18
なに、やめて、いやだ、はなして!
くぐもった叫び声が篝火の燃える室内に響く。血走った男の目を見て佳乃は思わず身を固くし、そしていよいよ男を蹴り倒す勢いで暴れた。
(―――そうだ、ここは、安全な場所などではない)
錯覚していた。
桜があまりにも優しいから、外には怖い天人が居て戦があるから。だから、桜が居て天人が居ないここは安全なのだと、いつの間にかそう思いこんでいた。
なんて、愚かな。
初めてここに来た日の夜に、あんなにも自身に言い聞かせていた筈なのに。
(―――ここには、味方なんていない)
酒臭い吐息が掛かる。佳乃は反射的に、畳に転がっていた徳利を掴んで男に向かって放った。鈍い衝突音。薄い陶器のそれは男の頭蓋にぶつかって呆気なく砕け、中に残っていた冷たい酒が男の頭から滴った。瞬時に男の顔が酒に酔った朱色から紫に近い赤へと変わる。
(いついかなるときも、警戒心を緩めてはならない)
そう、誓っていた筈だったのに。
油断していた。失念していた。この世界に、順応したつもりでいた。
―――用事を言われたからといって、非力な小娘が夜半に男の部屋を訪れるなど、少し考えれば危険な事だと分かるはずなのに!
佳乃の左頬に容赦ない一撃が飛んだ。固いものを殴る音。骨と骨がぶつかった音。
拳で、殴られた。衝撃に揺れる頭が一瞬、暴力に萎縮する。
正直、歯が折れなかったのが奇跡だと思った。
(なにをしているの、私、)
金臭い味。口内が歯で切れたようだ。頬が熱を持ったように痛い。
痛い。痛い。痛い。痛い。
男の手が着物の襟にかかる。
痛みと熱と恐怖でぐらぐらとする頭が、その瞬間、氷に突っ込まれたかのように冷えた。
これから、何が起こるのか。そんな事は、考えるまでもない。
駄目だ。
佳乃の右手は無意識に―――あるいは本能的に、先程砕けて畳の上に散らばっていた徳利の破片を掴んだ。
ぐっと握りしめれば破片の鋭利な部分が食い込んだ手の皮が破れてびりびりとした痛みを訴える。―――しかし、それを気にしているような余裕はない。
佳乃は眼前の男をぎらりと睨んだ。
考えている暇など無い。やらなきゃやられる。
一瞬、佳乃の抵抗が止み、着物の襟が乱雑に開かれた。その瞬間―――佳乃の右手が勢いよく振り上げられた。
―――そして、迷うことなく、佳乃はそれを振り下ろす。
柔らかいものに鋭利なものを突き刺す感覚。
あまりにも生々しいそれに、佳乃は咄嗟に顔を背けた。
劈くような悲鳴が男の口から迸った。
あまりの激痛に男の、佳乃を拘束していた力が緩む。
無理もない。
男の顔面、その左目の眼球には深々と―――割れた陶器の破片が突き刺さっていた。
血と、涙と、なんだかよく分からないものを垂れ流す目を押さえながら、男は痛みに噎び、叫ぶ。
佳乃はそんな男の様子には目もくれず、男の身体の下から這い出すと、朽ちかけた障子を蹴破って一目散に走り出した。
篝火の光が届かない夜の闇が身体を包む。
心臓が早鐘を打つ。
震える足を叱咤して走る。
―――怖い。
久しく、この世界に対して感じていなかった恐怖の感情が、再び重みを持って佳乃の身体にのし掛かる。
怖い。
殴られた頬がじんじんと傷む。陶器の破片で切れた掌からは鮮血が滴り、脈打つような痛みを佳乃に訴えていた。
部屋の障子を開けて飛び込む。
逃げ込んだそこは、佳乃の部屋ではない。
(―――桜)
押し入れの中には、よく日干しした布団がきちんと畳まれて入っている。
佳乃はそこに逃げ込むと、襖を閉めて暗闇の中縮こまるようにして自身の体を抱きしめた。
(桜)
震えながら助けを求めるのは、この世界で唯一、佳乃が心を許したもの。
脳裏で微笑む彼の顔がちらついては、頬と掌が訴える痛みが今彼人がここにはいないのだという事実を容赦なく知らせ、強烈な恐怖心を煽る。
(怖い。助けて)
―――血の味がする。血のにおいがする。
フラッシュバックする、己が刀で斬られかけたあの時の光景。
嫌だ、死にたくない。死にたくない。
(桜)
佳乃は着物の襟に震える手を突っ込むと、いつも携帯している懐刀を握りしめた。
(…―――助けて!)
佳乃は手を伸ばす。
けれど、その手を握ってくれる人間はいない。
この世界に、落とされた時と同じ―――。
(一人は、嫌)
その頬には幾筋もの涙が伝っていた。
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