02
地獄というものが存在しているとするのならば、きっとここは地獄なのだろう。
眼前に広がるその光景に、佳乃はしばし放心した。
―――コレハ、ナンダ?
何かが焦げたかのような、嫌な臭いの混じる生温い風。冷たく乾いた土。墨を零したかのような重苦しい曇天の空。
まるで夕方から夜に移り変わるような暗さの中で身体を赤々と照らすのは、ばちばちと黒い煙を上げながら爆ぜる炎だ。
「…ここは…」
そこは血生臭い風が吹き荒れ、かすかに燃える焔が残る荒野だった。
*
佳乃の記憶が正しければ、自分は中学校の屋上から落ちた筈だった。
親友である歩菜、晴美、麗美と、いつものように貸切状態の屋上で昼食をとって、その後しばらく惰眠を貪り、それから…。
それから…それから、そう、何気なく起きあがって、錆びたフェンスに指を絡めながらいつもと変わらぬ街の風景を眺めていた。
―――そして。
その時運悪く、晴美と麗美が眺めていたプリクラが風にさらわれたのだ。
思わずプリクラを掴もうと立ち上がり、バランスを崩した晴美の身体がフェンスにぶつかる。老朽化と、例年より長く続いた梅雨の影響で腐食が進んだ為、近々工事が予定されていたそのフェンスは、二人分の体重に負けてあっさりと折れ、そのまま屋上から落下した。
指をからめてもたれ掛かっていた佳乃と共に。
歩菜が慌てて差し伸べた手は空を切り、そして佳乃は―――…
「私は………死んだ………?」
最後に見たものは、包み込むような青。そして、暗く閉ざされた視界。
信じられなかった。
死後の世界というには、この場所はあまりに現実味を帯びすぎていたし、頬を摘めば痛みも感じる。息を止めれば苦しい。本当に死んでいるのなら呼吸なんてものは必要ないはずだ。
(つまり私は―――生きている?)
それなら、この状況はなんだというのだろう?
答えを探すように、佳乃は立ち上がった。一歩一歩、感触を確かめるように荒れた土を踏みしめる。
しかし歩けば歩くほど―――現状を把握すれば把握するほど、非現実感は増していった。
どうやらここは、ただの荒野ではないらしい。倒壊し、燃やし尽くされ黒く焦げた木製の建物達を見る限りでは、ここはつい最近まで村や集落のようなものだったようだ。
ふらふらと、転がる墨と化した木片を避けながら、さらに先に進めば、そこには人が倒れていた。
人影。
思わず走り寄って―――そして足を止める。
荒れた土の上に広がる、どす黒い赤。視線の先には、粗末な着物を身に纏った血塗れの男の死体が転がっていた。死体の虚ろな瞳がじっと佳乃の爪先を見据えている。佳乃は思わず口元を押さえた。
死体はそれだけではない。絵の具をぶちまけたような赤色の中には、数多の屍が横たわっていた。血の色を見る限り、それらが斬られて間もない事が分かる。
燃えさかる炎と、黒焦げの建物。累々と転がる屍。
―――地獄絵図。その光景を一言で表すとするならば、まさしくそれだと思った。
「なにこれ」
吐き気を催すよりも先に、恐ろしさを感じるよりも先に、ただ、呆然とする。
まるで映画でも見ているかのような気分だった。
広がる光景があまりにリアルすぎて、逆に本物だと信じられない。
―――これは一体何なのだろう?
(違う)
ここは、違う。
(私が生きていた世界と、違う)
ゆるゆると足の力が抜ける。きっちりとアイロンをかけられたプリーツのスカートが砂埃と血で汚れるのも構わず、佳乃は地面に座り込んだ。
そして、途方に暮れた。
一体これからどうしろというのか。佳乃は膝を抱え込んで、ぐっと目を閉じる。そんな行為に意味があるとは思っていない。だが、そうするより他にできることもなかった。生温く血生臭い風が纏わりついて離れない。
―――どれぐらい、そのままでいただろう。
ふと、気が付いた時、佳乃の上に影が出来た。
「…オイ」
低い男の声だった。人の声に、急速に失っていた感覚が戻ってくる。
気付けば、あれほどに燃えさかっていた炎は燃やすものを失ってその勢いを失わせていた。転がる死体の所々にカラスが降りてきて、その新鮮な死肉を啄み始めている。血を吸った土は黒い泥と化し、粘る足音が耳についた。
「まだ生き残ってる人間がいたのか」
佳乃は己の背後に立った影の持ち主の方へゆっくりと顔を上げ、振り向いた。
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