09

―――朝のすがすがしい空気に小鳥の囀る声が聞こえてくる。
目が覚めたら、そこには見知らぬ天井が広がっていた。所々朽ちて破れた障子の向こうからうすぼんやりとした朝日が差してくる。

(ああ、そうだ…私)

夢なら良いと思っていた。もしかしたら、目が覚めた時には元の世界に戻っているのではないだろうかと、心のどこかで期待していた。けれど、現実はいつも佳乃を裏切る。ろくに干されていなかったのだろう、湿気た布団にくるまりながら、佳乃は一つ大きなため息をついた。―――起きなければならない。

ごそごそと、布団を這い出す。寝乱れた着物を着直し、癖のついた髪の毛を何度か手櫛で梳きながら、最低限の身だしなみを整えた。
桂から借り受けた着物は、やはり佳乃には少し大きかった。垂れた袖は完全に佳乃の手を隠してしまっていたし、袴は若干床を擦っている。これではあまりに見苦しい。それに、昨晩四苦八苦しながら着てはみたものの、これが正しい着方なのかは佳乃には判断がつかなかった。
誰かに正しい着方と―――それから、可能であればサイズの調整の仕方を教えて貰わなければ。
幸いなことに、佳乃は裁縫が不得手ではない。佳乃の祖母は裁縫が得意な人で、いつも着る洋服を自分で仕立てていた程の人だったから、自然、いつも祖母の仕立てた洋服を貰っていた佳乃も、簡単な洋服を作るくらいの心得はあった。着物の仕立て直しこそはしたことのないものの、簡単なサイズ調整くらいなら出来るはずだ。

―――ここで暮らしていく以上は、何らかの形で労働力を提供しなければならない。

こんな廃寺を拠点とするくらいだ。破れた障子すら修繕できていないのを見る限り、彼らの財布事情はかなり厳しいはず。そこに、ほとんど子供といっていいとはいえ新しく人を一人養わなければならないのだ。とても余裕があるとは言えないこの状況下、それはいかに大変なことだろうか。
ならばせめて、自分は何かの役に立たなければならない。庇護と扶養に見合うだけの対価を。少しでも対等な立場に立たなければ、いつかは切り捨てられてしまうから。

これは、戦いだ。
生きるための。

裁縫でも料理でも雑用でもなんでもいい。生きるためには仕事が必要なのだ。

満で十四にも満たない子供が―――それも平和な時代に甘やかされてきた小娘が何かの役に立てるとは、到底思えない。着物すら一人で着こなす事ができないというのに、自分には一体何ができるというのだろう。

考えろ。
考えなければ、明日明後日にも野垂れ死にだ。

佳乃はそっと朽ちた障子を開けた。立て付けが悪いのか、がたがたという音が響く。
部屋は廊下に面した場所で、障子の向こうには立派な庭があった。いや、正しくは、立派な庭の残骸が。敷き詰められている玉砂利は苔むし、泥にまみれていたし、外壁は朽ちて漆喰が剥げ、所々腐った木の骨組みが覗いていた。その周辺には、枯れた紫陽花の残骸が落ちている。どうやらこちらも、佳乃が元居た世界と同じで梅雨が明けたばかりらしい。
佳乃は裸足のまま、庭の砂利を踏みしめた。朝露にしっとりと濡れた石がひやりとした冷たさを感じさせる。

「―――昨日はよく眠れたか?」

唐突に背後から聞こえてきた声に、佳乃は驚いて振り返った。人の気配など感じなかったというのに、と慌てて声のした方を見れば、そこには同じ年頃か、そうでなければ一つ二つ年上といったところだろうか、赤みがかった黒髪を頬の横で一つに束ねた少年が立っていた。優しげに緩められた瞳と少し低めの鼻が印象的な、柔和な顔立ちの少年だ。その右手には桶が握られていて、少年は空いた方の左手でちょいちょいと佳乃を手招きする。

「俺の着物、すこしでかかったみたいだな。―――悪い、ここには俺より小さい奴はいないんだ。後で針と糸を貸す。しばらくそれで我慢してくれ」

正面に立った少年は、丁度佳乃と頭一つ分と少しくらいの身長差があった。細身ながらもしっかりとついた筋肉が、着物の上からでも見て取れる。どうやら佳乃が今着ている着物は、この少年のものらしい。―――自分には大きいわけだ。

「…ん?ここ、結び方違うぞ。もしかして、袴着たことなかったか?…まあ、女の子だもんなあ。桂さん、ちゃんと説明しなかったのか?…いや、あの人そういうとこ気が利かない人だもんな…。しょうがない、あとで、ちゃんとした着方教えてやるよ」

ちょん、と帯を指さされて、佳乃は袴の結び目を見た。袴の紐には正しい結び方があり、着るときはちょっと面倒くさいという事を弓道部に所属する友人がぼやいてはいたが、実際着てみると本当にちんぷんかんぷんだった。このいやに長い紐をどう回せばいいのか分からず、とりあえず適当に巻いてはみたが、やはりその着方では正しくないらしい。
佳乃は渡された着物が袴で良かったと心底安堵した。男物の着物を着られなくても別段不審には思われなかったようだが、流石に着物を着ることが出来なければおかしな奴だと怪しまれたに違いない。

「あ、自己紹介がまだだったな。俺は桜。染井桜だ。お前の左隣の部屋で寝起きしてるから、何かあったら俺の所に来てくれよな」

桜と名乗った少年が優しげな瞳をきゅっと細めて、穏やかな笑みを浮かべる。―――笑顔が似合う人だとおもった。名に違わず、淡い花弁を開かせた桜を思わせるその笑顔に、佳乃の目は釘付けになる。
佳乃の記憶にある「男の子」は、こんな風に優しげに笑ったりしなかった。
―――人は、こんな風にきれいに笑う事ができるのか。

「…佳乃です。御崎佳乃といいます」

はっと我に返り、こちらも名乗り返した。見とれていた事に気付かれてしまっただろうか。言いようのない恥ずかしさで、思わず鼓動が早くなる。
すると、桜は笑みをより深くして、すっと桶を持っていない方の手を伸ばした。

「佳乃か。あ、俺の事は桜って呼んでくれ。これからよろしくな」

そう言って桜は佳乃の頭をぽんぽんと撫でた。自然と頭が俯く形になり、佳乃は薄く色づいた頬を隠すようにして裸足の足先を見つめる。すると、それに気付いた桜が驚いたように「お前裸足じゃないか!」と叫んで桶を放り出し、あたふたとしながら己の部屋であろう場所に駆け込んでいった。
ぽかんとして数秒そこに佇んでいると、慌てた様子の桜が手に何かを持って駆けつけてくる。

「履き物、無いなら先に言えよな!石で切ったらどうするんだ」

佳乃は別に、履き物を持っていなかった訳ではない。部屋には汚れたセーラー服の傍らに、泥まみれの革靴が揃えて置いてある。ただ、着物に革靴を履くというのもおかしな話だし、第一ここに居る限りはあれらの「異物」はできるだけ人の目につかないよう、封印するつもりだった。

桜が屈み込んで、佳乃の足下に何かを置く。

「ほら、足上げて」

言われるがままに、佳乃は足を少しだけ上げた。桜は佳乃が上げた足のかかとを掴み、足裏についた汚れを軽くはらう。佳乃は思わず息を飲んだ。桜はそんな佳乃の様子などお構いなしに、綺麗になった足にそっと持ってきた草履を履かせる。桜が普段使っているのであろうそれは、佳乃の足には少し大きい。

「ちょっとでかいけど、我慢しろよな。それ、お前にやるから」

佳乃の心臓が大きく鳴った。
庭に吹いた初夏のにおいの風が露に濡れた若葉を揺らし、ざわざわという葉音と自身の鼓動が耳朶を叩く。

「…あ、りがとう」

絞り出すような声でやっと言えた礼を聞き届けた桜は、立ち上がって佳乃に微笑みかけた。
時間が止まったような感覚。
硬直したかのように身体が動かない。―――その瞳に射抜かれたかのように―――反応できない。

その微笑みは、佳乃にとって一生忘れられない微笑みになった。







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