03
佳乃が振り向いた先、そこに居たのは―――まさしく、異形だった。
例えるならばそう、緑色の豚が人の形をとって、鎧を着たらこうなるだろう。その異質な姿は、ゲームに出てくる
怪物そのものだ。
突然の出来事についていけない佳乃をよそに、ソレはニタニタと厭らしい笑みを浮かべる。その姿に、佳乃は生理的な嫌悪感を催した。
―――キモチワルイ。
「上玉だな。隠れてたのか?」
げへ、と下卑た笑いを漏らしながら、ソレは気色の悪い色をした手を佳乃へと伸ばした。
咄嗟の事に反応できない佳乃の髪が乱暴に掴まれ、無理矢理に立たされる。無造作に髪を引っ張られる痛みに表情が歪んだが、相手はそんな佳乃の事など気にも留めていない様子だった。
「さっきの女達はあまり金にならなかったからなぁ」
豚のような姿のばけものが、空いている方の手で顎を擦る。
(さっきの…女達?)
その言葉に、佳乃の頭は一つの結論を生み出した。
どうやら村を襲ったのは、このばけものらしい。よくよく見れば転がる死体は老人や男性のものばかりで、女性のものはほとんど無い。
捕まえて売り飛ばした…そう考えるのが妥当だろう。佳乃の背中に冷たいものが走った。
今、自分はまさしく、そうされようとしている。
鼻と鼻がぶつかりそうなほど、醜悪な顔が近づいてきた。豚そのもの、いや、むしろ豚よりも醜い。汚らわしい。
それは反射的な行動だった。気が付けば目を逸らす寄りも先に、髪を掴む手をはじき飛ばしていた。
「さわるな」
自分でも驚くほどに低い、地を這うような声だった。ぎろりと睨めば、まさかこんな小娘が抵抗してくるとは思っていなかったのだろう。弾かれた手が行き場を無くしてだらりと下がる。
しかしそれもほんの一瞬の事だった。
ばけものは明らかに非力そうな小娘に一瞬でも気圧された事が悔しかったのか、怒気を露わに掴みかかってきた。
「テメェ!!」
なにか汚い言葉を、ばけものが叫ぶ。
頬に衝撃を感じて、次の瞬間には地面に横たわっていた。どうやら殴られたらしい。あまりの痛みにうめき声が漏れた。口の中が金臭い。
「人間の分際で天人様の手を払うたぁ。ちっとは痛い目に遭わないと自分の立場が理解できねえか」
(…あま、んと?)
聞き覚えのある単語に一瞬、思考が停止する。
ばけものはそんな佳乃の様子などおかまいなしに、腰に帯びていた刀をすらりと抜いた。
きっと何人もの人を斬ったのだろう。抜かれた刃は血脂をまいてにぶい光を反射させた。
刃が振り上げられる。
(………あ、れ?…どうして、私、こんなことになってるんだっけ?)
恐怖を感じる間もなかった。何せ状況すら理解できていないのだから。
ゆっくりと、刀が佳乃に迫ってくる。
あれがあたったら、痛いだろうなあ。
そんな暢気な事を考えながら、佳乃は無感動にそれを眺めていた。これはきっと夢だと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
だって、現実味なんかこれっぽっちもなかったのだ。殴られた頬の、痛み以外は。
こんな悪夢、早く醒めてしまえばいい。
振り下ろされた刃が佳乃の身体を切り裂く寸前まで迫る。佳乃は固く目を瞑った。
次に目を開いたときは、この悪夢から目覚めていますようにと。
―――肉を断ついやな音が響いた。ああ、死んだな、と佳乃は己の死を確信する。
しかし、妙だった。刀で斬られた筈なのに衝撃も、痛みすら感じない。
やはり、夢だったのだ。
言いようのない安堵感に包まれ、佳乃はうっすらと微笑みながらゆっくりと目を開く。
その瞬間だった。
生暖かい血飛沫がぶしゃ、と勢いよく顔に掛かった。
「…、え?」
ぐらり、と眼前の巨体が揺らめいた。ゆるやかな動きで、ばけものは佳乃の足元に崩れ落ちる。
頸筋から赤黒い血を噴き出しながら、足元に血の海を作るばけものは、既に絶命していた。まるで信じられないとでもいうように、見開いたままの充血した目がぴくぴくと痙攣しながら血まみれの佳乃を映す。
顔面にべっとりと張り付いた生暖かい血液が頬を滑り落ちていくのを感じ、佳乃は両手で口元を覆った。
殆ど反射的に胃袋からせり上がってきたものをこらえる為に。
びちゃり。
不意に、血溜まりを踏む音が響いて、佳乃の上に影が差した。次いで、視界に入ってきたのは真白の羽織。
思わず顔を上げた視線の先には、銀髪に白い羽織を着た男が居た。
「…オイ、大丈夫か?」
今度こそ。
今度こそ、佳乃は衝撃のあまり目を見開いた。
その銀髪の男の顔が、佳乃にとってあまりにも見知った顔だったからだ。
絶命して尚、切り裂かれた傷口から噴水のように血を流し続けるばけものの死体を踏み超え、銀色の髪にべっとりと血飛沫を貼り付けた男は、腰を抜かして座り込む佳乃に手を伸ばす。
「もう大丈夫だ」
混乱で、頭がどうにかなりそうだった。
白の羽織に返り血を帯びながら佇むその男の顔は、佳乃が昔読んだ事のある漫画の主人公―――…『坂田銀時』そのものだった。
「なん、で…」
もうその世界が夢だとは、言い切れなかった。
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