01
死は唐突にやって来る。
たとえばそれが今日であったとして―――私に一体、何が出来たというのだろう?
人は皆すべからく、運命とか、偶然とか、そういう名前の不確定要素に、何時だって左右される。
そこに例外などありはしない。
でも、その時が訪れるまで、私はそれを知らなかった。いつまでもこの平凡で普遍的な日常が、この先もずっと続いていくと、馬鹿みたいにそう信じていたのだ。
―――そんな事はあり得ない。
そう言って空は嗤いながら、縋るように伸ばされた私の手を突き放す。
ひび割れた灰色のコンクリートに吸い寄せられながら、私は今更に、それが“現実”なのだと知った。
―――知った時には、全てがもう遅すぎた。
*
それは佳乃にとって、あまりにも唐突な出来事だった。
バキリという無機質な音が指を絡めていたフェンスから響く。何が起こったかを認識する間もなく、身体が宙に放り出された。
数秒前まで確かにコンクリートの床を踏みしめていた筈の足は空中に投げ出され、縋るように己に向かって伸ばされた友の手は、あと数センチの所ですり抜ける。
追いすがる指が見る間に遠ざかり、折れたフェンスと共に空に投げ出された身体は、あとは地面にぶつかって潰れるのを待つのみだ。
どうしてこんなことになったのか。
考えるまでもない。老朽化と連日の雨で腐食したフェンスが、足を滑らせた友人がぶつかった事によって折れた―――…それも偶然、フェンスに寄りかかって空を眺めていた佳乃を巻き込む形で。
まるでスローモーションのようにゆっくりと、しかし確実に、空が遠くなっていく。
死ぬ。
それも、あと数秒で。
信じられない、という思いで埋め尽くされた佳乃の頭にも、それぐらいの事は理解できた。
(死ぬ?…私が?)
―――半ば惰性のように生きてきた十余年を振り返って、佳乃の頭にまず最初に思い浮かんだのは両親の顔だった。
佳乃の事を慈しみ、大切に育ててくれた両親。意見のすれ違いで喧嘩をする事もあった。近頃は口うるさい所もあって疎んじてすらいた。けれど、それは佳乃の事を大切に思ってくれているからこその事だ。だからきっと、佳乃が死ねば彼らは悲しむだろう。
思い返せばくだらない口喧嘩ばかりで、まだ育ててくれた恩すらまともに返していない。
別れの言葉すら、伝えることのできないまま。
死ぬ。
―――ああ、自分はなんという親不孝者なのだろうか。
抜けるような青い空が目に痛い。
佳乃はいつも、自分の日常が退屈なことを嘆いていた。
毎日毎日、家と学校を行き来して、つまらない授業を受けて、友人とたあいのない会話をする―――同じことの繰り返し。
うんざりしていた。
こんな事がこれから先ずっと続いていくのかと悲嘆した。『私の人生はなんてくだらないものなのだろうか』と―――。
―――これは、その罰なのだろうか?
与えられるものだけを享受し、流れに身を任せるだけの日々を、くだらない、退屈だと罵った。
馬鹿だ。
どうして気付かなかった。
何故。
これから先の事なんて―――誰も知る術など持たないというのに。
(…こんな結末…)
嫌だ。
知りもしない未来を貶め、これまでを怠惰に過ごし、不満ばかりを零していた事が罪だというのなら、何度でも謝罪しよう。
お願いです神様。―――神なんてものを信じたことはないけど、もしも本当に存在するのなら―――もう退屈だなんて言わない。くだらなくてもなんでもいい。
どうか、人生を数秒前まで戻してほしい。
いつの日だったか友人達と四人で撮ったプリクラが、ひらりひらりと桜の花びらのように佳乃の目の前で散っていく。
蜂蜜色の髪を二つに束ねた少女が微笑みを浮かべている―――…ああ、そうか、あの子は、風で飛び散ったこれを追いかけて、そして足を滑らせた。
でも、あの子は間に合った。
あの子は、伸ばされた手を掴むことが出来た。
佳乃の視線の先には、屋上から落ちかけて宙にぶらさがる蜂蜜色の髪の少女と、その手を掴んで引き戻そうとする二人の少女の姿があった。
ああ、でも、だめだ。
あんな不安定な場所で、あんな不安定な足場で。
長い年月によってぼろぼろになったコンクリートが重みに耐えかね、ぼろりと崩れる。
落ちる。
―――たぶん、助からない。
自分も、彼女達も。
いやに冷静な頭で、佳乃はそれを見ていた。飛び散ったプリクラの一枚が、眼前を過ぎる。四角く切り取られた枠の中では、今まさに生死の境に居る少女達が微笑んでいた。
―――彼女たちは何が楽しかったんだろう?何が楽しくて笑っていたんだろう?
死ぬ前に走馬燈を見るというのは、本当の事だったらしい。
しかし、脳裏を駆けめぐる己の短い一生の記憶のリピートは。
―――なんて、下らないんだろうか。
真っ白な頭の中で、自分であって自分でない何かが囁いた。
生きたい。まだ死にたくないと。
本能に従って、佳乃は叫んだ。
悲鳴とも咆哮ともつかない、絞り出すような声の絶叫だった。
お願い、誰か、この無情な現実から。
「…助けて…!!」
(空が、私を見て笑った気がした)
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