20
来たくて来た、世界じゃないのに―――。
泣いて泣いて、泣き疲れて、佳乃はただ、眠っていた。もう何も考えたくない。考えても仕方がない事を考えたって、苦しいだけだからだ。今は眠りだけが唯一、佳乃を苦しみから遠ざけてくれる存在だった。
どうして自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。
見知らぬ世界に落とされて、それまでの大事なものは全て、失って。
殺されかけて、その次は知らない男達と暮らすことになって。やっと暮らしに慣れてきたと思ったら、今度はこれだ。
ついこの間までごく普通の中学生だった佳乃にとって、それはあまりに酷すぎる仕打ちだった。
疲れ切った心が悲鳴を上げて、泣きながら『帰りたい』と懇願する。
(全部夢なら、よかったのに)
ちりちりとした痛みが、夢の中の佳乃を追いかけてくる。
殴られた頬や、手の切り傷が、無理矢理に佳乃を現実に引き戻そうと躍起になっているのだ。
(全部、夢、なら…)
苦しみから逃れようと身をよじる佳乃の眦から、一筋、涙が零れて米神を滑り落ちていった。
―――誰か、助けて。
叫びは、声にならない。
*
静かに眠る佳乃の髪を撫でながら、桜は俯き、唇を噛んでいた。
「―――…分かってたんですか?」
唸るような呟きに、桜の後ろに立つ男は「…ああ」と応えると、静かにその隣に座る。
―――他でもない、佳乃に懐剣を渡した張本人、桂小太郎だった。
「こうなる事はある程度、予想は出来ていた。しかし…」
反発は、最初から覚悟の上だった。
いくら前提の事情があるからとはいえ、荷物にしかならない少女を抱え込むなどという事をすれば、反発の声が上がるのは当たり前だ。
かく言う桂とて、銀時が佳乃をこの廃寺に置くと決めた時は、反対したのだ(佳乃が気を失っている時のやりとりなので、佳乃はこの事を知らないが)。
銀時の説得と、佳乃の事情から、やむなくこの寺に置くことを是としたが、それでも当初の桂と同じ意見を持つ者は多く―――いや、それ以上に、男所帯に娘一人を置くという事に、下卑た感情を抱く者すら居た。
これまでは白夜叉と恐れられる銀時や、桂の後ろ盾があったからこそ、何事もなくやってこられたものの―――戦という名目で、その抑止力が消えた途端、これだ。
桂はそっと佳乃が握りしめていた小刀を取り上げた。
予感はあった。抑止力が消えればどうなるかぐらい、容易に想像がつく。しかし、戦場に佳乃を連れて行く訳にも、重要な戦力である桂や桜のうち誰かが廃寺に残るという訳にもいかなかった。
それに、心のどこかで、桂は同志の事を信じていた。己と志を同じくする者達が、まさかそんな非道な事をする筈がないと―――。
「よもや、我らの同志に、これ程までに堕ちた者が居ようとは―――」
佳乃の頬にくっきりと浮かんだ痣を撫でる。鈍い痛みに、僅かに身を捩らせる佳乃の手を、桜はぐっと握りしめた。
「…ごめん」
一人にして。
桜の瞳に宿る後悔の色に、桂はそっと嘆息した。
この懐剣を渡した意味を桜が知れば―――もちろん、護身用にという意味で渡した事は確かだが―――もう一つの桂の意図を知れば、桜は今度こそ激昂するだろう。
女性の持つ懐剣には、二つの意味がある。
一つは、護身用としての、常に身に付け、身を守るために使う、守り刀としての刀。
そしてもう一つは、貞操を汚されそうになった時に、辱めを受ける前に自害するための刀だ。
武家の出身でない桜や佳乃は、その懐剣の意味を恐らく知らないだろう。
もし。
もしも―――佳乃がその懐剣で死を選んだとしたら。
桂は、それでもいいと思っていた。故郷も、家族も、すべてを失った彼女が、この先ずっと戦場に身を置く己達と生きていく事など、出来るはずがない。ならばいっそ―――。
(なんと、利己的な考えだろうか)
全てに見捨てられた少女を、顔色一つ変えず、あっさりと切り捨てようとする自分が居る。たった一人の少女の為に、志士達を押さえ込めば、それは今後の志士達の士気に影響するからだ。
軍を纏める存在である以上、なんとしても彼らの士気が下がる事だけはしたくない。だから、その時は佳乃を切り捨てようと―――心のどこかで、そんな風に考えていた。その事実に、桂は自嘲の笑みを浮かべる。
だが、どうだ。実際こうして傷つき眠る痛々しい姿の少女を見れば、浮かんでくるのは後悔や自責の念だ。
何故こうなる前にとめなかったのだ、誇り高き武士が、よくもこんな少女に、こんな仕打ちが出来たものだと―――。
桂はこみ上げてくる自身への怒りに拳を握りしめ―――唇を噛んだ。
―――少女一人助けられず、国を救うなどと、よくも言えたものだ。
「―――桜。佳乃の側を離れてやるなよ。目が覚めたときにお前がいれば、いくらか安心するだろう」
桂は腹の内で渦巻く苛立ちを桜に悟られぬよう、静かに微笑んだ。
頷く桜の肩を叩き、そっとその傍らから立ち上がる。もう、腹は決まっていた。
覚悟は出来た。
力を使って志士達の不満を抑え込む―――それがどういう結果を生むのかぐらいは先刻承知している。
だが、こんな事を、これ以上見過ごす訳にもいかない。
自分達には、この少女の面倒を見ると決めた以上は、その責任があるのだ。
―――もう引き返すことは出来ない。
桂の手の中で、使われる事のなかった懐剣が、ちゃきりと音を立てた。
前 次