出来なかった。

「…できなかったの…」

屋上から落ちて、見知らぬ場所で化け物に殺されかけても生き延びて、運良くこの世界での自分の居場所を見つけることができた。たとえそれが、どんなに辛い場所であろうと。
それは単なる偶然に偶然が重なっただけかもしれなかったが、それでも佳乃は今、生きている。
刀は佳乃の胸に突きつけられたまま、一ミリだって動きはしなかった。

死にたくない。

「私は、死にたくなかった。例え誰も、この世界ですら私が生きてることを望んでくれなくたって、死にたくなかったの!!」

死ぬのは恐ろしい。何故かと理由を聞かれても、うまく応える事はできない。愛する人がいるからとか、やりたいことがあるからとか、そういうのはただの後付の理由だ。死ぬのが怖い。だから死にたくない。ただそれだけの理由で、佳乃は生きる事を選んだ。どんなに辛くても、生きようと決めたのだ。

だから、桂が与えた選択肢を、佳乃は選ぶことができなかった。

「―――ごめんなさい…」

その結果が、これだ。
あの人は結局の所、非情になりきる事が出来なかったのだろう。
こんな、志士でもなんでもない、得体の知れない小娘のために、仲間を一人殺したのだ。それも、自らの手で。
恐らく、彼の武士としての高潔な精神が、志を同じくする仲間のあまりに下卑た行為を許すことが出来なかったという部分もあるのだろうが。

「私が居なければ、少なくとも、あなた達の仲間の一人が、こんな形で死ぬことは無かった」

こんな形で―――桂に仲間の命を奪わせることもなかった。

もちろん、死んだ男に対する哀れみや憐憫の感情など、佳乃は持ち合わせていない。自分を犯そうとした男。あんな下種は、人間の屑は、死んで当然だ。酒臭い息を吹き掛けてきた赤ら顔を思い出すだけで、憎悪に似た感覚が佳乃の腹から沸き上がる。

けれど。

仲間の先導として群衆の先頭に立つ桂が―――たかだか役に立たない小娘一人の為に仲間を斬るだなんてこと、あってはならない。
その役目を、仮にも志士たちの中で中心としての役割を果たす桂に負わせるわけにはいかなかったのだ。

国のために命を掛けて戦うべき志士の命と、佳乃の存在。最初から秤にかけるべきではないことなど、桂は分かり切っていただろうに。

「ごめんなさい」

(私のエゴは、あなた達を殺す)

佳乃は歯を食いしばり、膝を抱え込んだ。彼らの命と自分の命を天秤に掛けているのは、他でもない己自身だ。良心と自己愛は、その天秤の皿を同じ高さで留めたまま、どちらかに傾くことをしない。―――佳乃は、選べない。
自身の命よりも彼らの安寧を選ぶなら死ぬべきだ。自身の命だけを守るのならば、彼らへの良心を切り捨ててしまうべきだ。―――その結果、彼らが死ぬことになろうとも。


佳乃の独白を黙って聞いていた桜は、ただ静かに、腕を回して優しく数度、あやすように佳乃の背を叩いてやった。







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