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寺に来てからしばらくの間は、どんな時でも佳乃は桜の側を離れなかった。朝餉の時間になれば桜の隣で茶碗を抱えて飯を食い、その日一日を桜に与えられた仕事の手伝いをしながら過ごす。仕事の内容は様々だった。武器の手入れから洗濯・料理・掃除、その他例を挙げればキリがない。
ともかく、桜は一日の大半を家事に費やしているようだった。曰くこういった雑事は新入りや若い者の仕事らしく、年かさの連中は始終自室に籠もって書や武芸に励んだり、さもなくばこの廃寺を出てしばらく歩いた所にある街に出て女郎と戯れるか、そうやって時間をつぶしている。昔気質の連中や武家出身の者達ほどこういう家事や雑事は男の仕事ではないと忌み嫌って厨に近づこうともしない、と笑いながら言う桜は、自分は農家の出身なのだと佳乃に未だ新しい掌の肉刺の痕を見せながら語った。

桜はここに来てまだ一年も経っていない新入りらしい。己の居た村が攘夷戦争の余波で焼き払われた桜は、天人の襲撃から生き残った所を彼らに拾われた。その時には既に親兄弟の全てが他界しており、燃える天人への復讐心と彼らの恩に報いる為、桜は攘夷戦争への参加を決意した。

だからこそ、似たような状況で拾われてきた佳乃が他人には思えないのだと、桜は言う。

桜は武家の出身ではない。元は桑や鋤を振るっていた人間だ。まともに刀を扱えるようになったのはつい最近の事だと言いながら掌の肉刺を見せられたが、暇な時間が出来る度に竹刀を持って道場代わりの本堂に赴き、他の志士達と鍛錬をしている姿を見れば、彼の剣の腕は荒削りながらもなかなかのものだという事が分かる。戦場に出れば人が変わったように刃を振るい、眉一つ動かすことなく天人を葬り去ると誰か他の志士が噂しているのを小耳に挟んだが、佳乃にはとても、それが真実だとは思えなかった。

―――こんなにも穏やかな表情をする人が。

あの黒い鬼と評判の高杉晋助のお気に入りだとは。

桜は、その後ろ盾と並々ならぬ実力から、他の志士達から一目置かれる存在だ。
戦場ではいつも、高杉晋助率いる鬼兵隊の先駆けとして、高杉と共に先陣を切るというのも聞いている。
『赤鬼』。それが彼の二つ名だ。













桜が佳乃の名を呼ぶ。季節はすっかりと夏を迎えて、群青の空には大きな入道雲がどっしり腰を据えていた。

ばしゃり。

静かな裏庭に水の跳ねる涼しげな音が響く。
照りつける太陽が木陰に斑の模様を落として、地面に跳ね飛んだ井戸水が白い光を反射した。佳乃の顎から塩辛い水滴がしたたり落ちる。

「佳乃!終わったか?」

佳乃が顎を伝う汗を拭い、顔を上げた時、そこには大きな籠を抱えた桜が佇んでいた。こちらも、佳乃と変わらず額に玉のように膨らんだ汗をいくつも貼り付けている。
正午を過ぎて、少しだけ日が西に傾いた今、外気温は恐らく30度前後といった所か。佳乃の居た時代の真夏日よりは、温暖化もアスファルトによるヒートアイランド現象も無いこの時代の夏は幾分か過ごしやすい。しかし、クーラーも冷蔵庫も存在しない時代の夏というのは、現代を生きてきた佳乃にとってはなかなかつらいものだった。
毎日ご飯が食べられるだけでもありがたい時代、アイスが恋しいなんて口が裂けても言えない。

おまけに、洗濯機なんて便利なものも存在しないので、洗濯物は基本的に手洗いだ。
毎日毎日山のように積み上がる洗濯物―――しかも男物の汗くさい―――をすべて洗濯するのは、かなり骨が折れる。
佳乃は今まさに、袴を膝上までたくし上げ、あまり日に焼けていない肌を晒しながら、井戸の横に作られた洗い場で汚れた洗濯物を踏み洗いしている最中だった。
井戸にある屋根のお陰で日陰になっているそこで冷水に足を浸すのは、真夏である今は苦に思わなくとも、冬になったらかなり辛いだろうな、と佳乃は思った。

「さっきの分は干し終わった。それで最後か?」

桜が籠を置いて、井戸の横に屈み込んだ。未だ絞ってもいない、洗っただけの着物を持ち上げて、井戸の水を汲んだ桶の中に突っ込む。

「とりあえず。でも、下着がまだ」

「あ、それは俺が洗う。ったく、あいつら、下着くらい自分で洗えよな…」

佳乃が汚れ物―――籠に積まれた白い褌の山を指さすと、桜は呆れたようにぼりぼりと頭を掻いた。佳乃は別に下着を洗うくらいなんとも思わないのだが、何故か桜は下着を洗わせる事だけは佳乃にさせようとしなかった。曰く、「あんな汚ねーもん、年頃の女の子に洗わせてたまるか!」だそうだ。

(変な所で過保護なんだよなあ…)

「っと、これぐらいか…。佳乃、これ干してきてくれるか」

桜が濯いで固く絞った着物の入った籠を佳乃に差し出す。佳乃は綺麗な水で足を洗って手ぬぐいで拭うと、少し大きめの草履をつっかけてその籠を受け取った。
流石に水を吸った着物が山のように積まれた籠はずっしりと重い。佳乃は一瞬、重さに耐えかねてぐらついた。あ、と佳乃が口を開く前に、桜がその肩を支える。正しく阿吽の呼吸とでも言うべきか、目にも留まらぬ速さのフォローだった。

「大丈夫か?」

至近距離から心配そうな桜の目に覗き込まれて、思わず佳乃の顔が赤くなった。

「だっ…!大丈夫!」

こみ上げる気恥ずかしさに耐えきれず、素早く体勢を立て直した佳乃は籠を抱えたままくるりと九十度回転する。暑さのせいだけではない汗が手に滲んだ。
佳乃はかるく頭を振ると、そのまま全速力でその場を駆けだした。

「足下、気をつけろよー!」

そんな桜の声を背中に聞きながら、佳乃は全力で走った。最早籠が重い事は気にもならない。

違う。
違うのだ、桜のアレは。

佳乃は桜から、自分には年の近い妹が一人居たという話を聞いていた。
五人兄弟の末っ子に生まれた妹で、それまで男にしか恵まれなかった桜の家では蝶よ花よと育てられた、それはそれは可愛らしい妹だったそうだ。―――桜の村が天人に襲われた際に、他の家族同様命を落としてしまったらしいが。
恐らく、桜はその妹と自分を重ねている。佳乃に対してああも過保護な態度を取るのは、まさしくそれが原因だろう。
しかし佳乃は、別にそれが悪い事だとは思っていない。別に、妹と重ねられたからと言って、困ることは無いからだ。
ただ―――佳乃も一応思春期の女子なので、唐突にああいう事をされると、流石に平常心を保つことが出来ない。

「…無自覚、なのか…」

アレは。

佳乃はずらりと干された着物が並ぶ前に立ち止まって、ぽつりと呟いた。
だとしたら相当、タチが悪い。
佳乃は洗濯物の入った籠を置き、ややあって水で冷えた両手で熱を持つ頬を覆った。夏の温い風が髪をさらい、干された洗濯物の間を抜けていく。

その風は、どこか甘い匂いを含んでいた。







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