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佳乃の寝室の裏手には井戸がある。桜はその井戸に、朝餉に使う水を汲みに行く途中だったらしい。流石に大変な目にあったばかりの佳乃をわざわざ起こす気にはなれず、朝餉が出来た頃に呼びに行くつもりだったと桜は井戸に釣瓶を落としながら佳乃に話した。

「朝餉は大概、持ち回りで作ることになってるんだ。今日は俺が当番」

暗い井戸の底に落ちた釣瓶がぱしゃん、という水音を響かせる。上水道が完備された時代に居た佳乃が、実際に使われている井戸を見るのはこれが初めてだった。桜が滑車の先からぶら下がる縄を引けば、なみなみと水を張った釣瓶がカラカラという音を立てながら井戸の中から姿を現す。それを引っ張り上げた桜は、釣瓶の中身を木製の桶に移し替えた。冷えた水が、周囲に飛沫を散らしながら木桶を満たした。

「悪いな、手伝って貰って」

桜が汲んだ水が入った桶を、佳乃が持ち上げる。なかなかの水量が入ったそれは、見た目の割に結構重い。少なくとも、重いものといえば教科書の入ったカバン以外をそうそう持つ事の無かった佳乃にとっては、この桶をもって厨房まで行き来する事は結構な重労働のように思えた。桜はといえば、同じものを右と左にそれぞれ一つずつ抱えて、それでも余裕綽々といった表情をしている。

「実は俺、料理があんまり得意じゃなくてな。俺が作るといつも不評なんだ…」

だから覚悟しておけよ、と桜はカラカラと笑いながら砂利を踏む。佳乃は桶から水がこぼれないよう、慎重に運びながらその後を追った。
朝日はもうかなり高くまで登っていて、先程まで静かだった廃寺はどこからか響いてくる男達の声で僅かに賑やかになっていた。

「この時間、皆は大概本堂で刀を振ってる。あと半刻もしないうちに、あの井戸の周りは汗まみれの野郎でいっぱいになるぞ」

ふうん、と頷きながら、佳乃はこれからはなるべく朝は早起きして、水を使う支度は早いうちに済ませる事を心に誓った。少なくとも、汗くさい男に囲まれながら顔を洗う趣味はない。

「―――ここが厨だ。男所帯なもんで、あんまり綺麗とはいえないが…まあ、煮炊きぐらいはそこそこできる」

案内されたそこは、確かに綺麗とは言えない状態だった。そこかしこに割れた食器が放置され、干からびた野菜の切れ端が足下には転々と転がっている。長年使い込まれてぼろぼろになった木製の流しには洗っていない茶碗がうずたかく積まれ、排水溝にあたる部分を塞いでいた。これでは流しとしての意味がない。男所帯とは、所詮こんなものかという呆れと、それから台所の造りがあまりにも現代とかけはなれているという現状に、佳乃は思わず土間の入り口に立ち尽くした。
土間の入り口、丁度佳乃が立っている左隣には、大きくて長いシルエットの水瓶が二つ並んでいる。桜はその水瓶の中に今し方汲んできた水を流し込むと、木桶を重ねて土間の隅に置いた。

「米はもう炊いてあるんだ。あとは汁物作って、適当におかずを付けてやればいい。確か、魚の干物があった筈だから、それを焼いてくる。お前、アジは好きか?」

土間に三つ作られたかまどには大きな釜がはまっている。桜がフタを空ければむわりと蒸気があがって、中には炊きあがった米がぎっしりと詰まっていた。その匂いに、思わず佳乃の腹が鳴る。そういえば、昨日からなにも口にしていない。
腹の音を聞かれた恥ずかしさに佳乃が赤くなると、桜は笑いながらフタを置いて、水瓶からすくい上げた水でばしゃばしゃと手を洗った。そして近くに据えられた机の上に並べられた小さな壺の中から一つ、丸くて黒い色の壺を掴むと、その中身をつまみ出して掌を数回はたいた。壺から覗く白い結晶は、恐らく塩だろうか。
桜が釜の中の炊きたての米を掌にすくい上げる。そして、両手で何度かかるく握って、米の形を整えた。ややあって、桜はそれを佳乃に差し出す。つややかな光沢。綺麗な三角形。

「俺は料理は不得意だが、握り飯だけはうまいって評判だ。生憎具もなにも入ってないが、炊きたての米ほどうまいものはないと思うぞ」

ほれ、食え、と渡された握り飯は、まだほんのりと温かかった。佳乃はそれを数秒見つめた後、思い切り―――かぶりつく。ふっくらとした米と、さりげないしょっぱさが絶妙で、佳乃は声を出す間もなくそれを完食した。ご丁寧に掌についた米粒まで綺麗に食べる。こんなにおいしいものを食べたのは初めてだ、と佳乃は思った。

生きていてよかった、と本当の意味で実感したのは、その瞬間だったかもしれない。

自分でもよく分からない感情がどっと胸に溢れて、思わずぽろり、とこぼした涙に、桜が「えっ、泣くほどまずかったのか!?」と狼狽する。その姿に、思わず佳乃は笑った。
泣きながら、笑った。







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